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庚申信仰
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現在までに伝わる庚申信仰(こうしんしんこう)とは、中国道教の説く「三尸説(さんしせつ)」をもとに、仏教とくに密教・神道・修験道・呪術的な医学や、日本の民間のさまざまな信仰や習俗などが複雑にからみあった複合信仰である。
庚申 [編集]
庚申とは、「干支(かんし、えと)」すなわち「十干(じっかん)」・「十二支(じゅうにし)」の組み合わせの一つである。十干とは、甲(きのえ)・乙(きのと)・丙(ひのえ)・丁(ひのと)・戊(つちのえ)・己(つちのと)・庚(かのえ)・辛(かのと)・壬(みずのえ)・癸(みずのと)である。また十二支とは、子(ね)・丑(うし)・寅(とら)・卯(う)・辰(たつ)・巳(み)・午(うま)・未(ひつじ)・申(さる)・酉(とり)・戌(いぬ)・亥(い)であり、干支は都合60通りの組み合わせで表される。
陰陽五行説では、十干の庚は陽の金、十二支の申は陽の金で、比和(:同気が重なる)とされている。干支であるので、年(西暦年を60で割り切れる年)をはじめ、月(西暦年の下1桁が3・8(十干が癸・戊)の年の7月)、さらに日(60日ごと)がそれぞれに相当する。庚申の年・日は金気が天地に充満して、人の心が冷酷になりやすいとされた。庚申に続く辛酉も金性が重なり、かつ辛は陰の気なので冷酷さがより増すとされた。
庚申信仰 [編集]
具体的には、庚申の日に禁忌(きんき)行事を中心とする信仰があり、日本には古く上代に体系的ではないが移入されたとされている。『入唐求法巡礼行』838年(承和5年)11月26日の条に〈夜、人みな睡らず。本国正月庚中の夜と同じ〉とあり、おそらく8世紀末には「守庚申(しゅこうしん)」と呼ばれる行事が始まっていたと思われる。すなわち守庚申とは、庚申の夜には謹慎して眠らずに過ごすという行いである。
歴史 [編集]
平安時代の貴族社会においては、この夜を過ごす際に、碁・詩歌・管弦の遊びを催す「庚申御遊(こうしんぎょゆう)」と称する宴をはるのが貴族の習いであった。9世紀末から10世紀の頃には、庚申の御遊は恒例化していたらしい。やがて時には酒なども振る舞われるようになり、庚申本来の趣旨からは外れた遊興的な要素が強くなったようである。 鎌倉・室町時代になると、この風習は上層武士階級へと拡がりを見せるようになった。『吾妻鏡』(鎌倉幕府の記録書)にも守庚申の記事が散見される。また資料としてはやや不適切かとも思われるが、『柏崎物語』によると織田信長をはじめ柴田勝家ら重臣20余人が揃って庚申の酒席を行ったとある。さらに度々途中で厠に立った明智光秀を鎗を持って追いかけ、「いかにきんかん頭、なぜ中座したか」と責めたともある。
やがて守庚申は、庚申待(こうしんまち)と名を変え、一般の夜待と同じように会食談義を行って徹宵する風習として伝わった。庚申待とは、“庚申祭”あるいは“庚申を守る”の訛ったものとか、当時流行していた“日待・月待”といった行事と同じく、夜明かしで神仏を祀ることから「待」といったのではないかと推測される。(いにしえのカミ祀りは夜に行うものであった。)
庚申待が一般に広まったのがいつ頃かは不明だが、15世紀の後半になると、守庚申の際の勤行や功徳を説いた『庚申縁起』が僧侶の手でつくられ、庚申信仰は仏教と結びついた。仏教と結びついた信仰では、諸仏が本尊視され始めることになり、行いを共にする「庚申講」が組織され、講の成果として「庚申塔」の前身にあたる「庚申板碑」が造立されだした。また「日吉(ひえ)山王信仰」とも習合することにより、室町時代の後期から建立が始まる「庚申(供養)塔」や「碑」には、「申待(さるまち)」と記したり、山王の神使である猿を描くものが著しくなる。
このように本来の庚申信仰は、神仏習合の流れの中で、猿を共通項にした新たな信仰へと変化していることが伺われる。つまり神なり仏なりを供養することで禍から逃れ、現世利益を得ようとするものである。やがては宮中でも、庚申の本尊を祀るという形へと変化がみられるようになった。
仏教式の庚申信仰が一般に流布した江戸時代は、庚申信仰史上最も多彩かつ盛んな時期となった。大正時代以降は急速にその信仰が失われた。
ちなみに仏教では庚申の本尊を、青面金剛および帝釈天に、神道では猿田彦神としている場合が多い。これは庚申の「申」が猿田彦の猿と結び付けられたものと考えられる。また猿が庚申の使いとされ、庚申塔には「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿が彫られることが多かった。
いずれにせよ、この夜慎ましくして眠らずに過ごすという概念は、比較的受け継がれている。また男女同床せぬとか、結婚を禁ずるとか、この日結ばれてできた子供に盗人の性格があると恐れられたりする因習もある。また地域によっては、同志相寄って催す講も続けられている。それらは互助機関として機能したり、さらには村の常会として利用されたりすることもある。
この「庚申信仰」は、仏教関連の書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正して下さる協力者を求めています(ポータル 仏教/ウィキプロジェクト 仏教)。
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庚申待
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庚申待(こうしんまち)とは、日本の民間信仰で、庚申の日に神仏を祀って徹夜をする行事である。宵庚申、おさる待ちなどともいう。庚申待は通常、村単位など集団で行われ、その集り(講)のことを庚申講(こうしんこう)、庚申会(こうしんえ)、お日待ちなどという。
概要 [編集]
庚申待は中国の民俗宗教である道教の伝説に基づくものである。人間の頭と腹と足には三尸(さんし)の虫(彭侯子・彭常子・命児子)がいて、いつもその人の悪事を監視しているという。三尸の虫は庚申の日の夜の寝ている間に天に登って天帝(「閻魔大王」とも言う)に日頃の行いを報告し、罪状によっては寿命が縮められたり、その人の死後に地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕とされると言われていた。そこで、三尸の虫が天に登れないようにするため、この夜は村中の人達が集まって神々を祀り、その後、寝ずに酒盛りなどをして夜を明かした。これが庚申待である。庚申待を3年18回続けた記念に建立されたのが庚申塔で、今も各地に残っている。
日本には古くから伝わっていたものと考えられており、『枕草子』にも庚申待の話が登場する。江戸時代に入ってから、民間にも広まった。庚申信仰は今では廃れたが、親睦会などに名前を変えて今でも庚申待を行っている地方もある。
仏教では、庚申の本尊を青面金剛および帝釈天に、神道では猿田彦神としている。これは、庚申の「申」が猿田彦の猿と結び付けられたものと考えられる。また、猿が庚申の使いとされ、庚申塔には「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿が彫られることが多かった。山王信仰(三猿信仰)もここから生まれたとされている。
関連項目 [編集]
庚申信仰
干支
庚申街道
庚申堂
庚申寺
十王信仰
さるぼぼ
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庚申待(こうしんまち)とは、日本の民間信仰で、庚申の日に神仏を祀って徹夜をする行事である。宵庚申、おさる待ちなどともいう。庚申待は通常、村単位など集団で行われ、その集り(講)のことを庚申講(こうしんこう)、庚申会(こうしんえ)、お日待ちなどという。
概要 [編集]
庚申待は中国の民俗宗教である道教の伝説に基づくものである。人間の頭と腹と足には三尸(さんし)の虫(彭侯子・彭常子・命児子)がいて、いつもその人の悪事を監視しているという。三尸の虫は庚申の日の夜の寝ている間に天に登って天帝(「閻魔大王」とも言う)に日頃の行いを報告し、罪状によっては寿命が縮められたり、その人の死後に地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕とされると言われていた。そこで、三尸の虫が天に登れないようにするため、この夜は村中の人達が集まって神々を祀り、その後、寝ずに酒盛りなどをして夜を明かした。これが庚申待である。庚申待を3年18回続けた記念に建立されたのが庚申塔で、今も各地に残っている。
日本には古くから伝わっていたものと考えられており、『枕草子』にも庚申待の話が登場する。江戸時代に入ってから、民間にも広まった。庚申信仰は今では廃れたが、親睦会などに名前を変えて今でも庚申待を行っている地方もある。
仏教では、庚申の本尊を青面金剛および帝釈天に、神道では猿田彦神としている。これは、庚申の「申」が猿田彦の猿と結び付けられたものと考えられる。また、猿が庚申の使いとされ、庚申塔には「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿が彫られることが多かった。山王信仰(三猿信仰)もここから生まれたとされている。
関連項目 [編集]
庚申信仰
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庚申
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干支
1
甲子 2
乙丑 3
丙寅 4
丁卯 5
戊辰 6
己巳 7
庚午 8
辛未 9
壬申 10
癸酉
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甲戌 12
乙亥 13
丙子 14
丁丑 15
戊寅 16
己卯 17
庚辰 18
辛巳 19
壬午 20
癸未
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甲申 22
乙酉 23
丙戌 24
丁亥 25
戊子 26
己丑 27
庚寅 28
辛卯 29
壬辰 30
癸巳
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甲午 32
乙未 33
丙申 34
丁酉 35
戊戌 36
己亥 37
庚子 38
辛丑 39
壬寅 40
癸卯
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甲辰 42
乙巳 43
丙午 44
丁未 45
戊申 46
己酉 47
庚戌 48
辛亥 49
壬子 50
癸丑
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甲寅 52
乙卯 53
丙辰 54
丁巳 55
戊午 56
己未 57
庚申 58
辛酉 59
壬戌 60
癸亥
庚申(かのえさる、こうしん)は、干支の一つ。
干支の組み合わせの57番目で、前は己未、次は辛酉である。陰陽五行では、十干の庚は陽の金、十二支の申は陽の金で、比和である。
目次 [非表示]
1 庚申の年
2 庚申の月
3 庚申の日
3.1 選日
4 関連項目
庚申の年 [編集]
西暦と神武暦では、60の倍数の年が庚申の年となる。
庚申は干・支ともに金性であることから、庚申の年・日は金気が天地に充満して、人の心が冷酷になりやすいとされた。庚申に続く辛酉も金性が重なり、かつ辛は陰の気なので冷酷さがより増すとされた。そのため、庚申・辛酉は政治的変革が起こるとされ、それを防ぐために2年続けて改元が行われることも多かった。例えば万延元年(1860年)と文久元年(1861年)などである。
庚申の年 1千年紀 2千年紀 3千年紀
60年
120年
180年
240年
300年
360年
420年
480年
540年
600年
660年
720年
780年
840年
900年
960年
1020年
1080年
1140年
1200年
1260年
1320年
1380年
1440年
1500年
1560年
1620年
1680年
1740年
1800年
1860年
1920年
1980年
2040年
2100年
2160年
2220年
2280年
2340年
2400年
2460年
2520年
2580年
2640年
2700年
2760年
2820年
2880年
2940年
3000年
庚申の月 [編集]
西暦年の下1桁が3・8(十干が癸・戊)の年の7月が庚申の月となる。ただしここでいう月は、旧暦の月や節月(立秋から白露の前日まで)を適用する場合もある。
庚申の日 [編集]
庚申の日には庚申待(庚申講)が行われた。庚申信仰を参照。
庚申の日は帝釈天の縁日である。
選日 [編集]
庚申の日は八専の6日目(間日を除く)である。
関連項目 [編集]
柴又帝釈天
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干支
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甲子 2
乙丑 3
丙寅 4
丁卯 5
戊辰 6
己巳 7
庚午 8
辛未 9
壬申 10
癸酉
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甲戌 12
乙亥 13
丙子 14
丁丑 15
戊寅 16
己卯 17
庚辰 18
辛巳 19
壬午 20
癸未
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甲申 22
乙酉 23
丙戌 24
丁亥 25
戊子 26
己丑 27
庚寅 28
辛卯 29
壬辰 30
癸巳
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甲午 32
乙未 33
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丁酉 35
戊戌 36
己亥 37
庚子 38
辛丑 39
壬寅 40
癸卯
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甲辰 42
乙巳 43
丙午 44
丁未 45
戊申 46
己酉 47
庚戌 48
辛亥 49
壬子 50
癸丑
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甲寅 52
乙卯 53
丙辰 54
丁巳 55
戊午 56
己未 57
庚申 58
辛酉 59
壬戌 60
癸亥
庚申(かのえさる、こうしん)は、干支の一つ。
干支の組み合わせの57番目で、前は己未、次は辛酉である。陰陽五行では、十干の庚は陽の金、十二支の申は陽の金で、比和である。
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1 庚申の年
2 庚申の月
3 庚申の日
3.1 選日
4 関連項目
庚申の年 [編集]
西暦と神武暦では、60の倍数の年が庚申の年となる。
庚申は干・支ともに金性であることから、庚申の年・日は金気が天地に充満して、人の心が冷酷になりやすいとされた。庚申に続く辛酉も金性が重なり、かつ辛は陰の気なので冷酷さがより増すとされた。そのため、庚申・辛酉は政治的変革が起こるとされ、それを防ぐために2年続けて改元が行われることも多かった。例えば万延元年(1860年)と文久元年(1861年)などである。
庚申の年 1千年紀 2千年紀 3千年紀
60年
120年
180年
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300年
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2220年
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2340年
2400年
2460年
2520年
2580年
2640年
2700年
2760年
2820年
2880年
2940年
3000年
庚申の月 [編集]
西暦年の下1桁が3・8(十干が癸・戊)の年の7月が庚申の月となる。ただしここでいう月は、旧暦の月や節月(立秋から白露の前日まで)を適用する場合もある。
庚申の日 [編集]
庚申の日には庚申待(庚申講)が行われた。庚申信仰を参照。
庚申の日は帝釈天の縁日である。
選日 [編集]
庚申の日は八専の6日目(間日を除く)である。
関連項目 [編集]
柴又帝釈天
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柴又駅
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柴又駅
駅舎(2005年4月)
しばまた - Shibamata
◄京成高砂 (1.0km)(1.5km) 京成金町►
所在地 東京都葛飾区柴又四丁目8番14号
所属事業者 京成電鉄
所属路線 金町線
キロ程 1.0km(京成高砂起点)
駅構造 地上駅
ホーム 相対式 2面2線
乗降人員
-統計年度- 9,715人/日
-2008年-
開業年月日 帝釈人車鉄道→帝釈人車軌道:
1899年(明治32年)12月17日
京成電気軌道→京成電鉄:
1912年(大正元年)11月3日
この表について[表示]この表はテンプレートを用いて表示しています。編集の仕方はTemplate:駅情報をごらんください。
柴又駅(しばまたえき)は、東京都葛飾区柴又四丁目にある京成電鉄金町線の駅。
目次 [非表示]
1 駅構造
1.1 のりば
2 利用状況
3 駅周辺
4 路線バス
5 歴史
6 隣の駅
7 その他
8 関連項目
9 外部リンク
駅構造 [編集]
相対式ホーム2面2線を有する地上駅。ホーム有効長は6両編成分であるが、発着する列車はすべて4両編成である。高砂方が複線、金町方が単線となっている。
駅舎は高砂方面ホーム側にある。改装時には山田洋次の意見も得て、純和風の外観となった。金町方面ホームとは構内踏切により連絡している。多客時には金町方面ホーム側の臨時改札口も併用される。
のりば [編集]
1 ■■金町線 京成高砂・京成上野・押上方面
2 ■■金町線 京成金町方面
利用状況 [編集]
2008年度の1日平均乗降人員は9,715人である。
駅周辺 [編集]
駅前に立つ車寅次郎の銅像(柴又駅)周辺は山田洋次が監督し、渥美清が主演した劇映画『男はつらいよ』の舞台となった。
駅前では渥美清が演じた「寅さん」(車寅次郎)の銅像がある。この銅像は渥美清の死により『男はつらいよ』シリーズが終了したことにより、「寅さん」および渥美清をたたえて立てられたものである。駅前から始まる参道を抜けると柴又帝釈天があり、年始や庚申の日には多くの参拝客でにぎわう。この辺りは住宅などの密集地の上、道路の道幅は狭く余裕がない。
東京都水道局金町浄水場
題経寺(柴又帝釈天)
葛飾区観光文化センター
葛飾柴又寅さん記念館
葛飾区山本亭
柴又八幡神社
江戸川
矢切の渡し柴又側船着場 - 駅から帝釈天周辺を経由する必要があり、最短でも徒歩で11分程度である。混雑時に参道を通る場合はそれ以上かかるが、それでも矢切側を含めて当駅が最寄駅である。
葛飾区柴又区民サービスコーナー
柴又地域センター
葛飾柴又郵便局
葛飾柴又一郵便局
路線バス [編集]
柴又帝釈天バス停
京成バス
金町駅方面
小55 金町駅、小56 戸ヶ崎操車場(金町駅経由)
小岩駅方面
[小55][小56] 小岩駅(新柴又駅・京成小岩駅入口経由)
※金町線列車より本数が多い。
歴史 [編集]
帝釈人車鉄道
1899年(明治32年)12月17日 - 帝釈人車鉄道(後の帝釈人車軌道)の駅として開業。
京成
1912年(大正元年)11月3日 - 京成電気軌道の駅として開業。開業当時は終点であった。
1913年(大正2年)10月21日 - 柴又 - 金町(後の京成金町駅)間延伸により中間駅になる。
1945年(昭和20年) - 社名変更により京成電鉄の駅となる。
1997年(平成9年) - 「関東の駅百選」に選定。選定理由は「ご存知寅さんの『男はつらいよ』の雰囲気を考慮した瓦葺き風の駅舎」。
1962年に松戸駅から当駅までの延伸の敷設免許が新京成電鉄に下りたが、一部用地が取得できず実現しないまま1970年代までに免許失効した。
隣の駅 [編集]
■■京成電鉄
金町線
京成高砂駅 - 柴又駅 - 京成金町駅
その他 [編集]
『男はつらいよ』シリーズのほぼ全作に登場するため、車両や駅の変遷を映像からたどることができる。
関連項目 [編集]
日本の鉄道駅一覧
こちら葛飾区亀有公園前派出所
外部リンク [編集]
京成電鉄柴又(時刻表)
京成バス柴又帝釈天バス停時刻表
葛飾区観光サイト柴又 - 駅周辺の画像など多数
[隠す] 金町線
(京成上野・青砥方面<<)京成高砂 - 柴又 - 京成金町
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柴又駅
駅舎(2005年4月)
しばまた - Shibamata
◄京成高砂 (1.0km)(1.5km) 京成金町►
所在地 東京都葛飾区柴又四丁目8番14号
所属事業者 京成電鉄
所属路線 金町線
キロ程 1.0km(京成高砂起点)
駅構造 地上駅
ホーム 相対式 2面2線
乗降人員
-統計年度- 9,715人/日
-2008年-
開業年月日 帝釈人車鉄道→帝釈人車軌道:
1899年(明治32年)12月17日
京成電気軌道→京成電鉄:
1912年(大正元年)11月3日
この表について[表示]この表はテンプレートを用いて表示しています。編集の仕方はTemplate:駅情報をごらんください。
柴又駅(しばまたえき)は、東京都葛飾区柴又四丁目にある京成電鉄金町線の駅。
目次 [非表示]
1 駅構造
1.1 のりば
2 利用状況
3 駅周辺
4 路線バス
5 歴史
6 隣の駅
7 その他
8 関連項目
9 外部リンク
駅構造 [編集]
相対式ホーム2面2線を有する地上駅。ホーム有効長は6両編成分であるが、発着する列車はすべて4両編成である。高砂方が複線、金町方が単線となっている。
駅舎は高砂方面ホーム側にある。改装時には山田洋次の意見も得て、純和風の外観となった。金町方面ホームとは構内踏切により連絡している。多客時には金町方面ホーム側の臨時改札口も併用される。
のりば [編集]
1 ■■金町線 京成高砂・京成上野・押上方面
2 ■■金町線 京成金町方面
利用状況 [編集]
2008年度の1日平均乗降人員は9,715人である。
駅周辺 [編集]
駅前に立つ車寅次郎の銅像(柴又駅)周辺は山田洋次が監督し、渥美清が主演した劇映画『男はつらいよ』の舞台となった。
駅前では渥美清が演じた「寅さん」(車寅次郎)の銅像がある。この銅像は渥美清の死により『男はつらいよ』シリーズが終了したことにより、「寅さん」および渥美清をたたえて立てられたものである。駅前から始まる参道を抜けると柴又帝釈天があり、年始や庚申の日には多くの参拝客でにぎわう。この辺りは住宅などの密集地の上、道路の道幅は狭く余裕がない。
東京都水道局金町浄水場
題経寺(柴又帝釈天)
葛飾区観光文化センター
葛飾柴又寅さん記念館
葛飾区山本亭
柴又八幡神社
江戸川
矢切の渡し柴又側船着場 - 駅から帝釈天周辺を経由する必要があり、最短でも徒歩で11分程度である。混雑時に参道を通る場合はそれ以上かかるが、それでも矢切側を含めて当駅が最寄駅である。
葛飾区柴又区民サービスコーナー
柴又地域センター
葛飾柴又郵便局
葛飾柴又一郵便局
路線バス [編集]
柴又帝釈天バス停
京成バス
金町駅方面
小55 金町駅、小56 戸ヶ崎操車場(金町駅経由)
小岩駅方面
[小55][小56] 小岩駅(新柴又駅・京成小岩駅入口経由)
※金町線列車より本数が多い。
歴史 [編集]
帝釈人車鉄道
1899年(明治32年)12月17日 - 帝釈人車鉄道(後の帝釈人車軌道)の駅として開業。
京成
1912年(大正元年)11月3日 - 京成電気軌道の駅として開業。開業当時は終点であった。
1913年(大正2年)10月21日 - 柴又 - 金町(後の京成金町駅)間延伸により中間駅になる。
1945年(昭和20年) - 社名変更により京成電鉄の駅となる。
1997年(平成9年) - 「関東の駅百選」に選定。選定理由は「ご存知寅さんの『男はつらいよ』の雰囲気を考慮した瓦葺き風の駅舎」。
1962年に松戸駅から当駅までの延伸の敷設免許が新京成電鉄に下りたが、一部用地が取得できず実現しないまま1970年代までに免許失効した。
隣の駅 [編集]
■■京成電鉄
金町線
京成高砂駅 - 柴又駅 - 京成金町駅
その他 [編集]
『男はつらいよ』シリーズのほぼ全作に登場するため、車両や駅の変遷を映像からたどることができる。
関連項目 [編集]
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柴又帝釈天
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柴又帝釈天
帝釈堂(2005年撮影)
所在地 東京都葛飾区柴又七丁目10番3号
位置 北緯35度45分30.24秒
東経139度52分41.52秒
山号 経栄山
宗派 日蓮宗
本尊 大曼荼羅
創建年 寛永6年(1629年)
開基 禅那院日忠、題経院日栄
正式名 経栄山 題経寺
表・話・編・歴
柴又帝釈天(しばまたたいしゃくてん)は、東京都葛飾区柴又七丁目にある日蓮宗の寺院の通称である。正式の山号寺号は経栄山題経寺(きょうえいざん だいきょうじ)である。 尚、「帝釈天」とは本来の意味では仏教の守護神である天部の一つを指すが、日本においてはこの柴又帝釈天を指す場合も多い。
目次 [非表示]
1 概要
2 歴史
3 境内
4 交通
5 関連項目
6 外部リンク
概要 [編集]
江戸時代初期(17世紀前半)の寛永6年(1629年)に禅那院日忠および題経院日栄という2名の僧によって開創された日蓮宗寺院である。18世紀末、9世住職の日敬(にっきょう)の頃から当寺の帝釈天が信仰を集めるようになり、「柴又帝釈天」として知られるようになった。帝釈天の縁日は庚申の日とされ、庚申信仰とも関連して多くの参詣人を集めるようになった。
近代以降も夏目漱石の『彼岸過迄』をはじめ多くの文芸作品に登場し、東京近郊(当時は東京ではなかった)の名所として扱われた。20世紀後半以降は、人気映画シリーズ『男はつらいよ』の渥美清演じる主人公・車寅次郎(寅さん)ゆかりの寺として知られるようになる。年始や庚申の日(縁日)は非常に賑わい、映画『男はつらいよ』シリーズ制作中は、観光バスの団体客が大勢訪れたこともあるが、同シリーズの終焉に伴い、参拝客、観光客が年々減少している。
「柴又帝釈天」の通称で専ら呼ばれるところから、帝釈天が当寺の本尊と思われがちだが、日蓮宗寺院としての本尊は、帝釈堂の隣の祖師堂に安置する「大曼荼羅」(中央に「南無妙法蓮華経」の題目を大書し、その周囲に諸々の仏、菩薩、天、神などの名を書したもの)である。また、当寺が柴又七福神のうちの毘沙門天にあたることから、「帝釈天=毘沙門天」と解説する資料が散見されるが、帝釈天と毘沙門天はその起源を全く異にする別々の尊格であり、柴又七福神の毘沙門天は、帝釈天の脇に安置される多聞天(別名毘沙門天)を指すと解される。
歴史 [編集]
縁起によれば、題経寺の創建は江戸時代初期の寛永6年(1629年)で、開山は中山法華経寺(千葉県市川市)19世の禅那院日忠とされている。なお、寺の説明によれば、実際に寺を開いたのは日忠の弟子にあたる題経院日栄であるとされる。本堂右手にある釈迦堂(開山堂)に日栄の木像が安置されていることからも、この日栄という僧が実質的な開山であると思われる。
題経寺の中興の祖とされているのが9世住職の亨貞院日敬(こうていいんにっきょう)という僧であり、彼は一時行方不明になっていた「帝釈天の板本尊」を再発見した人物であるとされている。日敬自ら記した縁起によれば、この寺には宗祖日蓮が自ら刻んだという伝承のある帝釈天の板本尊があったが、長年所在不明になっていた。それが、日敬の時代に、本堂の修理を行ったところ、棟木の上から発見されたという。この板本尊は片面に「南無妙法蓮華経」の題目と法華経薬王品の要文、片面には右手に剣を持った帝釈天像を表したもので、これが発見されたのが安永8年(1779年)の庚申の日であったことから60日に一度の庚申の日が縁日となった。それから4年ほど経った天明3年(1783年)、日敬は自ら板本尊を背負って江戸の町を歩き、天明の大飢饉に苦しむ人々に拝ませたところ、不思議な効験があったため、柴又帝釈天への信仰が広まっていったという。柴又帝釈天が著名になり、門前町が形成されるのもこの時代からと思われる。近隣に数軒ある川魚料理の老舗もおおむねこの頃(18世紀末)の創業を伝えている。
境内 [編集]
京成電鉄柴又駅前から参道が伸びている。参道の両側には名物の草だんごや塩せんべいを売る店、老舗の川魚料理店などが軒を連ねている。参道の突き当たりに二天門が建ち、正面に帝釈堂、右に祖師堂(旧本堂)、その右手前に釈迦堂(開山堂)、本堂裏手に大客殿などが建つ。境内はさほど広くなく、建物は大部分が明治以降の建築である。二天門、帝釈堂などは彩色を施さない素木造のため一見地味に見えるが、細部には精巧な装飾彫刻が施されている。
二天門
明治29年(1896年)の建立。入母屋造瓦葺の楼門(2階建て門)で、屋根には唐破風と千鳥破風を付す。柱上の貫などには浮き彫りの装飾彫刻を施す。初層左右には四天王のうちの増長天および広目天の二天を安置し、門の名はこれに由来する。二天像は平安時代の作とされ、門の建立時に同じ日蓮宗の妙国寺(大阪府堺市)から寄贈されたものである。
帝釈堂
二天門を入った境内正面に位置する。手前の拝殿と奥の内殿から成り、ともに入母屋造瓦葺で、拝殿屋根には唐破風と大ぶりの千鳥破風を付す。内殿は大正4年(1915年)、拝殿は昭和4年(1929年)の完成。内殿には帝釈天の板本尊を安置し、左右に四天王のうちの持国天と多聞天(毘沙門天)を安置する(四天王の残り2体は二天門に安置)。内殿外側には全面に浮き彫りの装飾彫刻が施されている。
彫刻ギャラリー彫刻ギャラリー
帝釈堂内殿の外部は東・北・西の全面が装飾彫刻で覆われており、中でも胴羽目板の法華経説話の浮き彫り10面が著名である。これは法華経に説かれる代表的な説話10話を選び視覚化したもので、大正11年(1922年)から昭和9年(1934年)にかけて、加藤寅之助ら10人の彫刻師が1面ずつ分担制作した。この羽目板の上方には十二支と天人、下方には千羽鶴が表され、高欄(縁)より下の部分には花鳥および亀を浮き彫りで表す。これらの彫刻を保護するため、内殿は建物ごとガラスの壁で覆われ、見学者用の通路を設け、「彫刻ギャラリー」と称して一般公開している(「彫刻ギャラリー」と大客殿、庭園の見学は有料)。
祖師堂(本堂)
帝釈堂の向かって右に建つ。帝釈堂と同様、入母屋造の拝殿と内殿が前後に並んで建つ。こちらが日蓮宗寺院としての本来の本堂であり、本尊は大曼荼羅である。
釈迦堂(開山堂)
江戸末期に建立された、寺内最古の建築であり、奈良時代作という釈迦如来立像と、開山日栄、中興の祖日敬の木像を安置する。
大客殿
本堂裏に位置する。昭和4年の完成で、入母屋造瓦葺、平屋建の左右に細長い建築である。東京都の選定歴史的建造物になっている。座敷4室を左右1列に配し、これらの手前には庭に面しガラス障子を立て込んだ廊下がある。座敷のうちもっとも奥に位置する「頂経の間」の「南天の床柱」は、日本一のものといわれ、直径30センチ、滋賀県の伊吹山にあった樹齢約1,500年の南天の自然木を使用したものである。
邃渓園(すいけいえん)
大客殿前に広がる池泉式庭園で、昭和40年(1965年)、向島の庭師永井楽山の設計による。庭園への立ち入りは禁止されているが、周囲に設けられた屋根付きの廊下から見ることができる。
交通 [編集]
京成金町線柴又駅から徒歩数分 - 正月など多客期は混雑する。
京成バス(金町駅~柴又帝釈天~新柴又駅~京成小岩駅入口~小岩駅)柴又帝釈天バス停下車徒歩数分
北総鉄道北総線新柴又駅から徒歩約15分
矢切の渡し柴又側船着場より徒歩約7分
関連項目 [編集]
ウィキメディア・コモンズには、柴又帝釈天に関連するカテゴリがあります。男はつらいよ
帝釈天
笠智衆
日本の寺院一覧
日本の音風景100選
外部リンク [編集]
柴又帝釈天公式ホームページ
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帝釈堂(2005年撮影)
所在地 東京都葛飾区柴又七丁目10番3号
位置 北緯35度45分30.24秒
東経139度52分41.52秒
山号 経栄山
宗派 日蓮宗
本尊 大曼荼羅
創建年 寛永6年(1629年)
開基 禅那院日忠、題経院日栄
正式名 経栄山 題経寺
表・話・編・歴
柴又帝釈天(しばまたたいしゃくてん)は、東京都葛飾区柴又七丁目にある日蓮宗の寺院の通称である。正式の山号寺号は経栄山題経寺(きょうえいざん だいきょうじ)である。 尚、「帝釈天」とは本来の意味では仏教の守護神である天部の一つを指すが、日本においてはこの柴又帝釈天を指す場合も多い。
目次 [非表示]
1 概要
2 歴史
3 境内
4 交通
5 関連項目
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概要 [編集]
江戸時代初期(17世紀前半)の寛永6年(1629年)に禅那院日忠および題経院日栄という2名の僧によって開創された日蓮宗寺院である。18世紀末、9世住職の日敬(にっきょう)の頃から当寺の帝釈天が信仰を集めるようになり、「柴又帝釈天」として知られるようになった。帝釈天の縁日は庚申の日とされ、庚申信仰とも関連して多くの参詣人を集めるようになった。
近代以降も夏目漱石の『彼岸過迄』をはじめ多くの文芸作品に登場し、東京近郊(当時は東京ではなかった)の名所として扱われた。20世紀後半以降は、人気映画シリーズ『男はつらいよ』の渥美清演じる主人公・車寅次郎(寅さん)ゆかりの寺として知られるようになる。年始や庚申の日(縁日)は非常に賑わい、映画『男はつらいよ』シリーズ制作中は、観光バスの団体客が大勢訪れたこともあるが、同シリーズの終焉に伴い、参拝客、観光客が年々減少している。
「柴又帝釈天」の通称で専ら呼ばれるところから、帝釈天が当寺の本尊と思われがちだが、日蓮宗寺院としての本尊は、帝釈堂の隣の祖師堂に安置する「大曼荼羅」(中央に「南無妙法蓮華経」の題目を大書し、その周囲に諸々の仏、菩薩、天、神などの名を書したもの)である。また、当寺が柴又七福神のうちの毘沙門天にあたることから、「帝釈天=毘沙門天」と解説する資料が散見されるが、帝釈天と毘沙門天はその起源を全く異にする別々の尊格であり、柴又七福神の毘沙門天は、帝釈天の脇に安置される多聞天(別名毘沙門天)を指すと解される。
歴史 [編集]
縁起によれば、題経寺の創建は江戸時代初期の寛永6年(1629年)で、開山は中山法華経寺(千葉県市川市)19世の禅那院日忠とされている。なお、寺の説明によれば、実際に寺を開いたのは日忠の弟子にあたる題経院日栄であるとされる。本堂右手にある釈迦堂(開山堂)に日栄の木像が安置されていることからも、この日栄という僧が実質的な開山であると思われる。
題経寺の中興の祖とされているのが9世住職の亨貞院日敬(こうていいんにっきょう)という僧であり、彼は一時行方不明になっていた「帝釈天の板本尊」を再発見した人物であるとされている。日敬自ら記した縁起によれば、この寺には宗祖日蓮が自ら刻んだという伝承のある帝釈天の板本尊があったが、長年所在不明になっていた。それが、日敬の時代に、本堂の修理を行ったところ、棟木の上から発見されたという。この板本尊は片面に「南無妙法蓮華経」の題目と法華経薬王品の要文、片面には右手に剣を持った帝釈天像を表したもので、これが発見されたのが安永8年(1779年)の庚申の日であったことから60日に一度の庚申の日が縁日となった。それから4年ほど経った天明3年(1783年)、日敬は自ら板本尊を背負って江戸の町を歩き、天明の大飢饉に苦しむ人々に拝ませたところ、不思議な効験があったため、柴又帝釈天への信仰が広まっていったという。柴又帝釈天が著名になり、門前町が形成されるのもこの時代からと思われる。近隣に数軒ある川魚料理の老舗もおおむねこの頃(18世紀末)の創業を伝えている。
境内 [編集]
京成電鉄柴又駅前から参道が伸びている。参道の両側には名物の草だんごや塩せんべいを売る店、老舗の川魚料理店などが軒を連ねている。参道の突き当たりに二天門が建ち、正面に帝釈堂、右に祖師堂(旧本堂)、その右手前に釈迦堂(開山堂)、本堂裏手に大客殿などが建つ。境内はさほど広くなく、建物は大部分が明治以降の建築である。二天門、帝釈堂などは彩色を施さない素木造のため一見地味に見えるが、細部には精巧な装飾彫刻が施されている。
二天門
明治29年(1896年)の建立。入母屋造瓦葺の楼門(2階建て門)で、屋根には唐破風と千鳥破風を付す。柱上の貫などには浮き彫りの装飾彫刻を施す。初層左右には四天王のうちの増長天および広目天の二天を安置し、門の名はこれに由来する。二天像は平安時代の作とされ、門の建立時に同じ日蓮宗の妙国寺(大阪府堺市)から寄贈されたものである。
帝釈堂
二天門を入った境内正面に位置する。手前の拝殿と奥の内殿から成り、ともに入母屋造瓦葺で、拝殿屋根には唐破風と大ぶりの千鳥破風を付す。内殿は大正4年(1915年)、拝殿は昭和4年(1929年)の完成。内殿には帝釈天の板本尊を安置し、左右に四天王のうちの持国天と多聞天(毘沙門天)を安置する(四天王の残り2体は二天門に安置)。内殿外側には全面に浮き彫りの装飾彫刻が施されている。
彫刻ギャラリー彫刻ギャラリー
帝釈堂内殿の外部は東・北・西の全面が装飾彫刻で覆われており、中でも胴羽目板の法華経説話の浮き彫り10面が著名である。これは法華経に説かれる代表的な説話10話を選び視覚化したもので、大正11年(1922年)から昭和9年(1934年)にかけて、加藤寅之助ら10人の彫刻師が1面ずつ分担制作した。この羽目板の上方には十二支と天人、下方には千羽鶴が表され、高欄(縁)より下の部分には花鳥および亀を浮き彫りで表す。これらの彫刻を保護するため、内殿は建物ごとガラスの壁で覆われ、見学者用の通路を設け、「彫刻ギャラリー」と称して一般公開している(「彫刻ギャラリー」と大客殿、庭園の見学は有料)。
祖師堂(本堂)
帝釈堂の向かって右に建つ。帝釈堂と同様、入母屋造の拝殿と内殿が前後に並んで建つ。こちらが日蓮宗寺院としての本来の本堂であり、本尊は大曼荼羅である。
釈迦堂(開山堂)
江戸末期に建立された、寺内最古の建築であり、奈良時代作という釈迦如来立像と、開山日栄、中興の祖日敬の木像を安置する。
大客殿
本堂裏に位置する。昭和4年の完成で、入母屋造瓦葺、平屋建の左右に細長い建築である。東京都の選定歴史的建造物になっている。座敷4室を左右1列に配し、これらの手前には庭に面しガラス障子を立て込んだ廊下がある。座敷のうちもっとも奥に位置する「頂経の間」の「南天の床柱」は、日本一のものといわれ、直径30センチ、滋賀県の伊吹山にあった樹齢約1,500年の南天の自然木を使用したものである。
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交通 [編集]
京成金町線柴又駅から徒歩数分 - 正月など多客期は混雑する。
京成バス(金町駅~柴又帝釈天~新柴又駅~京成小岩駅入口~小岩駅)柴又帝釈天バス停下車徒歩数分
北総鉄道北総線新柴又駅から徒歩約15分
矢切の渡し柴又側船着場より徒歩約7分
関連項目 [編集]
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文学賞
作家
詩人・小説家
その他作家
早乙女 勝元(さおとめ かつもと、1932年3月26日 - )は、日本の作家。東京都足立区出身。
目次 [非表示]
1 人物
2 著書
3 編者
4 全集
5 関連資料
6 漫画原作
7 映画スタッフ
8 映画・ドラマ・舞台化作品
9 役職
10 受賞歴
11 関連項目
12 外部リンク
人物 [編集]
東京の働く姿を描いた作品が多くまた反戦・平和をライフテーマとする。
1945年3月9日に東京大空襲を経験。
1946年に義務教育を終え、鐘紡附属東京理化学研究所(当時)に少年工として勤務する。かたわら旧制都立第七中学校(現・都立墨田川高校)夜間部に入学。
1952年に「下町の故郷」で直木賞候補。
1962年に音楽大学を卒業したばかりの金子直枝と結婚。直枝は小学校教師となる。
1970年に「東京空襲を記録する会」を結成。
2002年に東京都江東区にオープンした東京大空襲・戦災資料センター館長就任。
ベトナム戦争のときの空爆被害の救援にも力をいれている。
山田洋次に「下町の太陽」制作に際してアドバイスをしており、また山田を初めて葛飾柴又に連れて行った。
著書 [編集]
『下町の故郷』(1952年、葦出版社)
『ハモニカ工場』(1956年、未來社)
『美しい橋』(1957年、文理書院)
『秘密』(1960年、角川書店)
『ゆびきり』(1960年、理論社)
『小麦色の仲間たち』(1964年、理論社)
『青春の歯車』(1965年、理論社)
『太陽がほしい!』(上・下、1968年、理論社)
『輝坊といっしょに』(直枝と共著、新日本新書・草の根出版会)
『愛と口笛とぼく』(1968年、東邦出版社→『それぞれの愛』に改題、草の根出版会)
『東京大空襲-昭和二〇年三月十日の記録』(1971年、岩波新書、ルポルタージュ)
『あした私は行く』(1972年、理論社)
『わが街角』(1974年~1976年、新潮社、全5巻)
『共働きはラクじゃないよ』(1974年、草土文化→草の根出版会)
『猫は生きている』(1974年、理論社)
『ベトナムのダーちゃん』(1974年、童心社)
『負元物語』(1978年、理論社)
『おトウの子育て』(1980年、学研)
『戦争と青春』(1991年、講談社)
『パパ ママ バイバイ』(原作、門倉訣・詩、鈴木たくま・画、日本図書センター 2001年2月)
1977年に発生した横浜米軍機墜落事件を題材にした絵本。初版は1979年刊(草土文化→草の根出版会)。劇場用アニメーションも作成された。
ほか
編者 [編集]
『「パパ ママ バイバイ」ノート』(1984年8月、草土文化)
『日本の空襲』(三省堂、全10巻)
全集 [編集]
『早乙女勝元小説選集』(理論社、全12巻)
『早乙女勝元自選集”愛といのちの”記録』(草の根出版会、全12巻)
関連資料 [編集]
人間の記録・第153巻(日本図書センター 2004年8月)
漫画原作 [編集]
ほるぷ平和漫画シリーズ第11巻『炎の街に生きる』(1984年、ほるぷ出版)
東京大空襲・火の瞳(画:政岡としや、1972年、週刊少年マガジン)
山ゆかば!(画:あすなひろし、1970年)
純情・博多っ子戦争(画:長谷川法世、1979年、アクションデラックス)
映画スタッフ [編集]
「下町の太陽」(1963年、松竹、監督:山田洋次)早乙女は原案・構成を協力。
「戦争と青春」(1991年、監督:今井正)早乙女は原作・脚本を担当。
映画・ドラマ・舞台化作品 [編集]
映画
「二人だけの橋」(1958年、東宝、監督:丸山誠治、主演:水野久美・久保明。「美しい橋」が原作。)
「明日をつくる少女」(1958年、松竹、監督:井上和男、主演:桑野みゆき。「ハモニカ工場」が原作。)
「秘密」(1960年、東映、監督:家城巳代治、主演:佐久間良子・江原慎二郎)
「猫は生きている」(1975年、監督:島田開。人形劇。)
「パパ ママ バイバイ」(1975年、監督:設楽博。アニメーション。)
「戦争と青春」(1991年、監督:今井正、主演:工藤夕貴)
「ベトナムのダーちゃん」(1994年、こぶしプロ・テレビ朝日、監督:後藤俊夫、主演:古谷一行)
ドラマ
「秘密」(1962年、NHK、主演:山本學)
「二人だけの橋」(1963年、NETテレビ、主演:関口宏)
「小麦色の仲間たち」(1964年、NHK、監督:今井正、主演:北大路欣也・佐々木愛)
「下町の青春」(1966年、NETテレビ、監督:今井正、主演:坂本九。「小麦色の仲間たち」が原作。)
「秘密」(1975年、NETテレビ、主演:高橋洋子・火野正平)
「美しい橋」(1977年、TBS、主演:山口百恵)
「夫婦さかさま」(1982年、フジテレビジョン、主演:地井武男。「おトウの子育て」が原作。)
舞台
「素晴らしい贈物」(1959年、新協劇団、演出:村山知義。「ハモニカ工場」が原作。後に前進座でも舞台にかかる。)
「小麦色の仲間たち」(1964年、東京芸術座)
「青春の歯車」(1965年、労音自主製作ミュージカル、演出:山本薩夫・加藤盟、主演:九重祐三子)
「秘密」 (1979年、文化座)
役職 [編集]
千葉大学非常勤講師(1991年、1994年)
NHK青年の主張全国コンクール東京地方審査員(1979年)
読売新聞全国綴方コンクール中央審査委員(1980年)
受賞歴 [編集]
1971年 日本ジャーナリスト会議奨励賞(「東京大空襲-昭和二〇年三月十日の記録」)
1975年 菊池寛賞・日本ジャーナリスト会議奨励賞(東京空襲を記録する会「東京大空襲・戦災誌」)
1992年 第15回日本アカデミー賞特別賞(『戦争と青春』で企画賞)
関連項目 [編集]
「私の八月十五日」の会
横浜米軍機墜落事件
外部リンク [編集]
中外日報「生きる活きる」のインタビュー
GKSインタビュー[リンク切れ]
「憲法球状を子供たちに」~ある作家経験から[リンク切れ]
この「早乙女勝元」は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけ項目です。この項目を加筆、訂正等して下さる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
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カテゴリ: 日本の小説家 | 東京都出身の人物 | 1932年生
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早乙女 勝元(さおとめ かつもと、1932年3月26日 - )は、日本の作家。東京都足立区出身。
目次 [非表示]
1 人物
2 著書
3 編者
4 全集
5 関連資料
6 漫画原作
7 映画スタッフ
8 映画・ドラマ・舞台化作品
9 役職
10 受賞歴
11 関連項目
12 外部リンク
人物 [編集]
東京の働く姿を描いた作品が多くまた反戦・平和をライフテーマとする。
1945年3月9日に東京大空襲を経験。
1946年に義務教育を終え、鐘紡附属東京理化学研究所(当時)に少年工として勤務する。かたわら旧制都立第七中学校(現・都立墨田川高校)夜間部に入学。
1952年に「下町の故郷」で直木賞候補。
1962年に音楽大学を卒業したばかりの金子直枝と結婚。直枝は小学校教師となる。
1970年に「東京空襲を記録する会」を結成。
2002年に東京都江東区にオープンした東京大空襲・戦災資料センター館長就任。
ベトナム戦争のときの空爆被害の救援にも力をいれている。
山田洋次に「下町の太陽」制作に際してアドバイスをしており、また山田を初めて葛飾柴又に連れて行った。
著書 [編集]
『下町の故郷』(1952年、葦出版社)
『ハモニカ工場』(1956年、未來社)
『美しい橋』(1957年、文理書院)
『秘密』(1960年、角川書店)
『ゆびきり』(1960年、理論社)
『小麦色の仲間たち』(1964年、理論社)
『青春の歯車』(1965年、理論社)
『太陽がほしい!』(上・下、1968年、理論社)
『輝坊といっしょに』(直枝と共著、新日本新書・草の根出版会)
『愛と口笛とぼく』(1968年、東邦出版社→『それぞれの愛』に改題、草の根出版会)
『東京大空襲-昭和二〇年三月十日の記録』(1971年、岩波新書、ルポルタージュ)
『あした私は行く』(1972年、理論社)
『わが街角』(1974年~1976年、新潮社、全5巻)
『共働きはラクじゃないよ』(1974年、草土文化→草の根出版会)
『猫は生きている』(1974年、理論社)
『ベトナムのダーちゃん』(1974年、童心社)
『負元物語』(1978年、理論社)
『おトウの子育て』(1980年、学研)
『戦争と青春』(1991年、講談社)
『パパ ママ バイバイ』(原作、門倉訣・詩、鈴木たくま・画、日本図書センター 2001年2月)
1977年に発生した横浜米軍機墜落事件を題材にした絵本。初版は1979年刊(草土文化→草の根出版会)。劇場用アニメーションも作成された。
ほか
編者 [編集]
『「パパ ママ バイバイ」ノート』(1984年8月、草土文化)
『日本の空襲』(三省堂、全10巻)
全集 [編集]
『早乙女勝元小説選集』(理論社、全12巻)
『早乙女勝元自選集”愛といのちの”記録』(草の根出版会、全12巻)
関連資料 [編集]
人間の記録・第153巻(日本図書センター 2004年8月)
漫画原作 [編集]
ほるぷ平和漫画シリーズ第11巻『炎の街に生きる』(1984年、ほるぷ出版)
東京大空襲・火の瞳(画:政岡としや、1972年、週刊少年マガジン)
山ゆかば!(画:あすなひろし、1970年)
純情・博多っ子戦争(画:長谷川法世、1979年、アクションデラックス)
映画スタッフ [編集]
「下町の太陽」(1963年、松竹、監督:山田洋次)早乙女は原案・構成を協力。
「戦争と青春」(1991年、監督:今井正)早乙女は原作・脚本を担当。
映画・ドラマ・舞台化作品 [編集]
映画
「二人だけの橋」(1958年、東宝、監督:丸山誠治、主演:水野久美・久保明。「美しい橋」が原作。)
「明日をつくる少女」(1958年、松竹、監督:井上和男、主演:桑野みゆき。「ハモニカ工場」が原作。)
「秘密」(1960年、東映、監督:家城巳代治、主演:佐久間良子・江原慎二郎)
「猫は生きている」(1975年、監督:島田開。人形劇。)
「パパ ママ バイバイ」(1975年、監督:設楽博。アニメーション。)
「戦争と青春」(1991年、監督:今井正、主演:工藤夕貴)
「ベトナムのダーちゃん」(1994年、こぶしプロ・テレビ朝日、監督:後藤俊夫、主演:古谷一行)
ドラマ
「秘密」(1962年、NHK、主演:山本學)
「二人だけの橋」(1963年、NETテレビ、主演:関口宏)
「小麦色の仲間たち」(1964年、NHK、監督:今井正、主演:北大路欣也・佐々木愛)
「下町の青春」(1966年、NETテレビ、監督:今井正、主演:坂本九。「小麦色の仲間たち」が原作。)
「秘密」(1975年、NETテレビ、主演:高橋洋子・火野正平)
「美しい橋」(1977年、TBS、主演:山口百恵)
「夫婦さかさま」(1982年、フジテレビジョン、主演:地井武男。「おトウの子育て」が原作。)
舞台
「素晴らしい贈物」(1959年、新協劇団、演出:村山知義。「ハモニカ工場」が原作。後に前進座でも舞台にかかる。)
「小麦色の仲間たち」(1964年、東京芸術座)
「青春の歯車」(1965年、労音自主製作ミュージカル、演出:山本薩夫・加藤盟、主演:九重祐三子)
「秘密」 (1979年、文化座)
役職 [編集]
千葉大学非常勤講師(1991年、1994年)
NHK青年の主張全国コンクール東京地方審査員(1979年)
読売新聞全国綴方コンクール中央審査委員(1980年)
受賞歴 [編集]
1971年 日本ジャーナリスト会議奨励賞(「東京大空襲-昭和二〇年三月十日の記録」)
1975年 菊池寛賞・日本ジャーナリスト会議奨励賞(東京空襲を記録する会「東京大空襲・戦災誌」)
1992年 第15回日本アカデミー賞特別賞(『戦争と青春』で企画賞)
関連項目 [編集]
「私の八月十五日」の会
横浜米軍機墜落事件
外部リンク [編集]
中外日報「生きる活きる」のインタビュー
GKSインタビュー[リンク切れ]
「憲法球状を子供たちに」~ある作家経験から[リンク切れ]
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男はつらいよ
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この項目では、「男はつらいよ」全般について記述しています。映画第一作目については「男はつらいよ (映画)」を、各作品の解説については「男はつらいよ#映画シリーズ一覧」をご覧ください。
京成金町線柴又駅前にたつ、車寅次郎の銅像『男はつらいよ』(おとこはつらいよ)は、渥美清主演、山田洋次原作・監督(一部作品除く)のテレビドラマおよび映画である。テキ屋稼業を生業とする「フーテンの寅」こと車寅次郎が、何かの拍子に故郷の葛飾柴又に戻ってきては何かと大騒動を起こす人情喜劇シリーズ。毎回旅先で出会った「マドンナ」に惚れつつも、失恋するか身を引くかして成就しない寅次郎の恋愛模様を、日本各地の美しい風景を背景に描く。主人公の名前から、作品自体も「寅さん」と呼ばれることが多い。
目次 [非表示]
1 概要
2 映画概要
3 エピソード
4 登場人物
4.1 レギュラー
4.2 準レギュラー
4.3 サブキャラクター
5 映画シリーズ一覧
5.1 未撮影作品
5.2 シリーズのロケ地
5.3 寅次郎花へんろと虹をつかむ男
5.4 寅次郎ハイビスカスの花 特別篇
6 有名なシーン・セリフ
6.1 有名なシーン
6.2 有名なセリフ
7 主題歌
8 テレビ版
8.1 経緯
8.2 放送とその後
8.3 映像の現存状況
8.4 出演者
9 アニメ版
9.1 キャスト
9.2 スタッフ
10 関連番組
11 本作をもとにしたキャラクターが登場する作品
12 脚注
13 関連項目
14 外部リンク
14.1 公式サイト
14.2 関連サイト
14.3 研究サイト
概要 [編集]
1968年 - 1969年に、フジテレビが制作・放送したテレビドラマが最初である。このテレビ版のヒット、最終回で寅次郎がハブを取りに行こうとして、逆にハブにやられ、毒が回り死んだと言う結末が視聴者から多数の抗議が殺到して、映画化につながった。
映画シリーズは、松竹によって1969年(昭和44年)から1995年(平成7年)までに全48作が、1997年(平成9年)に特別編1本が製作された。なお、第1作は1969年6月には完成していたらしいが、一時お蔵入りとなり、8月になってから上映された。
山田洋次が全48作の原作・脚本を担当。第3作、第4作を除く46作を自ら監督した。第3作の監督は森崎東、第4作は小林俊一である。第5作を山田が再び監督し、シリーズを完結させる予定であったが、あまりのヒットに続編の制作が決定した。
以降、全作品がヒットして松竹のドル箱シリーズとなり、30作を超えた時点で世界最長の映画シリーズとしてギネスブック国際版にも認定された。ただしこれは作品数においてであり、年数では『ゴジラ』シリーズの方が長い。渥美の死去により、1995年に公開された第48作『寅次郎紅の花』をもって幕を閉じた。その後、ファンからのラブコールが多かったとの事で、『寅次郎ハイビスカスの花』を再編集し、新撮影分を加えた『寅次郎ハイビスカスの花 特別篇』が1997年に公開された。また渥美の死により、第49作および本来の最終作となるはずだった第50作が未撮影になった。
--------------------------------------------------------------------------------
注意:以降の記述で物語・作品・登場人物に関する核心部分が明かされています。
--------------------------------------------------------------------------------
映画概要 [編集]
男はつらいよ
渥美清演じる車寅次郎
監督 山田洋次(一部作品除く)
出演者 渥美清、倍賞千恵子、前田吟、
太宰久雄、笠智衆、佐藤蛾次郎など
配給 松竹
上映時間 1969年 - 1995年
製作国 日本
言語 日本語
表・話・編・歴
主人公、「フーテンの寅」こと車寅次郎は、父親、車平造が芸者、菊との間に作った子供。実母の出奔後父親のもとに引き取られたが、16歳の時に父親と大ゲンカをして家を飛び出したという設定。第1作は、テキ屋稼業で日本全国を渡り歩く渡世人となった寅次郎が家出から20年後突然、倍賞千恵子演じる腹違いの妹さくらと叔父夫婦が住む、生まれ故郷の東京都葛飾区柴又・柴又帝釈天の門前にある草団子屋に戻ってくるところから始まる。
シリーズのパターンは寅次郎が旅先や柴又で出会うマドンナに惚れてしまい、マドンナも寅次郎に対して好意を抱くが、それは多くの場合恋愛感情ではなく、最後にはマドンナの恋人が現れて寅次郎は振られてしまう。そして落ち込んだ寅次郎が正月前、もしくは盆前(即ち正月、盆がテキ屋は書き入れ時)に再びテキ屋稼業の旅に出て行くという結末で一貫している。
『寅次郎夢枕』の千代や、いわゆる「リリー三部作」[1]のリリーなどのように、寅次郎に恋愛感情を持ったマドンナもいたが、この場合は、寅次郎の方が逃げ腰になり、自ら身を引く形となっている。また、マドンナと「うまくいっている」と誤解している時点で、寅次郎が柴又に帰り、さくら達にマドンナとの楽しい体験を話す場面は、渥美清の語りは落語家のような名調子で、スタッフやキャスト達は「寅のアリア」と呼んでいた。
第42作以降の4作品は、寅次郎の相手となる通常のマドンナに加え、さくらの息子満男(吉岡秀隆)が思いを寄せる泉(後藤久美子)がマドンナとして登場するようになり、寅次郎が満男のコーチ役にまわる場面が多くなっている。渥美が病気になり快活な演技ができなくなったため、満男を主役にしたサブストーリーを作成、満男の恋の相手が必要になったため、当初は予定されてなかった泉が登場することとなる。山田監督の話によれば第49作で泉と満男を結婚させようと考えていたらしいが、渥美の死去により幻になった(『紅の花』で泉の結婚式を妨害し、結婚式を中断させたのは結婚への伏線であったとも考えられる)。
柴又帝釈天レギュラーとして登場する人物は、寅次郎、さくらのほか、さくらの夫・諏訪博、草団子店を経営する叔父・竜造と叔母・つね、博が勤務する印刷会社「朝日印刷所(第一作、第二作のみ共栄印刷)」の社長で寅次郎の幼馴染・タコ社長こと桂梅太郎(第六作のみ堤梅太郎)、帝釈天の御前さま、寺男で寅次郎の舎弟・源公などがいた。マドンナとして複数回登場した女優もいるが、リリー、泉、歌子(吉永小百合)以外は、別人の役で出演している。おいちゃんこと叔父・竜造役は初代が森川信、2代目は松村達雄、3代目は下條正巳が演じた。その他、毎回役柄は違うものの、サブキャラクターとしてレギュラー出演する俳優も多く存在した。
青年時代に、実際にテキ屋体験がある渥美ならではの見事な口上も、ファンの楽しみであった。また、このシリーズは原則としてお盆と正月の年二回公開されたが、お盆公開の映画の春から夏への旅は、南から北へ、正月公開の秋から冬への旅は、北から南へ旅することが多かった。画面に映し出される日本各地の懐かしい風景が、シリーズの魅力の一つでもある。
なお、第48作まで一貫してエンドロール表示は設定されず、出演キャストや製作スタッフ等の字幕表示はオープニングでされた。
エピソード [編集]
この記事に雑多な内容を羅列した節があります。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか整理・除去する必要があります。(2009年7月貼付)
当初は興行成績よりも評価が優先している傾向があり、不動の大ヒットシリーズとなったのは第5作あたりからである。
御前様役を演じていた笠智衆は、第45作終了直後に亡くなっている。しかし、御前様の娘・冬子役としてかつて出演していた光本幸子が第46作で久々に出演、さくらと冬子が二人で御前様の近況の会話をする描写があるほか、さくらが源公に「御前様お元気?」と聞くシーンもあり、笠が亡くなっても、御前様は健在であるという設定になっている。
オープニングテーマの前に始まる、寅次郎が旅先で見る様々な夢は、全撮影の最後に撮影されている。夢のシーンは『科学者の寅次郎が怪獣を倒す』等の本編とは全く関係のない話が多い。なお、出演者には直前まで内容は秘密にされていたという。
山田洋次が柴又を知ったのは、『下町の太陽』を監督する際、作家の早乙女勝元に教授してもらうために早乙女宅を訪問。早乙女宅からすぐそばにあった帝釈天を、案内されたのが切っ掛けである。
フジテレビで、登場人物を動物に置き換えたテレビアニメ版『フーセンのドラ太郎』が放送された。また、TBSでもテレビアニメ版が放送され、映画シリーズに出演したことがある岡本茉利がさくら役になっている。それぞれ制作会社も制作時期も異なり、関連性はない。
源公役の佐藤蛾次郎は、第8作のみ、交通事故にあったため出演していない。
寅次郎の名は、映画監督の斎藤寅次郎にちなむ。
映画の舞台に使用した柴又の団子屋が、実際に「とらや」に屋号を変更した。このため、作中の「とらや」の屋号は、第40作から「くるまや」に変わる。
柴又の店舗で撮影されていたのは第4作までで、それ以降は松竹大船撮影所のセットである。
出川哲朗は若手時代に、第37作、第39作の2本にチョイ役で出演している。第37作では台詞も一言だけある。本人のコメントによると、撮影現場で渥美清に「君は普段何をしてるのかね?」と尋ねられたという。
第46作には、本作と同時上映として製作されていた『釣りバカ日誌』の主人公である、西田敏行演じるハマちゃんがカメオ出演している。釣具を背負ったハマちゃんが釣りに向かう途中、くるまやの前を通って、おばちゃんと会話を交わすというもので、松竹の二大シリーズ間でスター・システムを取り入れている。
2001年(平成13年)8月4日、奇しくも渥美清の5回目の命日に、柴又八幡神社古墳において帽子や顔の輪郭などが「寅さん」にそっくりの埴輪が出土した。現在は複製が寅さん記念館に展示してある。このことは、フジテレビのバラエティ番組『トリビアの泉』でも紹介された。考古学者によると、この埴輪は6世紀のものであるといい、この埴輪を見た山田監督は驚いたという。新聞で紹介された時は「君は寅さんのご先祖様かい?」という見出しがついた。
さくらと博が住む川沿いの家は、毎回同じではなく変わっている。
正月映画としての公開が毎年の恒例だったことから、「寅さん」は冬の季語にもなっている[2]。
長野県小諸市には、寅さん会館という、寅さんの記念館がある。
京成電鉄は初回より撮影に協力。日本で初めて鉄道施設内での撮影を可能とした。
渥美の死去により、2代目寅さんの誕生が噂され、片岡鶴太郎や西田敏行らが候補とされた。これは噂の域にとどまらず、実際に報道もされたが、「寅さん=渥美清」という山田監督の意向もあってお蔵入りとなっている。1996年・1997年には、本シリーズに代わる新たな松竹正月映画として、西田主演、山田監督、寅さんファミリーと呼ばれる常連出演者勢ぞろい、男はつらいよとほぼ同じスタッフが参加した『虹をつかむ男』が公開された。しかし。その後の松竹の看板正月映画は、1988年から2009年まで続いた、西田主演で山田洋次が脚本家としても携わる『釣りバカ日誌』シリーズに受け継がれることとなる。
全48作中9作がキネマ旬報・ベストテンに入選している。同ベストテンでは、『仁義なき戦い』等の例外を除くと、プログラムピクチャーシリーズ(『駅前』『社長』『若大将』など)やその他時代劇も含め、シリーズ物の映画はほとんど無視される傾向がある。それから考えると、評価の高さが伺える。
特に、ブラジルのサンパウロ市にある日本人街「リベルダージ」の映画館では、1990年代に至るまで最新作が毎作上映されていた。なお、ブラジルの法律で「8歳以上指定作品」となっていた。
また、同じく1990年代までは日本航空の機内で最新作が上映されていた。
北朝鮮の金正日総書記がファンであるとされる。
登場人物 [編集]
レギュラー [編集]
車寅次郎:渥美清
主人公。職業は的屋で、各地を回って物を売っている。
諏訪さくら:倍賞千恵子
寅次郎の腹違いの妹。諏訪博と結婚して満男を産む。
諏訪博:前田吟
さくらの夫。満男の父。
車竜造(おいちゃん):森川信(第1作 - 第8作)→松村達雄(第9作 - 第13作)→下條正巳(第14作 - 第48作)
車つね(おばちゃん):三崎千恵子
諏訪満男:中村はやと(第1作 - 第8作、第10作 - 第26作)沖田康浩(第9作)→吉岡秀隆(第27作 - 第48作)
さくらの長男で、寅次郎からは甥にあたる。浪人生活を経て、城東大学に入学、卒業した。浪人中に、後藤久美子演じる及川泉に恋をする。晩年のシリーズでは寅次郎より満男と泉の関係にスポットを当てた作品も見られた。
桂梅太郎(社長・タコ社長):太宰久雄
御前様:笠智衆(第1作 - 第45作)
源公:佐藤蛾次郎(第8作を除く)
準レギュラー [編集]
川又登(寅次郎の舎弟):津坂匡章(現・秋野太作)(第1作 - 第5作、第9作 - 第10作、第33作)
坪内冬子(御前様の娘/第1作のマドンナ):光本幸子(第1作、第7作、第46作)
諏訪飈一郎(博の父):志村喬(第1作、第8作、第22作)
リリー(マドンナ):浅丘ルリ子(第11作、第15作、第25作、第48作)
お菊(寅次郎の母):ミヤコ蝶々(第2作、第7作)
桂あけみ(タコ社長の娘):美保純(第33作 - 第39作)
及川泉(満男の交際相手/マドンナ):後藤久美子(第42作 - 第45作、第48作)
及川礼子(泉の母):夏木マリ(第42作 - 第45作、第48作)
三平(くるまやの店員):北山雅康(第40作 - 第48作)
加代(くるまやの店員):鈴木美恵(第46作 - 第48作)
サブキャラクター [編集]
関敬六(シリーズ後半からは、寅のテキヤ仲間・ポンシュウ役)
桜井センリ(寅のテキヤ仲間など)
松村達雄(おいちゃん役の他に医者、定時制高校の教師、お寺の住職、教授役など)
米倉斉加年(交番の巡査、寅の恋敵役など)
笹野高史(足の速さを見込まれて・こそ泥、役所の事務員ほか多数)
すまけい(船長役など多数)
犬塚弘(同級生役など)
イッセー尾形(医師、車掌役など)
マキノ佐代子(朝日印刷所事務員役など)
谷よしの(初期はご近所さんが多く、他に寅さんが泊る旅館の仲居さん、地方の老婆役)
吉田義夫(旅の一座の座長役など)
岡本茉利(旅の一座の大空小百合役など)
あき竹城
津嘉山正種(オープニングに登場する絵描き役など)
石井均
アパッチけん
神戸浩
寺尾聰(警察官、泉の父役など)
石倉三郎
大滝秀治(寺の住職、古書店主役など)
映画シリーズ一覧 [編集]
作数 公開 タイトル マドンナ・共演者 ロケ地
1 1969年8月27日 男はつらいよ 光本幸子, 志村喬 京都府、奈良県
2 1969年11月15日 続・男はつらいよ 佐藤オリエ, 山崎努 京都府、三重県(柘植)
3 1970年1月15日 男はつらいよ フーテンの寅 新珠三千代, 河原崎建三 三重県(湯の山温泉)、鹿児島県(種子島)
4 1970年2月27日 新・男はつらいよ 栗原小巻, 横内正 愛知県(名古屋市)
5 1970年8月25日 男はつらいよ 望郷篇 長山藍子 千葉県(浦安市)、北海道(札幌市、小樽市)
6 1971年1月15日 男はつらいよ 純情篇 若尾文子 長崎県(長崎市、福江島)、静岡県(浜名湖)
7 1971年4月28日 男はつらいよ 奮闘篇 榊原るみ, ミヤコ蝶々, 田中邦衛 新潟県(越後広瀬)、静岡県(沼津市)、青森県(鰺ヶ沢町、弘前市)
8 1971年12月29日 男はつらいよ 寅次郎恋歌 池内淳子, 志村喬 岡山県(備中高梁)
9 1972年8月5日 男はつらいよ 柴又慕情 吉永小百合, 宮口精二 石川県(金沢市)、福井県(東尋坊)
10 1972年12月29日 男はつらいよ 寅次郎夢枕 田中絹代, 八千草薫 山梨県(甲府市)、長野県(奈良井)
11 1973年8月4日 男はつらいよ 寅次郎忘れな草 浅丘ルリ子 北海道(網走)
12 1973年12月26日 男はつらいよ 私の寅さん 岸惠子, 前田武彦 熊本県(天草、阿蘇)、大分県(別府)
13 1974年8月3日 男はつらいよ 寅次郎恋やつれ 吉永小百合, 宮口精二 島根県(津和野、温泉津)
14 1974年12月28日 男はつらいよ 寅次郎子守唄 十朱幸代 佐賀県(唐津市)、群馬県(磯部温泉)
15 1975年8月2日 男はつらいよ 寅次郎相合い傘 浅丘ルリ子, 船越英二 青森県(青森市)、北海道(函館市、長万部町、札幌市、小樽市)
16 1975年12月27日 男はつらいよ 葛飾立志篇 樫山文枝, 小林桂樹 山形県(寒河江市)、静岡県
17 1976年7月24日 男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け
(仮タイトルは『男はつらいよ 柴又の伊達男』) 太地喜和子, 宇野重吉 兵庫県(龍野市)
18 1976年12月25日 男はつらいよ 寅次郎純情詩集 京マチ子, 檀ふみ 長野県(別所温泉)、新潟県(六日町)
19 1977年8月6日 男はつらいよ 寅次郎と殿様 真野響子, 嵐寛寿郎, 平田昭彦 愛媛県(大洲市)
20 1977年12月24日 男はつらいよ 寅次郎頑張れ! 藤村志保, 中村雅俊, 大竹しのぶ 長崎県(平戸島)
21 1978年8月5日 男はつらいよ 寅次郎わが道をゆく 木の実ナナ, 武田鉄矢 熊本県(田の原温泉)
22 1978年12月27日 男はつらいよ 噂の寅次郎 大原麗子, 志村喬 長野県(木曽福島)、静岡県(大井川)
23 1979年8月4日 男はつらいよ 翔んでる寅次郎 木暮実千代, 桃井かおり 北海道(支笏湖)
24 1979年12月28日 男はつらいよ 寅次郎春の夢 香川京子 和歌山県、京都府、アメリカ合衆国(アリゾナ州)
25 1980年8月2日 男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花 浅丘ルリ子 沖縄県、長野県(軽井沢)
26 1980年12月27日 男はつらいよ 寅次郎かもめ歌 伊藤蘭, 米倉斉加年 北海道(奥尻島・江差町)、徳島県
27 1981年8月8日 男はつらいよ 浪花の恋の寅次郎 松坂慶子 大阪府、瀬戸内、長崎県(対馬)
28 1981年12月28日 男はつらいよ 寅次郎紙風船 音無美紀子 福岡県(秋月)、大分県(夜明)、静岡県(焼津市)
29 1982年8月7日 男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋 いしだあゆみ, 片岡仁左衛門 京都府(京都市、伊根)、長野県(信濃大町)、神奈川県(鎌倉市)、滋賀県(彦根市)
30 1982年12月28日 男はつらいよ 花も嵐も寅次郎 田中裕子, 沢田研二 大分県(湯平温泉、別府鉄輪温泉、由布市)
31 1983年8月6日 男はつらいよ 旅と女と寅次郎 都はるみ 新潟県(佐渡市、新潟市、支笏湖)
32 1983年12月28日 男はつらいよ 口笛を吹く寅次郎 竹下景子, 長門勇 岡山県(備中高梁)、広島県(因島)
33 1984年8月4日 男はつらいよ 夜霧にむせぶ寅次郎 中原理恵, 渡瀬恒彦 岩手県(盛岡市)、北海道(釧路市、根室市、中標津町、養老牛温泉)
34 1984年12月28日 男はつらいよ 寅次郎真実一路 大原麗子, 辰巳柳太郎, 津島恵子, 米倉斉加年 鹿児島県(枕崎市・指宿市)、茨城県(牛久沼)
35 1985年8月3日 男はつらいよ 寅次郎恋愛塾 樋口可南子, 平田満 長崎県(上五島)、天草市、秋田県(鹿角市)
36 1985年12月28日 男はつらいよ 柴又より愛をこめて 栗原小巻 静岡県(下田)、東京都(式根島)、静岡県(浜名湖)、福島県(会津若松市)
37 1986年12月20日 男はつらいよ 幸福の青い鳥 志穂美悦子, 長渕剛 福岡県(筑豊)、山口県(萩市、下関市)
38 1987年8月5日 男はつらいよ 知床慕情 竹下景子, 三船敏郎 北海道(斜里町)、岐阜県(岐阜市)
39 1987年12月26日 男はつらいよ 寅次郎物語 五月みどり, 秋吉久美子 奈良県(吉野)、和歌山県、三重県(志摩市、伊勢市二見町)
40 1988年12月24日 男はつらいよ 寅次郎サラダ記念日 奈良岡朋子, 三田佳子 長野県(小諸市、松本市)、長崎県(島原市)
41 1989年8月5日 男はつらいよ 寅次郎心の旅路 竹下景子, 柄本明 オーストリア(ウィーン)、オランダ・(アムステルダム・スキポール国際空港)、宮城県(松島)、石川県
42 1989年12月27日 男はつらいよ ぼくの伯父さん 檀ふみ, 後藤久美子 佐賀県(佐賀市、古湯温泉、吉野ヶ里)、茨城県(袋田)
43 1990年12月22日 男はつらいよ 寅次郎の休日 夏木マリ, 後藤久美子 大分県(日田市)、愛知県(名古屋市)
44 1991年12月23日 男はつらいよ 寅次郎の告白 吉田日出子, 後藤久美子 鳥取県、岐阜県(奥恵那峡・蛭川)
45 1992年12月26日 男はつらいよ 寅次郎の青春 風吹ジュン, 後藤久美子 宮崎県(油津)、岐阜県(下呂温泉)
46 1993年12月25日 男はつらいよ 寅次郎の縁談 松坂慶子, 島田正吾 香川県(琴平・志々島・高見島)、栃木県(烏山)
47 1994年12月23日 男はつらいよ 拝啓車寅次郎様 かたせ梨乃, 牧瀬里穂 新潟県(上越市)、滋賀県(長浜、西浅井町)、神奈川県(鎌倉市)、長崎県(雲仙)
48 1995年12月23日 男はつらいよ 寅次郎紅の花 浅丘ルリ子, 後藤久美子 鹿児島県(奄美大島)、岡山県(滝尾・津山)、兵庫県(神戸市)
特別編 1997年11月22日 男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花 特別篇 浅丘ルリ子 沖縄県
未撮影作品 [編集]
1996年12月28日公開予定 『男はつらいよ 寅次郎花へんろ』(マドンナ:田中裕子 ロケ地:高知県)
1997年12月公開予定 タイトル不明(マドンナ:黒柳徹子[3] ロケ地:未定)
山田洋次は、最終作で寅次郎が幼稚園の用務員になり、子供たちとかくれんぼをしている最中に息を引き取り、町の人が思い出のために地蔵を作るという構想を早くから持っていた。このことは1990年8月25日に放送されたTBS『クイズダービー』(第754回)の第7問(三択問題)で出題されており、遅くとも同年時点でこの構想があったことがわかる(正解は1枠の北野大、3枠のはらたいら、5枠ゲストの山崎浩子)。なお、本シリーズにマドンナとして出演した実績がある、レギュラー解答者の竹下景子は、2枠の井森美幸と同様に「温泉のストリップ小屋(で眠るように死んでしまう)」と書いて不正解だった。
シリーズのロケ地 [編集]
『男はつらいよ』シリーズの撮影はほぼ全国で行われているが、高知県と富山県と埼玉県では撮影が行われていない(2008年12月5日放送のテレビ東京『日本のビックリ新発見!頭が良くなるヘンな地図』より)。 ただし、高知県では第49作の撮影が決定していた。また、セリフ上では第8作で高知へ行ったということになっている。
高知県と富山県では後に、『男はつらいよ」以後松竹の看板として国民的映画シリーズになった『釣りバカ日誌』において、連続して撮影が行われた。
海外撮影はアメリカ(24作)、オーストリア(41作)で行われた。
寅次郎花へんろと虹をつかむ男 [編集]
シリーズ第49作のマドンナは田中裕子で、その兄役で西田敏行が出演の予定だった。物語は、妹が中絶した子供の父親が寅さんかと兄が疑い、それから寅さんがこの兄妹の後見人になる、また泉と満男を結婚させる、というものだったらしい。公開日は1996年12月28日と決まり、秋からの撮影を控えていた。「渥美清の伝言」によると、1996年6月28日に秋から始まる撮影に向けて意欲を燃やしていたが、渥美の死去により実現しなかった。
公開予定の1996年12月28日にほぼ同じキャスト、ロケ地で『虹をつかむ男』が渥美清への追憶映画として公開された。倍賞千恵子、前田吟、吉岡秀隆の三人はこの映画でも親子役である。渥美清もCGではあるが、1シーンだけ登場している。
寅次郎ハイビスカスの花 特別篇 [編集]
1997年に公開された『寅次郎ハイビスカスの花 特別篇』は、根強い寅さん人気に応える形で作られた作品である。満男が寅さんを回想する内容で、タイトルになっている第25作『寅次郎ハイビスカスの花』だけではなく、第11作『寅次郎忘れな草』、第15作『寅次郎相合い傘』のシーンが使われている。映像技術の進歩によって製作できた作品とも言え、満男が見た幻としてCGの寅さんが登場した。主題歌を八代亜紀が歌っている。
有名なシーン・セリフ [編集]
有名なシーン [編集]
「寅のアリア」(第15作・男はつらいよ 寅次郎相合い傘)
リリーをキャバレーまで送った寅次郎は、そのあまりの環境の劣悪さに驚き、肩を落としてとらやに帰って来る。「俺にふんだんに銭があったら・・・」寅次郎は大ステージで歌い上げるリリーの姿を想像し、臨場感たっぷりにさくらたちへ語って聞かせる。寅次郎の切ないまでの愛情が渥美清の名演技によって表現されている。山田洋次によれば[4]、後日リリー役の浅丘ルリ子がこのシーンを見て涙を流していたという。このシーンに限らず、渥美清独特の語り口によってなされる“一人語り”はスタッフの間から「寅のアリア」と呼ばれていた。
「メロン騒動」(第15作・男はつらいよ 寅次郎相合い傘)
寅次郎の世話になった男から高級メロンをもらったとらやの面々。切り分けて食べ始めたところへ寅次郎が外出から戻ってくる。寅次郎の分をうっかり勘定に入れ忘れていたことに気付いた一同は、大慌てで場を取り繕うとする。そんなとらやの人々を心が冷たいと激しくなじる寅次郎だったが、リリーが核心を突いた言葉で一喝してしまう。
「ぼたんの涙」(第17作・男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け)
芸者のぼたんが200万円の大金を騙し取られるが、法の盲点を突いたやり口になす術が見つからない。悲嘆に暮れるぼたんを横目に寅次郎はすっと立ち上がり、優しく別れの言葉を告げてとらやを飛び出していく。相手のところへ殴り込みに行こうとする寅次郎の捨て身の愛情に触れたぼたんは、幸福の涙を流す。
有名なセリフ [編集]
男はつらいよシリーズには、繰り返し使用されるセリフが多数ある。以下はその代表例である。
「それを言っちゃあお仕舞いよ」
喧嘩の際においちゃんが言う「出てってくれ」に対して寅次郎が返すセリフ。第1作で渥美清が咄嗟に放ってしまったアドリブだったが、セリフの持つ意味に感心した山田洋次がその後脚本に多用するようになった。[5]
「相変わらず馬鹿か?」
柴又に帰ってきた寅次郎が、備後屋などの顔なじみと交わす挨拶。これも、もともとは渥美清のアドリブであった。
「結構毛だらけ猫灰だらけ」
商売の啖呵から派生している、寅次郎の口癖。投げやりになったり、すねている際などに吐くこともある。
主題歌 [編集]
男はつらいよ
渥美清 の シングル
B面 チンガラホケキョーの唄
リリース 1970年2月10日
ジャンル 歌謡曲
レーベル 日本クラウン
渥美清 シングル 年表
オー大和魂
(1968年) 男はつらいよ
(1970年) ごめんくださいお訪ねします
(1972年)
同名の主題歌レコードは1970年2月に日本クラウンから発売され、シングルで38万枚のセールスを記録した[6]。売り上げこそ平凡だが、映画の主題歌としては息の長い曲となった。
もともとは、後述するテレビ版の主題歌であり、当初の歌い出しは、妹が嫁に行けない事を嘆く内容だった。しかし、妹さくらが結婚したため、自分がやくざ者だと自嘲する歌詞に変更された。
第49作『男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花 特別篇』では、八代亜紀が主題歌を歌っていた。沢知恵がアルバム『いいうたいろいろ2』の中でカバーしている。
『男はつらいよ』
作詞:星野哲郎
作曲:山本直純
歌:渥美清
テレビ版 [編集]
テレビドラマ「男はつらいよ」
ジャンル テレビドラマ
放送時間 木曜日22:00~22:45(45分)
放送期間 1968年10月3日 - 1969年3月27日(26回)
放送国 日本
制作局 フジテレビジョン、高島事務所
演出 小林俊一
脚本 山田洋次、稲垣俊、森崎東
プロデューサー 小林俊一、白川文造
出演者 渥美清、長山藍子ほか
オープニング 「男はつらいよ」渥美清
ドラマ
Portal: テレビ
Portal: ラジオ
Portal: ドラマ
一覧項目
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カテゴリ
テレビドラマ
ラジオドラマ
表・話・編・歴
映画第1作より前に、フジテレビ系列で山田洋次・稲垣俊・森崎東脚本の連続テレビドラマ『男はつらいよ』が放送された。1968年10月3日から1969年3月27日までの半年間、22時00分 - 22時45分に放送された。全26回。提供はいすゞ自動車、日本石油(現・新日本石油)、ニチバン。
経緯 [編集]
1966年にフジテレビで放送されていた、渥美清の連続テレビドラマ『おもろい夫婦』が大ヒットした。これをきっかけに、昭和40年代の同局では、渥美の連続ドラマが毎年のように放送されていた。本作は、フジの渥美ドラマ第3作にあたる。
制作は、フジテレビと高島事務所(当時の渥美が所属していた芸能事務所)。テレビ版は松竹の制作ではない。企画と演出はフジテレビ制作部のディレクター兼プロデューサー(当時)の小林俊一。同局の編成部では白川文造が係わった。
企画段階でのタイトルは『愚兄賢妹』という番組名だったが、フジテレビの営業から「愚兄賢妹では堅苦しくて番組として売り難い」と言われたため、タイトルを変更することになる。そして、北島三郎が唄っていた『意地のすじがね』の中にあった「つらいもんだぜ男とは」という歌詞をヒントに、小林俊一が『男はつらいよ』と命名した。山田は当時、この変更を快く思っていなかった[要出典]。
他にも、同時期にTBS系列で放映されていた渥美清主演のテレビ映画『泣いてたまるか』の、最終回のタイトルが「男はつらい」であり、この回の脚本を山田洋次が書いていたことも決め手となった。タイトル変更の経緯から、『意地のすじがね』の作詞者でもあった星野哲郎に、主題歌の作詞が依頼されることになる。
放送とその後 [編集]
船山馨原作のベストセラー小説をドラマ化した『石狩平野』が不調で、1年の放送期間が半年に短縮された。これにより、秋の番組編成に穴が空いてしまったため、本作の放送時間が木曜夜10時となる。今でこそ木曜夜10時はフジの独擅場だが、当時のこの時間帯は他局が圧倒しており、苦戦のフジは同局の渥美ドラマの人気で打破したい思惑もあった。
放送開始当初こそ視聴率は苦戦を続けたが、回数を重ねる毎に少しずつ上昇していき、番組終了までに最高で20%台を達するまでになった。視聴率としては高いとは言えないが、当時の状況を思えば大健闘の数字である。このため、当初は3ヶ月・13回の放送予定を、半年・26回に延長した。
最終回で寅次郎は、ハブ狩りで一儲けしようと奄美大島に出かけるが、そのハブに噛まれて死んでしまう。寅次郎を死なせたことで、視聴者からはテレビ局に抗議の電話が殺到、これが映画化に繋がった。しかし、当時はまだテレビ番組の地位が、映画から見てかなり低く見られていた時代であった。松竹は、テレビ番組の映画化に難色を示していたが、山田洋次と松竹プロデューサー上村力の説得に折れる形で映画化された。
映像の現存状況 [編集]
テレビ版の映像は、フジテレビのライブラリーには第1回と最終回だけしか現存していない。その理由としては、以下の事柄も関係している。
当時のVTRの規格が2インチで、機器・テープ共に高価だった。
当時は著作権法などの絡みで、番組の資料保存が制約されていた。
番組保存の概念が希薄だったことや、白黒番組が二次使用で商売になることは想定しなかった。
そのため当時、ビデオテープは放送後に使いまわされるのが普通であった。現在、全話の再放送および全話収録の完全版映像ソフトの製作・発売は不可能とされている。
現存する第1回と最終回については、1997年2月にフジテレビよりVHSで、2008年8月に松竹よりDVDでソフト化された。これらのビデオソフトでは、欠落した回も写真で紹介するほか、スタッフによる企画の誕生などのエピソードが収録されている。また、横浜市にある放送ライブラリーでは、第1回を閲覧することができる。
出演者 [編集]
車寅次郎:渥美清
さくら(櫻):長山藍子
車竜造(おいちゃん):森川信
車つね(おばちゃん):杉山とく子
雄二郎(※自称・寅の実弟。タネ違いの弟):佐藤蛾次郎
諏訪博士(※医師):井川比佐志
坪内散歩(※英語の先生、寅の恩師):東野英治郎
坪内冬子(※マドンナ。寅とさくらの幼馴染):佐藤オリヱ
鎌倉ミチオ(※さくらの恋人):横内正
冬子の恋人:加藤剛
川又登(※寅の舎弟でとらやの従業員):津坂匡章
フジテレビ系 木曜22時枠
前番組 番組名 次番組
石狩平野 男はつらいよ ブラックチェンバー
アニメ版 [編集]
渥美清没後2年の命日を記念して、1998年8月7日19時に、高井研一郎作画のコミック版を元に、映画シリーズ第11作の『男はつらいよ 寅次郎忘れな草』を参考にした『アニメ 男はつらいよ〜寅次郎忘れな草〜』が、TBS『金曜テレビの星!』で放映された。
視聴率は7.1%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)と、TBSの予想よりは不振に終わった。
その後、2009年1月25日に、バラエティ番組『快感MAP』(テレビ朝日)で再放送された。
キャスト [編集]
寅さん:山寺宏一
リリー:冬馬由美
さくら:岡本茉利
博:大塚芳忠
竜造:矢田稔
つね:東美江
タコ社長:峰恵研
御前様:槐柳二
源公:龍田直樹
満男:増田ゆき
備後屋:田原アルノ
栗原・夫:岡部政明
栗原・妻:種田文子
あや子:荒木香恵
進一:津村まこと
水原:志賀克也
めぐみ:菊地祥子
良吉:塩屋浩三
母親:有馬瑞香
司会者:星野充昭
社員A:小野塚貴志
社員B:鈴木正和
マサル:喜田あゆみ
少年A:黒田やよい
隣人:坂東尚樹
スタッフ [編集]
原作:山田洋次
製作総指揮:村田英憲
製作協力:荒井雅樹(大船撮影所)、林律雄、高井研一郎
プロデューサー:小野辰雄、山村俊史(TBS)
アニメーションプロデューサー:出崎哲
音楽:山本直純
キャラクターデザイン・総作画監督:小林ゆかり
音響監督:加藤敏
美術監督:阿部幸次
色彩設定:西川裕子
撮影監督:岡崎英夫
演出:棚橋一徳
文芸:小出一巳
絵コンテ・総監督:四分一節子
原著作・協力:松竹
制作協力:マジックバス
テレビ版アニメ製作:エイケン、TBS
関連番組 [編集]
BSスペシャル 渥美清の寅さん勤続25年(NHK-BS2、1995年1月15日)
クローズアップ現代 寅さんの60日(NHK総合、1995年12月11日)
本作をもとにしたキャラクターが登場する作品 [編集]
フーセンのドラ太郎 - 『男はつらいよ』のアニメ版ということで、同作品のキャラクターを猫と鼠が演じた1981年放映のアニメーション。
ゲゲゲの鬼太郎 - ねずみ男が、寅さんと同様の格好をして放浪する回がある。その際、寅さんのおなじみのセリフをこぼす。
ガンバの冒険(11話 ペテン師トラゴローを追え) - 寅さんをモチーフにしている「トラゴロー」というキャラクターが登場。
きらりん☆レボリューション - 寅さんに似た格好をしている「ふーさん」が登場している。
ドラえもん - 寅さんをモチーフにしたと思われる虎猫ロボットの「トラえもん」が登場している。またドラえもんも作中で、のび太と喧嘩した際には度々「それをいったらおしまいだよ」と言っている。
地獄先生ぬ〜べ〜 - 原作のエピソードで、マウスが増殖し誰も手がつけられなくなるという話で、そのマウスを売る男が寅次郎をモチーフにしている。ただ、諸悪の根源という意味合いから、寅さんというよりも悪魔じみた感じで描かれている。
かいけつゾロリ - 寅さん、さくら、おいちゃん、おばちゃん、たこ社長を意識したキャラクターが89話に登場した。
魔弾戦記リュウケンドー - 随所に本作へのオマージュが散りばめられており、特に登場人物の一人「ガジロー」は、佐藤蛾次郎が演じた源公そのままのキャラクターで、佐藤の実子・佐藤亮太が演じる。
サラリーマンNEO(NHK) - キャラシリーズに「渥美トラ次郎」という虎模様の猫がいる。これは渥美と寅次郎をかけたものである。
超力戦隊オーレンジャー-第43話に登場したマシン獣「バラペテン」は、人間体として寅さんに似た「フーテンの熊」に化けることができる。
炎神戦隊ゴーオンジャー - 第21話に登場した「フーセンバンキ」は、公式ホームページによるとフーテンとフーセンをかけており、寅さんに似た言動や帽子、カバンを持っている。その声も、寅さんの物まね芸人である原一平が担当している。
ぜんまいざむらい - 寅さんの名前を意識した「どろぼう猫の虎次郎」という猫が登場した。(虎も猫科の動物で猫に虎とつける話は本作の映画にもある)
天才てれびくんMAX- 天てれドラマ「ダーリンは11さい?!」の最終話に登場した的屋のかっこう及び口上は明らかに寅さんのものである。
脚注 [編集]
1.^ 『寅次郎忘れな草』、『寅次郎相合い傘』、『寅次郎ハイビスカスの花』の3作
2.^ 2007年1月8日放送芸能人雑学王決定戦より
3.^ 渥美清没後10年の命日を記念して掲載された2006年8月4日の北日本新聞のコラム「天地人」より
4.^ 2007年1月6日NHK放送「寅さんレビュー」
5.^ 男はつらいよ 全巻BOX 特典DVD「寅さんが遺してくれたもの」
6.^ 作詞家・星野哲郎氏が語る「男はつらいよ」(インターネット・アーカイブのミラー)
関連項目 [編集]
柴又帝釈天
啖呵売
的屋
虹をつかむ男
フーセンのドラ太郎
松竹
松竹大船撮影所
釣りバカ日誌 - 『男はつらいよ』以後の松竹を代表するシリーズ
野口よういち - 寅さんの格好、ものまねにより柴又のガイドをしている芸人。
外部リンク [編集]
公式サイト [編集]
寅さんの世界 - 松竹
関連サイト [編集]
柴又帝釈天門前 とらやごく初期の頃、撮影に使った和菓子店(撮影当時の屋号は“柴又屋”)
高木屋のホームページ映画撮影に積極的に協力していただんご屋
葛飾柴又寅さん記念館
江戸川寅次郎国土交通省関東地方整備局江戸川河川事務所
渥美清こもろ寅さん会館 (長野県小諸市)
研究サイト [編集]
さすらいの月虎
TV版寅さんサイト通信
男はつらいよ覚え書ノート
寅さんのいる町〜葛飾柴又をゆく〜
[隠す]表・話・編・歴男はつらいよ
1-12作 男はつらいよ - 続・男はつらいよ - フーテンの寅 - 新・男はつらいよ - 望郷篇 - 純情篇 - 奮闘篇 - 寅次郎恋歌 - 柴又慕情 - 寅次郎夢枕 - 寅次郎忘れな草 - 私の寅さん
13-24作 寅次郎恋やつれ - 寅次郎子守唄 - 寅次郎相合い傘 - 葛飾立志篇 - 寅次郎夕焼け小焼け - 寅次郎純情詩集 - 寅次郎と殿様 - 寅次郎頑張れ! - 寅次郎わが道をゆく - 噂の寅次郎 - 翔んでる寅次郎 - 寅次郎春の夢
25-36作 寅次郎ハイビスカスの花 - 寅次郎かもめ歌 - 浪花の恋の寅次郎 - 寅次郎紙風船 - 寅次郎あじさいの恋 - 花も嵐も寅次郎 - 旅と女と寅次郎 - 口笛を吹く寅次郎 - 夜霧にむせぶ寅次郎 - 寅次郎真実一路 - 寅次郎恋愛塾 - 柴又より愛をこめて
37-48作・特別編 幸福の青い鳥 - 知床慕情 - 寅次郎物語 - 寅次郎サラダ記念日 - 寅次郎心の旅路 - ぼくの伯父さん - 寅次郎の休日 - 寅次郎の告白 - 寅次郎の青春 - 寅次郎の縁談 - 拝啓車寅次郎様 - 寅次郎紅の花 - ハイビスカスの花 特別篇
関連項目 松竹 - 渥美清 - 山田洋次 - 柴又 - 柴又帝釈天
「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B7%E3%81%AF%E3%81%A4%E3%82%89%E3%81%84%E3%82%88」より作成
カテゴリ: 雑多な内容を箇条書きした節のある記事 - 2009年7月 | 出典を必要とする記事 | 男はつらいよシリーズ | フジテレビのテレビドラマ | 1968年のテレビドラマ | 1969年の映画 | 京都府を舞台とした作品 | 日本クラウンのシングル | 1970年のシングル表示
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この項目では、「男はつらいよ」全般について記述しています。映画第一作目については「男はつらいよ (映画)」を、各作品の解説については「男はつらいよ#映画シリーズ一覧」をご覧ください。
京成金町線柴又駅前にたつ、車寅次郎の銅像『男はつらいよ』(おとこはつらいよ)は、渥美清主演、山田洋次原作・監督(一部作品除く)のテレビドラマおよび映画である。テキ屋稼業を生業とする「フーテンの寅」こと車寅次郎が、何かの拍子に故郷の葛飾柴又に戻ってきては何かと大騒動を起こす人情喜劇シリーズ。毎回旅先で出会った「マドンナ」に惚れつつも、失恋するか身を引くかして成就しない寅次郎の恋愛模様を、日本各地の美しい風景を背景に描く。主人公の名前から、作品自体も「寅さん」と呼ばれることが多い。
目次 [非表示]
1 概要
2 映画概要
3 エピソード
4 登場人物
4.1 レギュラー
4.2 準レギュラー
4.3 サブキャラクター
5 映画シリーズ一覧
5.1 未撮影作品
5.2 シリーズのロケ地
5.3 寅次郎花へんろと虹をつかむ男
5.4 寅次郎ハイビスカスの花 特別篇
6 有名なシーン・セリフ
6.1 有名なシーン
6.2 有名なセリフ
7 主題歌
8 テレビ版
8.1 経緯
8.2 放送とその後
8.3 映像の現存状況
8.4 出演者
9 アニメ版
9.1 キャスト
9.2 スタッフ
10 関連番組
11 本作をもとにしたキャラクターが登場する作品
12 脚注
13 関連項目
14 外部リンク
14.1 公式サイト
14.2 関連サイト
14.3 研究サイト
概要 [編集]
1968年 - 1969年に、フジテレビが制作・放送したテレビドラマが最初である。このテレビ版のヒット、最終回で寅次郎がハブを取りに行こうとして、逆にハブにやられ、毒が回り死んだと言う結末が視聴者から多数の抗議が殺到して、映画化につながった。
映画シリーズは、松竹によって1969年(昭和44年)から1995年(平成7年)までに全48作が、1997年(平成9年)に特別編1本が製作された。なお、第1作は1969年6月には完成していたらしいが、一時お蔵入りとなり、8月になってから上映された。
山田洋次が全48作の原作・脚本を担当。第3作、第4作を除く46作を自ら監督した。第3作の監督は森崎東、第4作は小林俊一である。第5作を山田が再び監督し、シリーズを完結させる予定であったが、あまりのヒットに続編の制作が決定した。
以降、全作品がヒットして松竹のドル箱シリーズとなり、30作を超えた時点で世界最長の映画シリーズとしてギネスブック国際版にも認定された。ただしこれは作品数においてであり、年数では『ゴジラ』シリーズの方が長い。渥美の死去により、1995年に公開された第48作『寅次郎紅の花』をもって幕を閉じた。その後、ファンからのラブコールが多かったとの事で、『寅次郎ハイビスカスの花』を再編集し、新撮影分を加えた『寅次郎ハイビスカスの花 特別篇』が1997年に公開された。また渥美の死により、第49作および本来の最終作となるはずだった第50作が未撮影になった。
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注意:以降の記述で物語・作品・登場人物に関する核心部分が明かされています。
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映画概要 [編集]
男はつらいよ
渥美清演じる車寅次郎
監督 山田洋次(一部作品除く)
出演者 渥美清、倍賞千恵子、前田吟、
太宰久雄、笠智衆、佐藤蛾次郎など
配給 松竹
上映時間 1969年 - 1995年
製作国 日本
言語 日本語
表・話・編・歴
主人公、「フーテンの寅」こと車寅次郎は、父親、車平造が芸者、菊との間に作った子供。実母の出奔後父親のもとに引き取られたが、16歳の時に父親と大ゲンカをして家を飛び出したという設定。第1作は、テキ屋稼業で日本全国を渡り歩く渡世人となった寅次郎が家出から20年後突然、倍賞千恵子演じる腹違いの妹さくらと叔父夫婦が住む、生まれ故郷の東京都葛飾区柴又・柴又帝釈天の門前にある草団子屋に戻ってくるところから始まる。
シリーズのパターンは寅次郎が旅先や柴又で出会うマドンナに惚れてしまい、マドンナも寅次郎に対して好意を抱くが、それは多くの場合恋愛感情ではなく、最後にはマドンナの恋人が現れて寅次郎は振られてしまう。そして落ち込んだ寅次郎が正月前、もしくは盆前(即ち正月、盆がテキ屋は書き入れ時)に再びテキ屋稼業の旅に出て行くという結末で一貫している。
『寅次郎夢枕』の千代や、いわゆる「リリー三部作」[1]のリリーなどのように、寅次郎に恋愛感情を持ったマドンナもいたが、この場合は、寅次郎の方が逃げ腰になり、自ら身を引く形となっている。また、マドンナと「うまくいっている」と誤解している時点で、寅次郎が柴又に帰り、さくら達にマドンナとの楽しい体験を話す場面は、渥美清の語りは落語家のような名調子で、スタッフやキャスト達は「寅のアリア」と呼んでいた。
第42作以降の4作品は、寅次郎の相手となる通常のマドンナに加え、さくらの息子満男(吉岡秀隆)が思いを寄せる泉(後藤久美子)がマドンナとして登場するようになり、寅次郎が満男のコーチ役にまわる場面が多くなっている。渥美が病気になり快活な演技ができなくなったため、満男を主役にしたサブストーリーを作成、満男の恋の相手が必要になったため、当初は予定されてなかった泉が登場することとなる。山田監督の話によれば第49作で泉と満男を結婚させようと考えていたらしいが、渥美の死去により幻になった(『紅の花』で泉の結婚式を妨害し、結婚式を中断させたのは結婚への伏線であったとも考えられる)。
柴又帝釈天レギュラーとして登場する人物は、寅次郎、さくらのほか、さくらの夫・諏訪博、草団子店を経営する叔父・竜造と叔母・つね、博が勤務する印刷会社「朝日印刷所(第一作、第二作のみ共栄印刷)」の社長で寅次郎の幼馴染・タコ社長こと桂梅太郎(第六作のみ堤梅太郎)、帝釈天の御前さま、寺男で寅次郎の舎弟・源公などがいた。マドンナとして複数回登場した女優もいるが、リリー、泉、歌子(吉永小百合)以外は、別人の役で出演している。おいちゃんこと叔父・竜造役は初代が森川信、2代目は松村達雄、3代目は下條正巳が演じた。その他、毎回役柄は違うものの、サブキャラクターとしてレギュラー出演する俳優も多く存在した。
青年時代に、実際にテキ屋体験がある渥美ならではの見事な口上も、ファンの楽しみであった。また、このシリーズは原則としてお盆と正月の年二回公開されたが、お盆公開の映画の春から夏への旅は、南から北へ、正月公開の秋から冬への旅は、北から南へ旅することが多かった。画面に映し出される日本各地の懐かしい風景が、シリーズの魅力の一つでもある。
なお、第48作まで一貫してエンドロール表示は設定されず、出演キャストや製作スタッフ等の字幕表示はオープニングでされた。
エピソード [編集]
この記事に雑多な内容を羅列した節があります。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか整理・除去する必要があります。(2009年7月貼付)
当初は興行成績よりも評価が優先している傾向があり、不動の大ヒットシリーズとなったのは第5作あたりからである。
御前様役を演じていた笠智衆は、第45作終了直後に亡くなっている。しかし、御前様の娘・冬子役としてかつて出演していた光本幸子が第46作で久々に出演、さくらと冬子が二人で御前様の近況の会話をする描写があるほか、さくらが源公に「御前様お元気?」と聞くシーンもあり、笠が亡くなっても、御前様は健在であるという設定になっている。
オープニングテーマの前に始まる、寅次郎が旅先で見る様々な夢は、全撮影の最後に撮影されている。夢のシーンは『科学者の寅次郎が怪獣を倒す』等の本編とは全く関係のない話が多い。なお、出演者には直前まで内容は秘密にされていたという。
山田洋次が柴又を知ったのは、『下町の太陽』を監督する際、作家の早乙女勝元に教授してもらうために早乙女宅を訪問。早乙女宅からすぐそばにあった帝釈天を、案内されたのが切っ掛けである。
フジテレビで、登場人物を動物に置き換えたテレビアニメ版『フーセンのドラ太郎』が放送された。また、TBSでもテレビアニメ版が放送され、映画シリーズに出演したことがある岡本茉利がさくら役になっている。それぞれ制作会社も制作時期も異なり、関連性はない。
源公役の佐藤蛾次郎は、第8作のみ、交通事故にあったため出演していない。
寅次郎の名は、映画監督の斎藤寅次郎にちなむ。
映画の舞台に使用した柴又の団子屋が、実際に「とらや」に屋号を変更した。このため、作中の「とらや」の屋号は、第40作から「くるまや」に変わる。
柴又の店舗で撮影されていたのは第4作までで、それ以降は松竹大船撮影所のセットである。
出川哲朗は若手時代に、第37作、第39作の2本にチョイ役で出演している。第37作では台詞も一言だけある。本人のコメントによると、撮影現場で渥美清に「君は普段何をしてるのかね?」と尋ねられたという。
第46作には、本作と同時上映として製作されていた『釣りバカ日誌』の主人公である、西田敏行演じるハマちゃんがカメオ出演している。釣具を背負ったハマちゃんが釣りに向かう途中、くるまやの前を通って、おばちゃんと会話を交わすというもので、松竹の二大シリーズ間でスター・システムを取り入れている。
2001年(平成13年)8月4日、奇しくも渥美清の5回目の命日に、柴又八幡神社古墳において帽子や顔の輪郭などが「寅さん」にそっくりの埴輪が出土した。現在は複製が寅さん記念館に展示してある。このことは、フジテレビのバラエティ番組『トリビアの泉』でも紹介された。考古学者によると、この埴輪は6世紀のものであるといい、この埴輪を見た山田監督は驚いたという。新聞で紹介された時は「君は寅さんのご先祖様かい?」という見出しがついた。
さくらと博が住む川沿いの家は、毎回同じではなく変わっている。
正月映画としての公開が毎年の恒例だったことから、「寅さん」は冬の季語にもなっている[2]。
長野県小諸市には、寅さん会館という、寅さんの記念館がある。
京成電鉄は初回より撮影に協力。日本で初めて鉄道施設内での撮影を可能とした。
渥美の死去により、2代目寅さんの誕生が噂され、片岡鶴太郎や西田敏行らが候補とされた。これは噂の域にとどまらず、実際に報道もされたが、「寅さん=渥美清」という山田監督の意向もあってお蔵入りとなっている。1996年・1997年には、本シリーズに代わる新たな松竹正月映画として、西田主演、山田監督、寅さんファミリーと呼ばれる常連出演者勢ぞろい、男はつらいよとほぼ同じスタッフが参加した『虹をつかむ男』が公開された。しかし。その後の松竹の看板正月映画は、1988年から2009年まで続いた、西田主演で山田洋次が脚本家としても携わる『釣りバカ日誌』シリーズに受け継がれることとなる。
全48作中9作がキネマ旬報・ベストテンに入選している。同ベストテンでは、『仁義なき戦い』等の例外を除くと、プログラムピクチャーシリーズ(『駅前』『社長』『若大将』など)やその他時代劇も含め、シリーズ物の映画はほとんど無視される傾向がある。それから考えると、評価の高さが伺える。
特に、ブラジルのサンパウロ市にある日本人街「リベルダージ」の映画館では、1990年代に至るまで最新作が毎作上映されていた。なお、ブラジルの法律で「8歳以上指定作品」となっていた。
また、同じく1990年代までは日本航空の機内で最新作が上映されていた。
北朝鮮の金正日総書記がファンであるとされる。
登場人物 [編集]
レギュラー [編集]
車寅次郎:渥美清
主人公。職業は的屋で、各地を回って物を売っている。
諏訪さくら:倍賞千恵子
寅次郎の腹違いの妹。諏訪博と結婚して満男を産む。
諏訪博:前田吟
さくらの夫。満男の父。
車竜造(おいちゃん):森川信(第1作 - 第8作)→松村達雄(第9作 - 第13作)→下條正巳(第14作 - 第48作)
車つね(おばちゃん):三崎千恵子
諏訪満男:中村はやと(第1作 - 第8作、第10作 - 第26作)沖田康浩(第9作)→吉岡秀隆(第27作 - 第48作)
さくらの長男で、寅次郎からは甥にあたる。浪人生活を経て、城東大学に入学、卒業した。浪人中に、後藤久美子演じる及川泉に恋をする。晩年のシリーズでは寅次郎より満男と泉の関係にスポットを当てた作品も見られた。
桂梅太郎(社長・タコ社長):太宰久雄
御前様:笠智衆(第1作 - 第45作)
源公:佐藤蛾次郎(第8作を除く)
準レギュラー [編集]
川又登(寅次郎の舎弟):津坂匡章(現・秋野太作)(第1作 - 第5作、第9作 - 第10作、第33作)
坪内冬子(御前様の娘/第1作のマドンナ):光本幸子(第1作、第7作、第46作)
諏訪飈一郎(博の父):志村喬(第1作、第8作、第22作)
リリー(マドンナ):浅丘ルリ子(第11作、第15作、第25作、第48作)
お菊(寅次郎の母):ミヤコ蝶々(第2作、第7作)
桂あけみ(タコ社長の娘):美保純(第33作 - 第39作)
及川泉(満男の交際相手/マドンナ):後藤久美子(第42作 - 第45作、第48作)
及川礼子(泉の母):夏木マリ(第42作 - 第45作、第48作)
三平(くるまやの店員):北山雅康(第40作 - 第48作)
加代(くるまやの店員):鈴木美恵(第46作 - 第48作)
サブキャラクター [編集]
関敬六(シリーズ後半からは、寅のテキヤ仲間・ポンシュウ役)
桜井センリ(寅のテキヤ仲間など)
松村達雄(おいちゃん役の他に医者、定時制高校の教師、お寺の住職、教授役など)
米倉斉加年(交番の巡査、寅の恋敵役など)
笹野高史(足の速さを見込まれて・こそ泥、役所の事務員ほか多数)
すまけい(船長役など多数)
犬塚弘(同級生役など)
イッセー尾形(医師、車掌役など)
マキノ佐代子(朝日印刷所事務員役など)
谷よしの(初期はご近所さんが多く、他に寅さんが泊る旅館の仲居さん、地方の老婆役)
吉田義夫(旅の一座の座長役など)
岡本茉利(旅の一座の大空小百合役など)
あき竹城
津嘉山正種(オープニングに登場する絵描き役など)
石井均
アパッチけん
神戸浩
寺尾聰(警察官、泉の父役など)
石倉三郎
大滝秀治(寺の住職、古書店主役など)
映画シリーズ一覧 [編集]
作数 公開 タイトル マドンナ・共演者 ロケ地
1 1969年8月27日 男はつらいよ 光本幸子, 志村喬 京都府、奈良県
2 1969年11月15日 続・男はつらいよ 佐藤オリエ, 山崎努 京都府、三重県(柘植)
3 1970年1月15日 男はつらいよ フーテンの寅 新珠三千代, 河原崎建三 三重県(湯の山温泉)、鹿児島県(種子島)
4 1970年2月27日 新・男はつらいよ 栗原小巻, 横内正 愛知県(名古屋市)
5 1970年8月25日 男はつらいよ 望郷篇 長山藍子 千葉県(浦安市)、北海道(札幌市、小樽市)
6 1971年1月15日 男はつらいよ 純情篇 若尾文子 長崎県(長崎市、福江島)、静岡県(浜名湖)
7 1971年4月28日 男はつらいよ 奮闘篇 榊原るみ, ミヤコ蝶々, 田中邦衛 新潟県(越後広瀬)、静岡県(沼津市)、青森県(鰺ヶ沢町、弘前市)
8 1971年12月29日 男はつらいよ 寅次郎恋歌 池内淳子, 志村喬 岡山県(備中高梁)
9 1972年8月5日 男はつらいよ 柴又慕情 吉永小百合, 宮口精二 石川県(金沢市)、福井県(東尋坊)
10 1972年12月29日 男はつらいよ 寅次郎夢枕 田中絹代, 八千草薫 山梨県(甲府市)、長野県(奈良井)
11 1973年8月4日 男はつらいよ 寅次郎忘れな草 浅丘ルリ子 北海道(網走)
12 1973年12月26日 男はつらいよ 私の寅さん 岸惠子, 前田武彦 熊本県(天草、阿蘇)、大分県(別府)
13 1974年8月3日 男はつらいよ 寅次郎恋やつれ 吉永小百合, 宮口精二 島根県(津和野、温泉津)
14 1974年12月28日 男はつらいよ 寅次郎子守唄 十朱幸代 佐賀県(唐津市)、群馬県(磯部温泉)
15 1975年8月2日 男はつらいよ 寅次郎相合い傘 浅丘ルリ子, 船越英二 青森県(青森市)、北海道(函館市、長万部町、札幌市、小樽市)
16 1975年12月27日 男はつらいよ 葛飾立志篇 樫山文枝, 小林桂樹 山形県(寒河江市)、静岡県
17 1976年7月24日 男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け
(仮タイトルは『男はつらいよ 柴又の伊達男』) 太地喜和子, 宇野重吉 兵庫県(龍野市)
18 1976年12月25日 男はつらいよ 寅次郎純情詩集 京マチ子, 檀ふみ 長野県(別所温泉)、新潟県(六日町)
19 1977年8月6日 男はつらいよ 寅次郎と殿様 真野響子, 嵐寛寿郎, 平田昭彦 愛媛県(大洲市)
20 1977年12月24日 男はつらいよ 寅次郎頑張れ! 藤村志保, 中村雅俊, 大竹しのぶ 長崎県(平戸島)
21 1978年8月5日 男はつらいよ 寅次郎わが道をゆく 木の実ナナ, 武田鉄矢 熊本県(田の原温泉)
22 1978年12月27日 男はつらいよ 噂の寅次郎 大原麗子, 志村喬 長野県(木曽福島)、静岡県(大井川)
23 1979年8月4日 男はつらいよ 翔んでる寅次郎 木暮実千代, 桃井かおり 北海道(支笏湖)
24 1979年12月28日 男はつらいよ 寅次郎春の夢 香川京子 和歌山県、京都府、アメリカ合衆国(アリゾナ州)
25 1980年8月2日 男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花 浅丘ルリ子 沖縄県、長野県(軽井沢)
26 1980年12月27日 男はつらいよ 寅次郎かもめ歌 伊藤蘭, 米倉斉加年 北海道(奥尻島・江差町)、徳島県
27 1981年8月8日 男はつらいよ 浪花の恋の寅次郎 松坂慶子 大阪府、瀬戸内、長崎県(対馬)
28 1981年12月28日 男はつらいよ 寅次郎紙風船 音無美紀子 福岡県(秋月)、大分県(夜明)、静岡県(焼津市)
29 1982年8月7日 男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋 いしだあゆみ, 片岡仁左衛門 京都府(京都市、伊根)、長野県(信濃大町)、神奈川県(鎌倉市)、滋賀県(彦根市)
30 1982年12月28日 男はつらいよ 花も嵐も寅次郎 田中裕子, 沢田研二 大分県(湯平温泉、別府鉄輪温泉、由布市)
31 1983年8月6日 男はつらいよ 旅と女と寅次郎 都はるみ 新潟県(佐渡市、新潟市、支笏湖)
32 1983年12月28日 男はつらいよ 口笛を吹く寅次郎 竹下景子, 長門勇 岡山県(備中高梁)、広島県(因島)
33 1984年8月4日 男はつらいよ 夜霧にむせぶ寅次郎 中原理恵, 渡瀬恒彦 岩手県(盛岡市)、北海道(釧路市、根室市、中標津町、養老牛温泉)
34 1984年12月28日 男はつらいよ 寅次郎真実一路 大原麗子, 辰巳柳太郎, 津島恵子, 米倉斉加年 鹿児島県(枕崎市・指宿市)、茨城県(牛久沼)
35 1985年8月3日 男はつらいよ 寅次郎恋愛塾 樋口可南子, 平田満 長崎県(上五島)、天草市、秋田県(鹿角市)
36 1985年12月28日 男はつらいよ 柴又より愛をこめて 栗原小巻 静岡県(下田)、東京都(式根島)、静岡県(浜名湖)、福島県(会津若松市)
37 1986年12月20日 男はつらいよ 幸福の青い鳥 志穂美悦子, 長渕剛 福岡県(筑豊)、山口県(萩市、下関市)
38 1987年8月5日 男はつらいよ 知床慕情 竹下景子, 三船敏郎 北海道(斜里町)、岐阜県(岐阜市)
39 1987年12月26日 男はつらいよ 寅次郎物語 五月みどり, 秋吉久美子 奈良県(吉野)、和歌山県、三重県(志摩市、伊勢市二見町)
40 1988年12月24日 男はつらいよ 寅次郎サラダ記念日 奈良岡朋子, 三田佳子 長野県(小諸市、松本市)、長崎県(島原市)
41 1989年8月5日 男はつらいよ 寅次郎心の旅路 竹下景子, 柄本明 オーストリア(ウィーン)、オランダ・(アムステルダム・スキポール国際空港)、宮城県(松島)、石川県
42 1989年12月27日 男はつらいよ ぼくの伯父さん 檀ふみ, 後藤久美子 佐賀県(佐賀市、古湯温泉、吉野ヶ里)、茨城県(袋田)
43 1990年12月22日 男はつらいよ 寅次郎の休日 夏木マリ, 後藤久美子 大分県(日田市)、愛知県(名古屋市)
44 1991年12月23日 男はつらいよ 寅次郎の告白 吉田日出子, 後藤久美子 鳥取県、岐阜県(奥恵那峡・蛭川)
45 1992年12月26日 男はつらいよ 寅次郎の青春 風吹ジュン, 後藤久美子 宮崎県(油津)、岐阜県(下呂温泉)
46 1993年12月25日 男はつらいよ 寅次郎の縁談 松坂慶子, 島田正吾 香川県(琴平・志々島・高見島)、栃木県(烏山)
47 1994年12月23日 男はつらいよ 拝啓車寅次郎様 かたせ梨乃, 牧瀬里穂 新潟県(上越市)、滋賀県(長浜、西浅井町)、神奈川県(鎌倉市)、長崎県(雲仙)
48 1995年12月23日 男はつらいよ 寅次郎紅の花 浅丘ルリ子, 後藤久美子 鹿児島県(奄美大島)、岡山県(滝尾・津山)、兵庫県(神戸市)
特別編 1997年11月22日 男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花 特別篇 浅丘ルリ子 沖縄県
未撮影作品 [編集]
1996年12月28日公開予定 『男はつらいよ 寅次郎花へんろ』(マドンナ:田中裕子 ロケ地:高知県)
1997年12月公開予定 タイトル不明(マドンナ:黒柳徹子[3] ロケ地:未定)
山田洋次は、最終作で寅次郎が幼稚園の用務員になり、子供たちとかくれんぼをしている最中に息を引き取り、町の人が思い出のために地蔵を作るという構想を早くから持っていた。このことは1990年8月25日に放送されたTBS『クイズダービー』(第754回)の第7問(三択問題)で出題されており、遅くとも同年時点でこの構想があったことがわかる(正解は1枠の北野大、3枠のはらたいら、5枠ゲストの山崎浩子)。なお、本シリーズにマドンナとして出演した実績がある、レギュラー解答者の竹下景子は、2枠の井森美幸と同様に「温泉のストリップ小屋(で眠るように死んでしまう)」と書いて不正解だった。
シリーズのロケ地 [編集]
『男はつらいよ』シリーズの撮影はほぼ全国で行われているが、高知県と富山県と埼玉県では撮影が行われていない(2008年12月5日放送のテレビ東京『日本のビックリ新発見!頭が良くなるヘンな地図』より)。 ただし、高知県では第49作の撮影が決定していた。また、セリフ上では第8作で高知へ行ったということになっている。
高知県と富山県では後に、『男はつらいよ」以後松竹の看板として国民的映画シリーズになった『釣りバカ日誌』において、連続して撮影が行われた。
海外撮影はアメリカ(24作)、オーストリア(41作)で行われた。
寅次郎花へんろと虹をつかむ男 [編集]
シリーズ第49作のマドンナは田中裕子で、その兄役で西田敏行が出演の予定だった。物語は、妹が中絶した子供の父親が寅さんかと兄が疑い、それから寅さんがこの兄妹の後見人になる、また泉と満男を結婚させる、というものだったらしい。公開日は1996年12月28日と決まり、秋からの撮影を控えていた。「渥美清の伝言」によると、1996年6月28日に秋から始まる撮影に向けて意欲を燃やしていたが、渥美の死去により実現しなかった。
公開予定の1996年12月28日にほぼ同じキャスト、ロケ地で『虹をつかむ男』が渥美清への追憶映画として公開された。倍賞千恵子、前田吟、吉岡秀隆の三人はこの映画でも親子役である。渥美清もCGではあるが、1シーンだけ登場している。
寅次郎ハイビスカスの花 特別篇 [編集]
1997年に公開された『寅次郎ハイビスカスの花 特別篇』は、根強い寅さん人気に応える形で作られた作品である。満男が寅さんを回想する内容で、タイトルになっている第25作『寅次郎ハイビスカスの花』だけではなく、第11作『寅次郎忘れな草』、第15作『寅次郎相合い傘』のシーンが使われている。映像技術の進歩によって製作できた作品とも言え、満男が見た幻としてCGの寅さんが登場した。主題歌を八代亜紀が歌っている。
有名なシーン・セリフ [編集]
有名なシーン [編集]
「寅のアリア」(第15作・男はつらいよ 寅次郎相合い傘)
リリーをキャバレーまで送った寅次郎は、そのあまりの環境の劣悪さに驚き、肩を落としてとらやに帰って来る。「俺にふんだんに銭があったら・・・」寅次郎は大ステージで歌い上げるリリーの姿を想像し、臨場感たっぷりにさくらたちへ語って聞かせる。寅次郎の切ないまでの愛情が渥美清の名演技によって表現されている。山田洋次によれば[4]、後日リリー役の浅丘ルリ子がこのシーンを見て涙を流していたという。このシーンに限らず、渥美清独特の語り口によってなされる“一人語り”はスタッフの間から「寅のアリア」と呼ばれていた。
「メロン騒動」(第15作・男はつらいよ 寅次郎相合い傘)
寅次郎の世話になった男から高級メロンをもらったとらやの面々。切り分けて食べ始めたところへ寅次郎が外出から戻ってくる。寅次郎の分をうっかり勘定に入れ忘れていたことに気付いた一同は、大慌てで場を取り繕うとする。そんなとらやの人々を心が冷たいと激しくなじる寅次郎だったが、リリーが核心を突いた言葉で一喝してしまう。
「ぼたんの涙」(第17作・男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け)
芸者のぼたんが200万円の大金を騙し取られるが、法の盲点を突いたやり口になす術が見つからない。悲嘆に暮れるぼたんを横目に寅次郎はすっと立ち上がり、優しく別れの言葉を告げてとらやを飛び出していく。相手のところへ殴り込みに行こうとする寅次郎の捨て身の愛情に触れたぼたんは、幸福の涙を流す。
有名なセリフ [編集]
男はつらいよシリーズには、繰り返し使用されるセリフが多数ある。以下はその代表例である。
「それを言っちゃあお仕舞いよ」
喧嘩の際においちゃんが言う「出てってくれ」に対して寅次郎が返すセリフ。第1作で渥美清が咄嗟に放ってしまったアドリブだったが、セリフの持つ意味に感心した山田洋次がその後脚本に多用するようになった。[5]
「相変わらず馬鹿か?」
柴又に帰ってきた寅次郎が、備後屋などの顔なじみと交わす挨拶。これも、もともとは渥美清のアドリブであった。
「結構毛だらけ猫灰だらけ」
商売の啖呵から派生している、寅次郎の口癖。投げやりになったり、すねている際などに吐くこともある。
主題歌 [編集]
男はつらいよ
渥美清 の シングル
B面 チンガラホケキョーの唄
リリース 1970年2月10日
ジャンル 歌謡曲
レーベル 日本クラウン
渥美清 シングル 年表
オー大和魂
(1968年) 男はつらいよ
(1970年) ごめんくださいお訪ねします
(1972年)
同名の主題歌レコードは1970年2月に日本クラウンから発売され、シングルで38万枚のセールスを記録した[6]。売り上げこそ平凡だが、映画の主題歌としては息の長い曲となった。
もともとは、後述するテレビ版の主題歌であり、当初の歌い出しは、妹が嫁に行けない事を嘆く内容だった。しかし、妹さくらが結婚したため、自分がやくざ者だと自嘲する歌詞に変更された。
第49作『男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花 特別篇』では、八代亜紀が主題歌を歌っていた。沢知恵がアルバム『いいうたいろいろ2』の中でカバーしている。
『男はつらいよ』
作詞:星野哲郎
作曲:山本直純
歌:渥美清
テレビ版 [編集]
テレビドラマ「男はつらいよ」
ジャンル テレビドラマ
放送時間 木曜日22:00~22:45(45分)
放送期間 1968年10月3日 - 1969年3月27日(26回)
放送国 日本
制作局 フジテレビジョン、高島事務所
演出 小林俊一
脚本 山田洋次、稲垣俊、森崎東
プロデューサー 小林俊一、白川文造
出演者 渥美清、長山藍子ほか
オープニング 「男はつらいよ」渥美清
ドラマ
Portal: テレビ
Portal: ラジオ
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表・話・編・歴
映画第1作より前に、フジテレビ系列で山田洋次・稲垣俊・森崎東脚本の連続テレビドラマ『男はつらいよ』が放送された。1968年10月3日から1969年3月27日までの半年間、22時00分 - 22時45分に放送された。全26回。提供はいすゞ自動車、日本石油(現・新日本石油)、ニチバン。
経緯 [編集]
1966年にフジテレビで放送されていた、渥美清の連続テレビドラマ『おもろい夫婦』が大ヒットした。これをきっかけに、昭和40年代の同局では、渥美の連続ドラマが毎年のように放送されていた。本作は、フジの渥美ドラマ第3作にあたる。
制作は、フジテレビと高島事務所(当時の渥美が所属していた芸能事務所)。テレビ版は松竹の制作ではない。企画と演出はフジテレビ制作部のディレクター兼プロデューサー(当時)の小林俊一。同局の編成部では白川文造が係わった。
企画段階でのタイトルは『愚兄賢妹』という番組名だったが、フジテレビの営業から「愚兄賢妹では堅苦しくて番組として売り難い」と言われたため、タイトルを変更することになる。そして、北島三郎が唄っていた『意地のすじがね』の中にあった「つらいもんだぜ男とは」という歌詞をヒントに、小林俊一が『男はつらいよ』と命名した。山田は当時、この変更を快く思っていなかった[要出典]。
他にも、同時期にTBS系列で放映されていた渥美清主演のテレビ映画『泣いてたまるか』の、最終回のタイトルが「男はつらい」であり、この回の脚本を山田洋次が書いていたことも決め手となった。タイトル変更の経緯から、『意地のすじがね』の作詞者でもあった星野哲郎に、主題歌の作詞が依頼されることになる。
放送とその後 [編集]
船山馨原作のベストセラー小説をドラマ化した『石狩平野』が不調で、1年の放送期間が半年に短縮された。これにより、秋の番組編成に穴が空いてしまったため、本作の放送時間が木曜夜10時となる。今でこそ木曜夜10時はフジの独擅場だが、当時のこの時間帯は他局が圧倒しており、苦戦のフジは同局の渥美ドラマの人気で打破したい思惑もあった。
放送開始当初こそ視聴率は苦戦を続けたが、回数を重ねる毎に少しずつ上昇していき、番組終了までに最高で20%台を達するまでになった。視聴率としては高いとは言えないが、当時の状況を思えば大健闘の数字である。このため、当初は3ヶ月・13回の放送予定を、半年・26回に延長した。
最終回で寅次郎は、ハブ狩りで一儲けしようと奄美大島に出かけるが、そのハブに噛まれて死んでしまう。寅次郎を死なせたことで、視聴者からはテレビ局に抗議の電話が殺到、これが映画化に繋がった。しかし、当時はまだテレビ番組の地位が、映画から見てかなり低く見られていた時代であった。松竹は、テレビ番組の映画化に難色を示していたが、山田洋次と松竹プロデューサー上村力の説得に折れる形で映画化された。
映像の現存状況 [編集]
テレビ版の映像は、フジテレビのライブラリーには第1回と最終回だけしか現存していない。その理由としては、以下の事柄も関係している。
当時のVTRの規格が2インチで、機器・テープ共に高価だった。
当時は著作権法などの絡みで、番組の資料保存が制約されていた。
番組保存の概念が希薄だったことや、白黒番組が二次使用で商売になることは想定しなかった。
そのため当時、ビデオテープは放送後に使いまわされるのが普通であった。現在、全話の再放送および全話収録の完全版映像ソフトの製作・発売は不可能とされている。
現存する第1回と最終回については、1997年2月にフジテレビよりVHSで、2008年8月に松竹よりDVDでソフト化された。これらのビデオソフトでは、欠落した回も写真で紹介するほか、スタッフによる企画の誕生などのエピソードが収録されている。また、横浜市にある放送ライブラリーでは、第1回を閲覧することができる。
出演者 [編集]
車寅次郎:渥美清
さくら(櫻):長山藍子
車竜造(おいちゃん):森川信
車つね(おばちゃん):杉山とく子
雄二郎(※自称・寅の実弟。タネ違いの弟):佐藤蛾次郎
諏訪博士(※医師):井川比佐志
坪内散歩(※英語の先生、寅の恩師):東野英治郎
坪内冬子(※マドンナ。寅とさくらの幼馴染):佐藤オリヱ
鎌倉ミチオ(※さくらの恋人):横内正
冬子の恋人:加藤剛
川又登(※寅の舎弟でとらやの従業員):津坂匡章
フジテレビ系 木曜22時枠
前番組 番組名 次番組
石狩平野 男はつらいよ ブラックチェンバー
アニメ版 [編集]
渥美清没後2年の命日を記念して、1998年8月7日19時に、高井研一郎作画のコミック版を元に、映画シリーズ第11作の『男はつらいよ 寅次郎忘れな草』を参考にした『アニメ 男はつらいよ〜寅次郎忘れな草〜』が、TBS『金曜テレビの星!』で放映された。
視聴率は7.1%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)と、TBSの予想よりは不振に終わった。
その後、2009年1月25日に、バラエティ番組『快感MAP』(テレビ朝日)で再放送された。
キャスト [編集]
寅さん:山寺宏一
リリー:冬馬由美
さくら:岡本茉利
博:大塚芳忠
竜造:矢田稔
つね:東美江
タコ社長:峰恵研
御前様:槐柳二
源公:龍田直樹
満男:増田ゆき
備後屋:田原アルノ
栗原・夫:岡部政明
栗原・妻:種田文子
あや子:荒木香恵
進一:津村まこと
水原:志賀克也
めぐみ:菊地祥子
良吉:塩屋浩三
母親:有馬瑞香
司会者:星野充昭
社員A:小野塚貴志
社員B:鈴木正和
マサル:喜田あゆみ
少年A:黒田やよい
隣人:坂東尚樹
スタッフ [編集]
原作:山田洋次
製作総指揮:村田英憲
製作協力:荒井雅樹(大船撮影所)、林律雄、高井研一郎
プロデューサー:小野辰雄、山村俊史(TBS)
アニメーションプロデューサー:出崎哲
音楽:山本直純
キャラクターデザイン・総作画監督:小林ゆかり
音響監督:加藤敏
美術監督:阿部幸次
色彩設定:西川裕子
撮影監督:岡崎英夫
演出:棚橋一徳
文芸:小出一巳
絵コンテ・総監督:四分一節子
原著作・協力:松竹
制作協力:マジックバス
テレビ版アニメ製作:エイケン、TBS
関連番組 [編集]
BSスペシャル 渥美清の寅さん勤続25年(NHK-BS2、1995年1月15日)
クローズアップ現代 寅さんの60日(NHK総合、1995年12月11日)
本作をもとにしたキャラクターが登場する作品 [編集]
フーセンのドラ太郎 - 『男はつらいよ』のアニメ版ということで、同作品のキャラクターを猫と鼠が演じた1981年放映のアニメーション。
ゲゲゲの鬼太郎 - ねずみ男が、寅さんと同様の格好をして放浪する回がある。その際、寅さんのおなじみのセリフをこぼす。
ガンバの冒険(11話 ペテン師トラゴローを追え) - 寅さんをモチーフにしている「トラゴロー」というキャラクターが登場。
きらりん☆レボリューション - 寅さんに似た格好をしている「ふーさん」が登場している。
ドラえもん - 寅さんをモチーフにしたと思われる虎猫ロボットの「トラえもん」が登場している。またドラえもんも作中で、のび太と喧嘩した際には度々「それをいったらおしまいだよ」と言っている。
地獄先生ぬ〜べ〜 - 原作のエピソードで、マウスが増殖し誰も手がつけられなくなるという話で、そのマウスを売る男が寅次郎をモチーフにしている。ただ、諸悪の根源という意味合いから、寅さんというよりも悪魔じみた感じで描かれている。
かいけつゾロリ - 寅さん、さくら、おいちゃん、おばちゃん、たこ社長を意識したキャラクターが89話に登場した。
魔弾戦記リュウケンドー - 随所に本作へのオマージュが散りばめられており、特に登場人物の一人「ガジロー」は、佐藤蛾次郎が演じた源公そのままのキャラクターで、佐藤の実子・佐藤亮太が演じる。
サラリーマンNEO(NHK) - キャラシリーズに「渥美トラ次郎」という虎模様の猫がいる。これは渥美と寅次郎をかけたものである。
超力戦隊オーレンジャー-第43話に登場したマシン獣「バラペテン」は、人間体として寅さんに似た「フーテンの熊」に化けることができる。
炎神戦隊ゴーオンジャー - 第21話に登場した「フーセンバンキ」は、公式ホームページによるとフーテンとフーセンをかけており、寅さんに似た言動や帽子、カバンを持っている。その声も、寅さんの物まね芸人である原一平が担当している。
ぜんまいざむらい - 寅さんの名前を意識した「どろぼう猫の虎次郎」という猫が登場した。(虎も猫科の動物で猫に虎とつける話は本作の映画にもある)
天才てれびくんMAX- 天てれドラマ「ダーリンは11さい?!」の最終話に登場した的屋のかっこう及び口上は明らかに寅さんのものである。
脚注 [編集]
1.^ 『寅次郎忘れな草』、『寅次郎相合い傘』、『寅次郎ハイビスカスの花』の3作
2.^ 2007年1月8日放送芸能人雑学王決定戦より
3.^ 渥美清没後10年の命日を記念して掲載された2006年8月4日の北日本新聞のコラム「天地人」より
4.^ 2007年1月6日NHK放送「寅さんレビュー」
5.^ 男はつらいよ 全巻BOX 特典DVD「寅さんが遺してくれたもの」
6.^ 作詞家・星野哲郎氏が語る「男はつらいよ」(インターネット・アーカイブのミラー)
関連項目 [編集]
柴又帝釈天
啖呵売
的屋
虹をつかむ男
フーセンのドラ太郎
松竹
松竹大船撮影所
釣りバカ日誌 - 『男はつらいよ』以後の松竹を代表するシリーズ
野口よういち - 寅さんの格好、ものまねにより柴又のガイドをしている芸人。
外部リンク [編集]
公式サイト [編集]
寅さんの世界 - 松竹
関連サイト [編集]
柴又帝釈天門前 とらやごく初期の頃、撮影に使った和菓子店(撮影当時の屋号は“柴又屋”)
高木屋のホームページ映画撮影に積極的に協力していただんご屋
葛飾柴又寅さん記念館
江戸川寅次郎国土交通省関東地方整備局江戸川河川事務所
渥美清こもろ寅さん会館 (長野県小諸市)
研究サイト [編集]
さすらいの月虎
TV版寅さんサイト通信
男はつらいよ覚え書ノート
寅さんのいる町〜葛飾柴又をゆく〜
[隠す]表・話・編・歴男はつらいよ
1-12作 男はつらいよ - 続・男はつらいよ - フーテンの寅 - 新・男はつらいよ - 望郷篇 - 純情篇 - 奮闘篇 - 寅次郎恋歌 - 柴又慕情 - 寅次郎夢枕 - 寅次郎忘れな草 - 私の寅さん
13-24作 寅次郎恋やつれ - 寅次郎子守唄 - 寅次郎相合い傘 - 葛飾立志篇 - 寅次郎夕焼け小焼け - 寅次郎純情詩集 - 寅次郎と殿様 - 寅次郎頑張れ! - 寅次郎わが道をゆく - 噂の寅次郎 - 翔んでる寅次郎 - 寅次郎春の夢
25-36作 寅次郎ハイビスカスの花 - 寅次郎かもめ歌 - 浪花の恋の寅次郎 - 寅次郎紙風船 - 寅次郎あじさいの恋 - 花も嵐も寅次郎 - 旅と女と寅次郎 - 口笛を吹く寅次郎 - 夜霧にむせぶ寅次郎 - 寅次郎真実一路 - 寅次郎恋愛塾 - 柴又より愛をこめて
37-48作・特別編 幸福の青い鳥 - 知床慕情 - 寅次郎物語 - 寅次郎サラダ記念日 - 寅次郎心の旅路 - ぼくの伯父さん - 寅次郎の休日 - 寅次郎の告白 - 寅次郎の青春 - 寅次郎の縁談 - 拝啓車寅次郎様 - 寅次郎紅の花 - ハイビスカスの花 特別篇
関連項目 松竹 - 渥美清 - 山田洋次 - 柴又 - 柴又帝釈天
「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B7%E3%81%AF%E3%81%A4%E3%82%89%E3%81%84%E3%82%88」より作成
カテゴリ: 雑多な内容を箇条書きした節のある記事 - 2009年7月 | 出典を必要とする記事 | 男はつらいよシリーズ | フジテレビのテレビドラマ | 1968年のテレビドラマ | 1969年の映画 | 京都府を舞台とした作品 | 日本クラウンのシングル | 1970年のシングル表示
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渥美清
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あつみ きよし
渥美 清
渥美清が演じた車寅次郎
本名 田所 康雄
たどころ やすお
別名 寅さん、風天(俳号)
生年月日 1928年3月10日
没年月日 1996年8月4日(満68歳没)
出生地 日本・東京府東京市下谷区
(現:東京都台東区)
職業 俳優、コメディアン
ジャンル 映画・テレビドラマ・舞台
活動期間 1951年 - 1996年
配偶者 あり
家族 父:田所友次郎
母:田所タツ
兄:田所健一郎
主な作品
映画
『拝啓天皇陛下様』
『男はつらいよ』シリーズ(全48作)
『八つ墓村』
『幸福の黄色いハンカチ』
『キネマの天地』他
テレビドラマ
『渥美清の泣いてたまるか』
『男はつらいよ』他
受賞
1996年 国民栄誉賞
受賞
ブルーリボン賞
主演男優賞
1982年『男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋』、『男はつらいよ 花も嵐も寅次郎』
表示
渥美 清(あつみ きよし、1928年3月10日 - 1996年8月4日)は、日本の俳優。本名、田所 康雄(たどころ やすお)。
東京市下谷区車坂町(現・東京都台東区上野七丁目)出身。
目次 [非表示]
1 来歴・人物
1.1 生涯
1.2 経歴についての異説
1.3 実像
2 出演
2.1 映画
2.2 テレビ
2.3 CM
2.4 シングル
2.5 アルバム
3 著書
4 参考文献
5 親族
6 演じた俳優
6.1 ものまねをする芸人
7 関連項目
8 脚注
9 外部リンク
来歴・人物 [編集]
生涯 [編集]
1928年(昭和3年)3月10日に、上野の車坂で地方新聞の新聞記者をしていた父友次郎と、元小学校教諭で内職の封筒貼りをする母タツとの間に次男として生まれる。兄に健一郎がいる。
1934年11月、上野の板橋尋常小学校に入学。1936年、一家で板橋区志村清水町に転居。それに伴い、志村第一尋常小学校へ転入。小学生時代はいわゆる欠食児童であったという。加えて、病弱で小児腎臓炎、小児関節炎、膀胱カタル等の様々な病を患っていた。その為学校は欠席がちで、3年次と4年次では長期病欠であった。欠席中は、日がな一日ラジオに耳を傾け徳川夢声や落語を聴いて過ごし、覚えた落語を学校で披露すると大変な評判だったという。
1940年に板橋城山高等小学校に入学。第二次世界大戦中の1942年に巣鴨中学校に入学するが、学徒動員で板橋の軍需工場へ駆り出される。1945年に同校を卒業するも、3月10日の東京大空襲で自宅が被災し焼け出される。偶然にもこの日は渥美の17歳の誕生日であった。
卒業後は工員として働きながら、一時期、担ぎ屋やテキ屋の手伝いもしていた(親友の谷幹一に、かつて自分は霊岸島桝屋一家に身を寄せていた、と語った事がある)。この幼少期に培った知識が後の「男はつらいよ」シリーズの寅次郎のスタイルを産むきっかけになったといえる。
1946年には新派の軽演劇の幕引きになり、大宮市日活館「阿部定一代記」でのチョイ役で舞台初出演。
その後、学生アルバイトという名が欲しくて中央大学経済学部へ入学したが、船乗りになるため退学する。しかし、母親に猛反対されたため船乗りになる事を断念。知り合いの伝手を頼って旅回りの演劇一座に入り喜劇俳優の道を歩むことになった。
なお、当初の芸名は「渥美悦郎」であったが、無名時代の極初期に参加した公演で、座長が観客に向けて配役紹介を行う際になぜか「悦郎」を忘れてしまい、「清」ととっさに言ったものをそのまま使用したといわれている。"渥美"は愛知県の渥美半島から採ったとされる。
1951年、東京都台東区浅草のストリップ劇場(百万弗劇場)の専属コメディアンとなる。
1953年には、フランス座へ移籍。この頃のフランス座は、長門勇、東八郎、関敬六など後に第一線で活躍するコメディアンたちが在籍し、コント作家として井上ひさしが出入りしていた。
1954年、肺結核で右肺を摘出しサナトリウムで約2年間の療養生活を送る。このサナトリウムでの療養体験が後の人生観に多大な影響を与えたと言われている。また、復帰後すぐに今度は胃腸を患い中野の立正佼成会病院に1年近く入院する。再復帰後は酒や煙草、コーヒーさえも一切やらなくなり過剰な程の摂生に努めた。
1956年にテレビデビュー、1958年に『おトラさん大繁盛』で映画にデビュー。
1959年にはストリップ小屋時代からの盟友である谷幹一、関敬六とスリーポケッツを結成。しかし、数ヵ月後には脱退している。
1961年から1966年までNHKで放映された『夢であいましょう』、『若い季節』に出演。コメディアン・渥美清の名を全国区にした。
1962年公開の映画『あいつばかりが何故もてる』にて映画初主演を務める。 同年、フジテレビ連続ドラマ『大番』でのギューちゃん役がうける。 同年、ヤクザ(フーテン)役で出演した『おったまげ人魚物語』のロケにおいて、海に飛び込むシーンでは右肺を摘出していたため海に飛び込めず、唯一代役を立てたシーンとも言われている。 当時、複数の映画が同じ地域で撮影を行っており、この時の撮影現場では、映画『切腹』(仲代達矢、岩下志麻、三国連太郎、丹波哲郎)の撮影現場の宿に泊まり、同宿した多くの俳優や監督と接することとなる。
1963年の野村芳太郎監督の映画『拝啓天皇陛下様』で愛すべき無垢な男を演じ、俳優としての名声を確立する(続編では阪急や近鉄で活躍したロベルト・バルボンが連合国兵士役で出演した)。この作品がフジテレビの関係者の評判を得て「男はつらいよ」の構想が練られた。
1965年公開の、羽仁進監督の『ブワナ・トシの歌』ではアフリカ各地で4ヶ月間に及ぶ長期ロケを敢行。この撮影以降、アフリカの魅力に取り付かれプライベート旅行で何度も訪れるようになる。この時期の主演作品としては、TBSのテレビドラマ『渥美清の泣いてたまるか』(1966年)や映画『喜劇列車シリーズ』(喜劇急行列車、喜劇団体列車、喜劇初詣列車)(1967年~1968年)なども有名である。
1968年、フジテレビにて、テレビドラマ『男はつらいよ』の放送開始。放送期間は1968年10月3日から1969年3月27日までの半年間。脚本は山田洋次と森崎東が担当した。最終回では「ハブに噛まれて寅さんが死ぬ」と言うストーリーに抗議が殺到した。
1969年に「罪滅ぼしの意味も含めて」、松竹で映画を製作。これが予想に反し大ヒットとなり、以降シリーズ化となって製作の始まった山田洋次監督の映画『男はつらいよ』シリーズにおいて、主演の車寅次郎("フーテンの寅")役を27年間48作に渡って演じ続ける事になる。この映画のシリーズは、国民的映画として日本中の多くの人たちに親しまれた。映画のシリーズでは最多記録の作品としてギネスブックにも載るなどの記録を成し遂げた。
1972年、渥美プロを設立し、松竹と共同で映画『あゝ声なき友』を自身主演で製作公開する。
1975年、松竹80周年記念として制作された映画『友情』に出演。
1977年にはテレビ朝日製作の土曜ワイド劇場『田舎刑事 時間(とき)よとまれ』にて久しぶりにテレビドラマの主演を務める。同作品は現在も続く人気番組土曜ワイド劇場の記念すべき第1回作品であると同時に、第32回文化庁芸術祭のテレビ部門ドラマ部の優秀作品にも選出されている。この成功を受けて同作品はシリーズ化され1978年に『田舎刑事 旅路の果て』が、1979年には『田舎刑事 まぼろしの特攻隊』がいずれも渥美主演で製作放送されている。
映画『男はつらいよ』シリーズの大成功以降は「渥美清」=「寅さん」の図式が固まってしまう。当初はイメージの固定を避けるために積極的に他作品に出演していたが、どの作品も映画『男はつらいよ』シリーズ程の成功は収める事が出来なかった。特に1977年『八つ墓村』が松竹始まって以来のヒットとなり、渥美の学者ふうな金田一耕助も好評を得ながら、シリーズ化権を東宝に抑えられていたため1本きりとなったことは大きな岐路となる。
1979年(昭和54年)4月14日にNHKで放映されたテレビドラマ『幾山河は越えたれど~昭和のこころ 古賀政男~』では作曲家、古賀政男の生涯を鮮烈に演じ高い評価を得るが、新たな役柄の幅を広げるにはいたらなかった。また、この時期、今村昌平監督が「復讐するは我にあり」の主役にオファーしたが、「寅さんのイメージを裏切りたくない」との理由で断っている。
1980年代以降になると、当時の松竹の思惑や渥美自身も他作品への出演に消極的になっていた事もあって、『男はつらいよ』シリーズ以外の主演は無くなっていく。1988年(昭和63年)、紫綬褒章受章。
その後は、主演以外での参加も次第に減っていき、1993年に公開された映画『学校』が『男はつらいよ』シリーズ以外の作品への最後の出演作品となった、遺作は亡くなる直前まで出演した48作目「男はつらいよ 寅次郎紅の花」。
後年は、松竹の看板としてかなりの無理をしての仕事であった。『男はつらいよ』42作目以降は、病気になった渥美に配慮して、立って演じるシーンは少なくされた。晩年は、立っていることもままならず、撮影の合間は寅さんのトランクを椅子代わりにして座っていることが多かった。44作目のころ「スタッフに挨拶されて、それに笑顔で答えることさえ辛いんです。スタッフや見物の方への挨拶を省略していただきたい」と山田洋次に語っている。ところがこの事情を知らない映画撮影の見物客は、渥美に声をかけてもまったく反応してもらえなかったことから「愛想が悪い」との理由で渥美を批判することもあったという。体調が悪くなった42作から甥の満男を主役にしたサブストーリーが作られ、年2本作っていたシリーズを1本に減らし、満男の出番を増やして寅次郎の出番を最小限に減らしている。また体調が悪化してからの作品を見ると46作では坂を上るのがきつく(実際に急な坂ではあるが)、47作では歌声が枯れ、第48作では座ったままほとんど動かなくなるなど痛々しい演技である。49作目は秋からクランクインが予定されていた。田中裕子がマドンナ役の予定だった。
病気については1991年に肝臓癌が見つかり、1994年には肺に転移しているのがわかった。47作からは主治医からも出演は不可能だと言われていたが何とか出演。48作に出演できたのは奇跡に近いとのことである。1996年7月に体調を崩して同月末に手術を受けたものの、癌の転移が広がり手遅れの状態だった。山田監督の弔辞によれば、病院で癌の手術が手遅れの状態だった後、病室で震えていたとの事である。
1996年(平成8年)8月4日、転移性肺癌のため東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院にて死去。68歳没。「俺のやせ細った死に顔を他人に見せたくない。骨にしてから世間に知らせてほしい」という渥美の遺言により、家族だけで密葬を行い、遺体は東京都荒川区内の火葬場で荼毘に付された。訃報は3日後の1996年8月7日に松竹から公表された。そして8月13日には松竹大船撮影所で「寅さんのお別れの会」が開かれ、山田洋次が
5年前に渥美さんの病気を知り、予断を許さないのは知っていました。体の衰えが目立ち始めて、小島の急な坂を登るときは、とてもつらそうだった。この時、この陽気な男が、映画から手を引く日も近いと思っていました。そろそろ解放してあげたい、と思いながら、もう一作だけ、もう一作だけ、もう一作何とかと思って48作も撮ってきました。医師から、正月遺作となった映画に出演できたのは、奇跡といわれました。ああ、悪いことをしました。後悔しています。つらい思いをさせてすいませんでした。7月に入院して、肺の手術をした後、経過が思わしくなくて、ベッドに起き上がることも出来ず、うつむいたままと聞きました。何故そんなに苦しめたのか。27年間、映画を作る喜びを与えてくれてありがとう。スタッフも幸せでした。心からお礼を申し上げます
という弔辞を読み上げた。世間では、渥美清の死を寅さんの死と捉えて報道された。死後、日本政府から渥美に国民栄誉賞が贈られた。『男はつらいよ』シリーズを通じて人情味豊かな演技で広く国民に喜びと潤いを与えたことが受賞理由。俳優で国民栄誉賞が贈られるのは、1984年に死去した長谷川一夫に次いで2人目である。
妻は熱心なカトリック信徒で、彼自身も、亡くなる直前に病床でカトリックの洗礼を受けていた事が明らかになっている。
渥美は死ぬまで芸能活動の仕事をプライベートに持ち込まなかった。そのため、渥美の自宅住所は芸能・映画関係者や芸能界の友人にも知らされていなかった。
経歴についての異説 [編集]
渥美清のプライベートは謎につつまれた点が多く、経歴にはいくつかの異説がある。小林信彦著の『おかしな男 渥美清』の略年譜によれば、1940年に志村第一尋常小学校を卒業後、志村高等小学校に入学する。1942年に卒業し、14歳で志村坂上の東京管楽器に入社するが退社し、その後は「家出をしてドサ回り」をしていたとのことである。
巣鴨学園関係者によると、戦前の在籍記録は戦災により焼失しており、在籍の有無は公式にはなんとも言えないという。しかし、何人かのOBの証言によれば、在籍はしていたが、卒業はしていないとのことである。
実像 [編集]
「寅さん」の演技で見せる闊達さとは対照的に、実像は自身が公私混同を非常に嫌がり、他者との交わりを避ける孤独な人物だった。「男はつらいよ」のロケ先で撮影に協力した地元有志が開く宴席に一度も顔を出したことがない話は良く知られており、身辺にファンが近寄ることも嫌っていた。タクシーで送られる際も「この辺りで」と言い、自宅から離れた場所で降りるのを常としていた。映画関係者ともプライベートで交際することはほとんどなく「男はつらいよ」シリーズで長年一緒だった山田洋次や黒柳徹子、親友であった関敬六でさえ渥美の自宅も個人的な連絡先も知らず、仕事仲間は告別式まで渥美の家族との面識はなかった。これは渥美が生前、私生活を徹底的に秘匿し、「渥美清=”寅さん”」のイメージを壊さないためであった。実生活では質素な生活を送っていたようで、車は一台も所有しておらず、仕事での食事も店を選ばずに適当な蕎麦屋で済ましていたという。
ただし、原宿に「勉強部屋」として自分個人用のマンションを借りており、そこに一人でこもっていることも多かった。
一方で非常な勉強家でもあり、評判となった映画や舞台をよく見ていた。しかし、「寅さん」とまったく違ったスマートなファッションであったため、他の観客らにはほとんど気づかれなかったという。
山田洋次は渥美の頭脳の良さを指して「天才だった」と語っている。特に記憶力に関しては驚異的なものがあり、台本を2,3度読むだけで完璧にセリフが頭に入ってしまったと証言している。[1]
家族構成は妻と子供2人で、長男が公の場に顔を出すのは渥美の死後だった。結婚式は家族だけでささやかに行い、仕事仲間など呼ばなかった。芸能記者の鬼沢慶一は招待され友人代表として出席したが、鬼沢はその事を渥美の死まで公表する事はなく、死後その時の記念写真と共に初めて公にした。結婚まで秘密にしていたため、他界の数年前も渥美が独身と思っていた人が多かったようである。渥美は新珠三千代の熱狂的ファンを自称していたため、結婚の際は『新珠三千代さんごめんなさい。』の迷コメントを出した。
黒柳徹子はプライベートでも付き合いのある数少ない存在で、彼をお兄ちゃんと呼んでいたほか、夢であいましょうで共演していた時に熱愛疑惑が持ち上がったことがある。ちなみにその際それを報道したスポーツ新聞の紙面には、フランス座時代に幕間のコントで黒柳が小学生の頃いつも呼んでいたチンドン屋の格好をしていた時の写真が掲載された。これは当時マスコミにはその写真しかなかったためである。黒柳は1996年に開かれた「寅さん」とのお別れの会に出席したり、2006年は渥美が死んでから10年と節目の年であったためか渥美の事を話すこともしばしばあった。また、森繁久弥は渥美の才能に非常に目をかけ、渥美も森繁を慕っていたという。
2006年9月4日にNHKプレミアム10で放送された『渥美清の肖像・知られざる役者人生』によると、松竹が映画の低迷期であったのも手伝い、突出して人気のあった「寅さん」のイメージを大事にしたいからと色々な企画を没にしたりして、それ以外の役柄に恵まれなかった。増村保造の映画『セックス・チェック 第二の性』を元にして作中男だと疑われるスポーツ選手の女性が、本当に男だったという主演映画などが没になったアイディアの中にあった。
また、永六輔とは少年時代から旧知の仲であり、永六輔によると渥美は永も所属していた不良グループのボスであったという。更に永の言葉によると、渥美が役者を目指す様になったのにはある刑事の言葉があると言う。曰く、ある時、渥美が歩道の鎖を盗みそれを売ろうとして警察に補導された事があった。その時の刑事に、「お前の顔は個性が強すぎて、一度見たら忘れられない。その顔を生かして、犯罪者になるより役者になれ」と言われた事が役者を目指すきっかけになったとの事である(上記、『渥美清の肖像・知られざる役者人生』によれば、テキ屋稼業に没頭していた頃、浅草の小屋から声をかけられそれが転機のキッカケとなったとされている)。
山田洋次系以外のスタッフでは、脚本家鈴木尚之が節目節目で招かれており、信頼が厚かったことを伺わせる。ただし、渥美自身が企画し鈴木が執筆した、1972年春公開の『あゝ声なき友』が不振に終わり、厳格な今井正監督の現場になじめなかったこともあって、これを境に渥美は山田作品に専心するような形となる。その5年後の『八つ墓村』が記録的大ヒットにもかかわらず、松竹と角川書店(角川春樹)の確執からシリーズ化できなかったことがこの流れを決定づけた。
長男の田所健太郎はニッポン放送の入社試験の際、履歴書の家族欄に『父 田所康雄 職業 俳優』と書いたことから、採用担当者は大部屋俳優の息子と思っていた。後に渥美清が彼の父親として来社したため、社内は騒然となった。
晩年は俳句を趣味としていて『アエラ句会』(AERA主催)において「風天」の俳号でいくつかの句を詠んでいる。森英介『風天 渥美清のうた』(大空出版、2008年、文春文庫 2010年1月)に詳しく紹介されている。 ギタリストの布袋寅泰が同じマンションに住んでいたことがあり、バンドのツアーに向かう布袋が偶然エレベーターの乗り口であった際、渥美から「旅ですか?」と話しかけられ、とっさに「はい。北へ」と答えたのをきっかけに、正月に「つまらないものですが、部屋の隅にでも飾ってやってください。」と、『男はつらいよ』のカレンダーを部屋まで届けてくれたという(布袋のブログの記述による)。
出演 [編集]
映画 [編集]
おトラさん大繁盛(1958年)
投資令嬢(1961年)
大江戸評判記 美男の顔役(1962年)
あいつばかりが何故もてる(1962年)
おかしな奴(1963年)
つむじ風(1963年)
拝啓天皇陛下様(1963年)
無宿人別帳(1963年)
太平洋の翼(1963年)丹下一飛曹
散歩する霊柩車(1964年)
続・拝啓天皇陛下様(1964年)
拝啓総理大臣様(1964年)
ブワナ・トシの歌(1965年)
沓掛時次郎 遊侠一匹(1966年)
喜劇急行列車(1967年)
喜劇団体列車(1967年)
父子草(1967年)
喜劇初詣列車(1968年)
燃えつきた地図(1968年)
白昼堂々(1968年)
スクラップ集団(1968年)
喜劇 爬虫類(1968年)
でっかいでっかい野郎(1969年)
男はつらいよシリーズ(1969年 - 96年、全48作)
トラ・トラ・トラ!(1970年)※日本公開版のみ
あゝ声なき友(1972年)
故郷(1972年)
砂の器(1974年)ひかり座の支配人
ビューティフル・ピープル ゆかいな仲間(1974年)日本語版ナレーター
友情(1975年)
八つ墓村(1977年)
幸福の黄色いハンカチ(1977年)渡辺係長
皇帝のいない八月(1978年)
遙かなる山の呼び声(1980年)
キネマの天地(1986年)喜八
二十四の瞳 (映画)(1987年)ナレーター
ダウンタウンヒーローズ(1988年)ナレーター
学校(1993年)八百屋の親父
テレビ [編集]
第14回NHK紅白歌合戦(1963年) 応援ゲスト
渥美清の泣いてたまるか
大和魂くん
東芝日曜劇場(多数出演)
おれの義姉さん(1970年、フジテレビ)
こんな男でよかったら(1973年、よみうりテレビ)
ヨイショ(1974年6月 - 11月、TBS放映)
徹子の部屋(1979年1月3日放送分)
天皇の料理番(1980年10月 - 1981年3月) ナレーション
田舎刑事 (1977年、テレビ朝日)
「幾山河は越えたれど~昭和のこころ 古賀政男~」(古賀政男役、1979年)
木曜ゴールデンドラマ「花嫁の父」(1981年)
花へんろシリーズ(1985年 - 1988年) ナレーション
CM [編集]
ハナマルキ
エーザイ
ブリヂストン 新・回転理論技術「DONUTS(ドーナツ)」 専属キャラクター
1995年から逝去後の1997年まで、「ニッポンのタイヤが変わります」のキャッチフレーズでCM出演していた。
放映時期の季節に合わせて、渥美の服装と背景が変化した。
契約期間終了後は、歌手・女優の西田ひかるが後継キャラクターとして引き継いだ。
ロート製薬 「パンシロン」
幼少時代の沢田聖子と共演(父親役の渥美清が沢田を肩車するシーン)したバージョンがあった。ブリヂストンと同じく逝去直前に「パンシロン新胃腸薬」のCMに復帰出演していた。
サントリー「サントリー生ビール ナマ樽」
中外製薬「バルサン」
いすゞ自動車 「エルフ」
日本アイ・ビー・エム 「IBMマルチステーション5550」
日本テレコム
朝日新聞 - キャッチコピーは「歴史は、あっちこっちで作られる。」。コピーライターの仲畑貴志の作である。
パイオニア「DVDレコーダー」(没後に製作)
シングル [編集]
泣いてたまるか(TBS連続テレビドラマ「泣いてたまるか」主題歌)(B面:若いぼくたち/ミュージカル・アカデミー)(1966年5月10日)
オー大和魂(TBS連続テレビドラマ「大和魂くん」主題歌)(B面:雨の降る日は天気が悪い)(1968年10月)
男はつらいよ(フジテレビ連続テレビドラマ「男はつらいよ」主題歌、松竹映画「男はつらいよ」主題歌)(B面:チンガラホケキョーの唄)(1970年2月10日)
ごめんくださいお訪ねします(松竹映画「あゝ声なき友」主題歌)(B面:あゝ声なき友)(1972年3月25日)
さくらのバラード(歌:倍賞千恵子)(B面:寅さんの子守唄)(1972年4月)
こんな男でよかったら(B面:ひとは誰でも)(よみうりテレビドラマ「こんな男でよかったら」)(1973年4月5日)
いつかはきっと(掛け声:山田パンダ)(TBSテレビドラマ「ヨイショ」主題歌)(B面:遠くへ行きたい)(1974年8月25日)
寅さん音頭(B面:赤とんぼ)(1975年7月5日)
祭りのあと(B面:駅弁唱歌)(1975年9月5日)
渥美清の啖呵売I(B面:渥美清の啖呵売りⅡ)(1976年6月25日)
浅草日記(B面:すかんぽの唄)(1977年6月25日)
今日はこれでおしまい(1977年10月25日)
DISCO・翔んでる寅さん(B面:寅さん音頭)(1979年7月25日)
アルバム [編集]
渥美清が歌う哀愁の日本軍歌集(1968年12月5日)
噫々戦友の詩(きけわだつみのこえ)より(1971年)
男はつらいよフーテンの寅と発します!(1971年11月)
男はつらいよ名場面集(第一集)
男はつらいよ名場面集(第二集)
男はつらいよ名場面集(第三集)(1974年)
渥美清ベストヒット28(1976年)
著書 [編集]
『きょうも涙の日が落ちる 渥美清のフーテン人生論』 (展望社、2003年)
『渥美清わがフーテン人生』「サンデー毎日」編集部編 (毎日新聞社、1996年)
『赤とんぼ 渥美清句集』 森英介編 (本阿弥書店、2009年)
参考文献 [編集]
関敬六 『さらば友よ』(ザ・マサダ、1996年)
渥美清の肘突き 人生ほど素敵なショーはない (福田陽一郎、岩波書店)
おかしな男 渥美清(小林信彦、新潮文庫)
知られざる渥美清(大下英治、廣済堂文庫)
渥美清 浅草・話芸・寅さん(堀切直人、晶文社)
拝啓渥美清様(読売新聞社会部、中公文庫)
渥美清の伝言(NHK同制作班編 KTC中央出版)
渥美清晩節、その愛と死 (篠原靖治、祥伝社)
親族 [編集]
田所健太郎
長男。株式会社ニッポン放送に所属していたラジオディレクター。主な担当番組に伊集院光のOh!デカナイト、(有)チェリーベルがある 。現在は株式会社ニッポン放送を退社し、フリーのラジオディレクター。
山岡和美
元ニッポン放送アナウンサー、長男の妻。
演じた俳優 [編集]
南原清隆
ものまねをする芸人 [編集]
原一平 寅さんのものまねは、渥美本人も生前から認めていた、唯一の渥美清公認ものまね芸人。寅さんのものまねをする際に着用する衣装は渥美本人が映画で実際に使っていたのを譲り受けた物である。
フランクさな寅(フランクさな寅ブログ) 地元ですら知る人ぞ知る「広島の寅さん」。TSS「親子笑劇場電太郎一家」(ローカルミニドラマ。既に終了)にドラ猫のドラ役で出演していた。
野口陽一 山田洋次監督公認。
山口智充(「ワンナイR&R」にて)
関連項目 [編集]
日本お笑い史
日本の男優一覧
脚注 [編集]
1.^ 男はつらいよ DVD BOX 特典DVDインタビューにて(2008年収録)
外部リンク [編集]
葛飾柴又寅さん記念館の公式ホームページ
渥美清こもろ寅さん会館の公式ホームページ
[表示]表・話・編・歴国民栄誉賞 受賞者
王貞治 - 古賀政男 - 長谷川一夫 - 植村直己 - 山下泰裕 - 衣笠祥雄 - 美空ひばり - 千代の富士貢 - 藤山一郎 - 長谷川町子 - 服部良一 - 渥美清 - 吉田正 - 黒澤明 - 高橋尚子 - 遠藤実 - 森光子 - 森繁久彌
[表示]表・話・編・歴男はつらいよ
1-12作 男はつらいよ - 続・男はつらいよ - フーテンの寅 - 新・男はつらいよ - 望郷篇 - 純情篇 - 奮闘篇 - 寅次郎恋歌 - 柴又慕情 - 寅次郎夢枕 - 寅次郎忘れな草 - 私の寅さん
13-24作 寅次郎恋やつれ - 寅次郎子守唄 - 寅次郎相合い傘 - 葛飾立志篇 - 寅次郎夕焼け小焼け - 寅次郎純情詩集 - 寅次郎と殿様 - 寅次郎頑張れ! - 寅次郎わが道をゆく - 噂の寅次郎 - 翔んでる寅次郎 - 寅次郎春の夢
25-36作 寅次郎ハイビスカスの花 - 寅次郎かもめ歌 - 浪花の恋の寅次郎 - 寅次郎紙風船 - 寅次郎あじさいの恋 - 花も嵐も寅次郎 - 旅と女と寅次郎 - 口笛を吹く寅次郎 - 夜霧にむせぶ寅次郎 - 寅次郎真実一路 - 寅次郎恋愛塾 - 柴又より愛をこめて
37-48作・特別編 幸福の青い鳥 - 知床慕情 - 寅次郎物語 - 寅次郎サラダ記念日 - 寅次郎心の旅路 - ぼくの伯父さん - 寅次郎の休日 - 寅次郎の告白 - 寅次郎の青春 - 寅次郎の縁談 - 拝啓車寅次郎様 - 寅次郎紅の花 - ハイビスカスの花 特別篇
関連項目 松竹 - 渥美清 - 山田洋次 - 柴又 - 柴又帝釈天
「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A5%E7%BE%8E%E6%B8%85」より作成
カテゴリ: 日本の俳優 | コメディアン | ヤクザ映画 | 紫綬褒章受章者 | 東京都出身の人物 | 1928年生 | 1996年没表示
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あつみ きよし
渥美 清
渥美清が演じた車寅次郎
本名 田所 康雄
たどころ やすお
別名 寅さん、風天(俳号)
生年月日 1928年3月10日
没年月日 1996年8月4日(満68歳没)
出生地 日本・東京府東京市下谷区
(現:東京都台東区)
職業 俳優、コメディアン
ジャンル 映画・テレビドラマ・舞台
活動期間 1951年 - 1996年
配偶者 あり
家族 父:田所友次郎
母:田所タツ
兄:田所健一郎
主な作品
映画
『拝啓天皇陛下様』
『男はつらいよ』シリーズ(全48作)
『八つ墓村』
『幸福の黄色いハンカチ』
『キネマの天地』他
テレビドラマ
『渥美清の泣いてたまるか』
『男はつらいよ』他
受賞
1996年 国民栄誉賞
受賞
ブルーリボン賞
主演男優賞
1982年『男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋』、『男はつらいよ 花も嵐も寅次郎』
表示
渥美 清(あつみ きよし、1928年3月10日 - 1996年8月4日)は、日本の俳優。本名、田所 康雄(たどころ やすお)。
東京市下谷区車坂町(現・東京都台東区上野七丁目)出身。
目次 [非表示]
1 来歴・人物
1.1 生涯
1.2 経歴についての異説
1.3 実像
2 出演
2.1 映画
2.2 テレビ
2.3 CM
2.4 シングル
2.5 アルバム
3 著書
4 参考文献
5 親族
6 演じた俳優
6.1 ものまねをする芸人
7 関連項目
8 脚注
9 外部リンク
来歴・人物 [編集]
生涯 [編集]
1928年(昭和3年)3月10日に、上野の車坂で地方新聞の新聞記者をしていた父友次郎と、元小学校教諭で内職の封筒貼りをする母タツとの間に次男として生まれる。兄に健一郎がいる。
1934年11月、上野の板橋尋常小学校に入学。1936年、一家で板橋区志村清水町に転居。それに伴い、志村第一尋常小学校へ転入。小学生時代はいわゆる欠食児童であったという。加えて、病弱で小児腎臓炎、小児関節炎、膀胱カタル等の様々な病を患っていた。その為学校は欠席がちで、3年次と4年次では長期病欠であった。欠席中は、日がな一日ラジオに耳を傾け徳川夢声や落語を聴いて過ごし、覚えた落語を学校で披露すると大変な評判だったという。
1940年に板橋城山高等小学校に入学。第二次世界大戦中の1942年に巣鴨中学校に入学するが、学徒動員で板橋の軍需工場へ駆り出される。1945年に同校を卒業するも、3月10日の東京大空襲で自宅が被災し焼け出される。偶然にもこの日は渥美の17歳の誕生日であった。
卒業後は工員として働きながら、一時期、担ぎ屋やテキ屋の手伝いもしていた(親友の谷幹一に、かつて自分は霊岸島桝屋一家に身を寄せていた、と語った事がある)。この幼少期に培った知識が後の「男はつらいよ」シリーズの寅次郎のスタイルを産むきっかけになったといえる。
1946年には新派の軽演劇の幕引きになり、大宮市日活館「阿部定一代記」でのチョイ役で舞台初出演。
その後、学生アルバイトという名が欲しくて中央大学経済学部へ入学したが、船乗りになるため退学する。しかし、母親に猛反対されたため船乗りになる事を断念。知り合いの伝手を頼って旅回りの演劇一座に入り喜劇俳優の道を歩むことになった。
なお、当初の芸名は「渥美悦郎」であったが、無名時代の極初期に参加した公演で、座長が観客に向けて配役紹介を行う際になぜか「悦郎」を忘れてしまい、「清」ととっさに言ったものをそのまま使用したといわれている。"渥美"は愛知県の渥美半島から採ったとされる。
1951年、東京都台東区浅草のストリップ劇場(百万弗劇場)の専属コメディアンとなる。
1953年には、フランス座へ移籍。この頃のフランス座は、長門勇、東八郎、関敬六など後に第一線で活躍するコメディアンたちが在籍し、コント作家として井上ひさしが出入りしていた。
1954年、肺結核で右肺を摘出しサナトリウムで約2年間の療養生活を送る。このサナトリウムでの療養体験が後の人生観に多大な影響を与えたと言われている。また、復帰後すぐに今度は胃腸を患い中野の立正佼成会病院に1年近く入院する。再復帰後は酒や煙草、コーヒーさえも一切やらなくなり過剰な程の摂生に努めた。
1956年にテレビデビュー、1958年に『おトラさん大繁盛』で映画にデビュー。
1959年にはストリップ小屋時代からの盟友である谷幹一、関敬六とスリーポケッツを結成。しかし、数ヵ月後には脱退している。
1961年から1966年までNHKで放映された『夢であいましょう』、『若い季節』に出演。コメディアン・渥美清の名を全国区にした。
1962年公開の映画『あいつばかりが何故もてる』にて映画初主演を務める。 同年、フジテレビ連続ドラマ『大番』でのギューちゃん役がうける。 同年、ヤクザ(フーテン)役で出演した『おったまげ人魚物語』のロケにおいて、海に飛び込むシーンでは右肺を摘出していたため海に飛び込めず、唯一代役を立てたシーンとも言われている。 当時、複数の映画が同じ地域で撮影を行っており、この時の撮影現場では、映画『切腹』(仲代達矢、岩下志麻、三国連太郎、丹波哲郎)の撮影現場の宿に泊まり、同宿した多くの俳優や監督と接することとなる。
1963年の野村芳太郎監督の映画『拝啓天皇陛下様』で愛すべき無垢な男を演じ、俳優としての名声を確立する(続編では阪急や近鉄で活躍したロベルト・バルボンが連合国兵士役で出演した)。この作品がフジテレビの関係者の評判を得て「男はつらいよ」の構想が練られた。
1965年公開の、羽仁進監督の『ブワナ・トシの歌』ではアフリカ各地で4ヶ月間に及ぶ長期ロケを敢行。この撮影以降、アフリカの魅力に取り付かれプライベート旅行で何度も訪れるようになる。この時期の主演作品としては、TBSのテレビドラマ『渥美清の泣いてたまるか』(1966年)や映画『喜劇列車シリーズ』(喜劇急行列車、喜劇団体列車、喜劇初詣列車)(1967年~1968年)なども有名である。
1968年、フジテレビにて、テレビドラマ『男はつらいよ』の放送開始。放送期間は1968年10月3日から1969年3月27日までの半年間。脚本は山田洋次と森崎東が担当した。最終回では「ハブに噛まれて寅さんが死ぬ」と言うストーリーに抗議が殺到した。
1969年に「罪滅ぼしの意味も含めて」、松竹で映画を製作。これが予想に反し大ヒットとなり、以降シリーズ化となって製作の始まった山田洋次監督の映画『男はつらいよ』シリーズにおいて、主演の車寅次郎("フーテンの寅")役を27年間48作に渡って演じ続ける事になる。この映画のシリーズは、国民的映画として日本中の多くの人たちに親しまれた。映画のシリーズでは最多記録の作品としてギネスブックにも載るなどの記録を成し遂げた。
1972年、渥美プロを設立し、松竹と共同で映画『あゝ声なき友』を自身主演で製作公開する。
1975年、松竹80周年記念として制作された映画『友情』に出演。
1977年にはテレビ朝日製作の土曜ワイド劇場『田舎刑事 時間(とき)よとまれ』にて久しぶりにテレビドラマの主演を務める。同作品は現在も続く人気番組土曜ワイド劇場の記念すべき第1回作品であると同時に、第32回文化庁芸術祭のテレビ部門ドラマ部の優秀作品にも選出されている。この成功を受けて同作品はシリーズ化され1978年に『田舎刑事 旅路の果て』が、1979年には『田舎刑事 まぼろしの特攻隊』がいずれも渥美主演で製作放送されている。
映画『男はつらいよ』シリーズの大成功以降は「渥美清」=「寅さん」の図式が固まってしまう。当初はイメージの固定を避けるために積極的に他作品に出演していたが、どの作品も映画『男はつらいよ』シリーズ程の成功は収める事が出来なかった。特に1977年『八つ墓村』が松竹始まって以来のヒットとなり、渥美の学者ふうな金田一耕助も好評を得ながら、シリーズ化権を東宝に抑えられていたため1本きりとなったことは大きな岐路となる。
1979年(昭和54年)4月14日にNHKで放映されたテレビドラマ『幾山河は越えたれど~昭和のこころ 古賀政男~』では作曲家、古賀政男の生涯を鮮烈に演じ高い評価を得るが、新たな役柄の幅を広げるにはいたらなかった。また、この時期、今村昌平監督が「復讐するは我にあり」の主役にオファーしたが、「寅さんのイメージを裏切りたくない」との理由で断っている。
1980年代以降になると、当時の松竹の思惑や渥美自身も他作品への出演に消極的になっていた事もあって、『男はつらいよ』シリーズ以外の主演は無くなっていく。1988年(昭和63年)、紫綬褒章受章。
その後は、主演以外での参加も次第に減っていき、1993年に公開された映画『学校』が『男はつらいよ』シリーズ以外の作品への最後の出演作品となった、遺作は亡くなる直前まで出演した48作目「男はつらいよ 寅次郎紅の花」。
後年は、松竹の看板としてかなりの無理をしての仕事であった。『男はつらいよ』42作目以降は、病気になった渥美に配慮して、立って演じるシーンは少なくされた。晩年は、立っていることもままならず、撮影の合間は寅さんのトランクを椅子代わりにして座っていることが多かった。44作目のころ「スタッフに挨拶されて、それに笑顔で答えることさえ辛いんです。スタッフや見物の方への挨拶を省略していただきたい」と山田洋次に語っている。ところがこの事情を知らない映画撮影の見物客は、渥美に声をかけてもまったく反応してもらえなかったことから「愛想が悪い」との理由で渥美を批判することもあったという。体調が悪くなった42作から甥の満男を主役にしたサブストーリーが作られ、年2本作っていたシリーズを1本に減らし、満男の出番を増やして寅次郎の出番を最小限に減らしている。また体調が悪化してからの作品を見ると46作では坂を上るのがきつく(実際に急な坂ではあるが)、47作では歌声が枯れ、第48作では座ったままほとんど動かなくなるなど痛々しい演技である。49作目は秋からクランクインが予定されていた。田中裕子がマドンナ役の予定だった。
病気については1991年に肝臓癌が見つかり、1994年には肺に転移しているのがわかった。47作からは主治医からも出演は不可能だと言われていたが何とか出演。48作に出演できたのは奇跡に近いとのことである。1996年7月に体調を崩して同月末に手術を受けたものの、癌の転移が広がり手遅れの状態だった。山田監督の弔辞によれば、病院で癌の手術が手遅れの状態だった後、病室で震えていたとの事である。
1996年(平成8年)8月4日、転移性肺癌のため東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院にて死去。68歳没。「俺のやせ細った死に顔を他人に見せたくない。骨にしてから世間に知らせてほしい」という渥美の遺言により、家族だけで密葬を行い、遺体は東京都荒川区内の火葬場で荼毘に付された。訃報は3日後の1996年8月7日に松竹から公表された。そして8月13日には松竹大船撮影所で「寅さんのお別れの会」が開かれ、山田洋次が
5年前に渥美さんの病気を知り、予断を許さないのは知っていました。体の衰えが目立ち始めて、小島の急な坂を登るときは、とてもつらそうだった。この時、この陽気な男が、映画から手を引く日も近いと思っていました。そろそろ解放してあげたい、と思いながら、もう一作だけ、もう一作だけ、もう一作何とかと思って48作も撮ってきました。医師から、正月遺作となった映画に出演できたのは、奇跡といわれました。ああ、悪いことをしました。後悔しています。つらい思いをさせてすいませんでした。7月に入院して、肺の手術をした後、経過が思わしくなくて、ベッドに起き上がることも出来ず、うつむいたままと聞きました。何故そんなに苦しめたのか。27年間、映画を作る喜びを与えてくれてありがとう。スタッフも幸せでした。心からお礼を申し上げます
という弔辞を読み上げた。世間では、渥美清の死を寅さんの死と捉えて報道された。死後、日本政府から渥美に国民栄誉賞が贈られた。『男はつらいよ』シリーズを通じて人情味豊かな演技で広く国民に喜びと潤いを与えたことが受賞理由。俳優で国民栄誉賞が贈られるのは、1984年に死去した長谷川一夫に次いで2人目である。
妻は熱心なカトリック信徒で、彼自身も、亡くなる直前に病床でカトリックの洗礼を受けていた事が明らかになっている。
渥美は死ぬまで芸能活動の仕事をプライベートに持ち込まなかった。そのため、渥美の自宅住所は芸能・映画関係者や芸能界の友人にも知らされていなかった。
経歴についての異説 [編集]
渥美清のプライベートは謎につつまれた点が多く、経歴にはいくつかの異説がある。小林信彦著の『おかしな男 渥美清』の略年譜によれば、1940年に志村第一尋常小学校を卒業後、志村高等小学校に入学する。1942年に卒業し、14歳で志村坂上の東京管楽器に入社するが退社し、その後は「家出をしてドサ回り」をしていたとのことである。
巣鴨学園関係者によると、戦前の在籍記録は戦災により焼失しており、在籍の有無は公式にはなんとも言えないという。しかし、何人かのOBの証言によれば、在籍はしていたが、卒業はしていないとのことである。
実像 [編集]
「寅さん」の演技で見せる闊達さとは対照的に、実像は自身が公私混同を非常に嫌がり、他者との交わりを避ける孤独な人物だった。「男はつらいよ」のロケ先で撮影に協力した地元有志が開く宴席に一度も顔を出したことがない話は良く知られており、身辺にファンが近寄ることも嫌っていた。タクシーで送られる際も「この辺りで」と言い、自宅から離れた場所で降りるのを常としていた。映画関係者ともプライベートで交際することはほとんどなく「男はつらいよ」シリーズで長年一緒だった山田洋次や黒柳徹子、親友であった関敬六でさえ渥美の自宅も個人的な連絡先も知らず、仕事仲間は告別式まで渥美の家族との面識はなかった。これは渥美が生前、私生活を徹底的に秘匿し、「渥美清=”寅さん”」のイメージを壊さないためであった。実生活では質素な生活を送っていたようで、車は一台も所有しておらず、仕事での食事も店を選ばずに適当な蕎麦屋で済ましていたという。
ただし、原宿に「勉強部屋」として自分個人用のマンションを借りており、そこに一人でこもっていることも多かった。
一方で非常な勉強家でもあり、評判となった映画や舞台をよく見ていた。しかし、「寅さん」とまったく違ったスマートなファッションであったため、他の観客らにはほとんど気づかれなかったという。
山田洋次は渥美の頭脳の良さを指して「天才だった」と語っている。特に記憶力に関しては驚異的なものがあり、台本を2,3度読むだけで完璧にセリフが頭に入ってしまったと証言している。[1]
家族構成は妻と子供2人で、長男が公の場に顔を出すのは渥美の死後だった。結婚式は家族だけでささやかに行い、仕事仲間など呼ばなかった。芸能記者の鬼沢慶一は招待され友人代表として出席したが、鬼沢はその事を渥美の死まで公表する事はなく、死後その時の記念写真と共に初めて公にした。結婚まで秘密にしていたため、他界の数年前も渥美が独身と思っていた人が多かったようである。渥美は新珠三千代の熱狂的ファンを自称していたため、結婚の際は『新珠三千代さんごめんなさい。』の迷コメントを出した。
黒柳徹子はプライベートでも付き合いのある数少ない存在で、彼をお兄ちゃんと呼んでいたほか、夢であいましょうで共演していた時に熱愛疑惑が持ち上がったことがある。ちなみにその際それを報道したスポーツ新聞の紙面には、フランス座時代に幕間のコントで黒柳が小学生の頃いつも呼んでいたチンドン屋の格好をしていた時の写真が掲載された。これは当時マスコミにはその写真しかなかったためである。黒柳は1996年に開かれた「寅さん」とのお別れの会に出席したり、2006年は渥美が死んでから10年と節目の年であったためか渥美の事を話すこともしばしばあった。また、森繁久弥は渥美の才能に非常に目をかけ、渥美も森繁を慕っていたという。
2006年9月4日にNHKプレミアム10で放送された『渥美清の肖像・知られざる役者人生』によると、松竹が映画の低迷期であったのも手伝い、突出して人気のあった「寅さん」のイメージを大事にしたいからと色々な企画を没にしたりして、それ以外の役柄に恵まれなかった。増村保造の映画『セックス・チェック 第二の性』を元にして作中男だと疑われるスポーツ選手の女性が、本当に男だったという主演映画などが没になったアイディアの中にあった。
また、永六輔とは少年時代から旧知の仲であり、永六輔によると渥美は永も所属していた不良グループのボスであったという。更に永の言葉によると、渥美が役者を目指す様になったのにはある刑事の言葉があると言う。曰く、ある時、渥美が歩道の鎖を盗みそれを売ろうとして警察に補導された事があった。その時の刑事に、「お前の顔は個性が強すぎて、一度見たら忘れられない。その顔を生かして、犯罪者になるより役者になれ」と言われた事が役者を目指すきっかけになったとの事である(上記、『渥美清の肖像・知られざる役者人生』によれば、テキ屋稼業に没頭していた頃、浅草の小屋から声をかけられそれが転機のキッカケとなったとされている)。
山田洋次系以外のスタッフでは、脚本家鈴木尚之が節目節目で招かれており、信頼が厚かったことを伺わせる。ただし、渥美自身が企画し鈴木が執筆した、1972年春公開の『あゝ声なき友』が不振に終わり、厳格な今井正監督の現場になじめなかったこともあって、これを境に渥美は山田作品に専心するような形となる。その5年後の『八つ墓村』が記録的大ヒットにもかかわらず、松竹と角川書店(角川春樹)の確執からシリーズ化できなかったことがこの流れを決定づけた。
長男の田所健太郎はニッポン放送の入社試験の際、履歴書の家族欄に『父 田所康雄 職業 俳優』と書いたことから、採用担当者は大部屋俳優の息子と思っていた。後に渥美清が彼の父親として来社したため、社内は騒然となった。
晩年は俳句を趣味としていて『アエラ句会』(AERA主催)において「風天」の俳号でいくつかの句を詠んでいる。森英介『風天 渥美清のうた』(大空出版、2008年、文春文庫 2010年1月)に詳しく紹介されている。 ギタリストの布袋寅泰が同じマンションに住んでいたことがあり、バンドのツアーに向かう布袋が偶然エレベーターの乗り口であった際、渥美から「旅ですか?」と話しかけられ、とっさに「はい。北へ」と答えたのをきっかけに、正月に「つまらないものですが、部屋の隅にでも飾ってやってください。」と、『男はつらいよ』のカレンダーを部屋まで届けてくれたという(布袋のブログの記述による)。
出演 [編集]
映画 [編集]
おトラさん大繁盛(1958年)
投資令嬢(1961年)
大江戸評判記 美男の顔役(1962年)
あいつばかりが何故もてる(1962年)
おかしな奴(1963年)
つむじ風(1963年)
拝啓天皇陛下様(1963年)
無宿人別帳(1963年)
太平洋の翼(1963年)丹下一飛曹
散歩する霊柩車(1964年)
続・拝啓天皇陛下様(1964年)
拝啓総理大臣様(1964年)
ブワナ・トシの歌(1965年)
沓掛時次郎 遊侠一匹(1966年)
喜劇急行列車(1967年)
喜劇団体列車(1967年)
父子草(1967年)
喜劇初詣列車(1968年)
燃えつきた地図(1968年)
白昼堂々(1968年)
スクラップ集団(1968年)
喜劇 爬虫類(1968年)
でっかいでっかい野郎(1969年)
男はつらいよシリーズ(1969年 - 96年、全48作)
トラ・トラ・トラ!(1970年)※日本公開版のみ
あゝ声なき友(1972年)
故郷(1972年)
砂の器(1974年)ひかり座の支配人
ビューティフル・ピープル ゆかいな仲間(1974年)日本語版ナレーター
友情(1975年)
八つ墓村(1977年)
幸福の黄色いハンカチ(1977年)渡辺係長
皇帝のいない八月(1978年)
遙かなる山の呼び声(1980年)
キネマの天地(1986年)喜八
二十四の瞳 (映画)(1987年)ナレーター
ダウンタウンヒーローズ(1988年)ナレーター
学校(1993年)八百屋の親父
テレビ [編集]
第14回NHK紅白歌合戦(1963年) 応援ゲスト
渥美清の泣いてたまるか
大和魂くん
東芝日曜劇場(多数出演)
おれの義姉さん(1970年、フジテレビ)
こんな男でよかったら(1973年、よみうりテレビ)
ヨイショ(1974年6月 - 11月、TBS放映)
徹子の部屋(1979年1月3日放送分)
天皇の料理番(1980年10月 - 1981年3月) ナレーション
田舎刑事 (1977年、テレビ朝日)
「幾山河は越えたれど~昭和のこころ 古賀政男~」(古賀政男役、1979年)
木曜ゴールデンドラマ「花嫁の父」(1981年)
花へんろシリーズ(1985年 - 1988年) ナレーション
CM [編集]
ハナマルキ
エーザイ
ブリヂストン 新・回転理論技術「DONUTS(ドーナツ)」 専属キャラクター
1995年から逝去後の1997年まで、「ニッポンのタイヤが変わります」のキャッチフレーズでCM出演していた。
放映時期の季節に合わせて、渥美の服装と背景が変化した。
契約期間終了後は、歌手・女優の西田ひかるが後継キャラクターとして引き継いだ。
ロート製薬 「パンシロン」
幼少時代の沢田聖子と共演(父親役の渥美清が沢田を肩車するシーン)したバージョンがあった。ブリヂストンと同じく逝去直前に「パンシロン新胃腸薬」のCMに復帰出演していた。
サントリー「サントリー生ビール ナマ樽」
中外製薬「バルサン」
いすゞ自動車 「エルフ」
日本アイ・ビー・エム 「IBMマルチステーション5550」
日本テレコム
朝日新聞 - キャッチコピーは「歴史は、あっちこっちで作られる。」。コピーライターの仲畑貴志の作である。
パイオニア「DVDレコーダー」(没後に製作)
シングル [編集]
泣いてたまるか(TBS連続テレビドラマ「泣いてたまるか」主題歌)(B面:若いぼくたち/ミュージカル・アカデミー)(1966年5月10日)
オー大和魂(TBS連続テレビドラマ「大和魂くん」主題歌)(B面:雨の降る日は天気が悪い)(1968年10月)
男はつらいよ(フジテレビ連続テレビドラマ「男はつらいよ」主題歌、松竹映画「男はつらいよ」主題歌)(B面:チンガラホケキョーの唄)(1970年2月10日)
ごめんくださいお訪ねします(松竹映画「あゝ声なき友」主題歌)(B面:あゝ声なき友)(1972年3月25日)
さくらのバラード(歌:倍賞千恵子)(B面:寅さんの子守唄)(1972年4月)
こんな男でよかったら(B面:ひとは誰でも)(よみうりテレビドラマ「こんな男でよかったら」)(1973年4月5日)
いつかはきっと(掛け声:山田パンダ)(TBSテレビドラマ「ヨイショ」主題歌)(B面:遠くへ行きたい)(1974年8月25日)
寅さん音頭(B面:赤とんぼ)(1975年7月5日)
祭りのあと(B面:駅弁唱歌)(1975年9月5日)
渥美清の啖呵売I(B面:渥美清の啖呵売りⅡ)(1976年6月25日)
浅草日記(B面:すかんぽの唄)(1977年6月25日)
今日はこれでおしまい(1977年10月25日)
DISCO・翔んでる寅さん(B面:寅さん音頭)(1979年7月25日)
アルバム [編集]
渥美清が歌う哀愁の日本軍歌集(1968年12月5日)
噫々戦友の詩(きけわだつみのこえ)より(1971年)
男はつらいよフーテンの寅と発します!(1971年11月)
男はつらいよ名場面集(第一集)
男はつらいよ名場面集(第二集)
男はつらいよ名場面集(第三集)(1974年)
渥美清ベストヒット28(1976年)
著書 [編集]
『きょうも涙の日が落ちる 渥美清のフーテン人生論』 (展望社、2003年)
『渥美清わがフーテン人生』「サンデー毎日」編集部編 (毎日新聞社、1996年)
『赤とんぼ 渥美清句集』 森英介編 (本阿弥書店、2009年)
参考文献 [編集]
関敬六 『さらば友よ』(ザ・マサダ、1996年)
渥美清の肘突き 人生ほど素敵なショーはない (福田陽一郎、岩波書店)
おかしな男 渥美清(小林信彦、新潮文庫)
知られざる渥美清(大下英治、廣済堂文庫)
渥美清 浅草・話芸・寅さん(堀切直人、晶文社)
拝啓渥美清様(読売新聞社会部、中公文庫)
渥美清の伝言(NHK同制作班編 KTC中央出版)
渥美清晩節、その愛と死 (篠原靖治、祥伝社)
親族 [編集]
田所健太郎
長男。株式会社ニッポン放送に所属していたラジオディレクター。主な担当番組に伊集院光のOh!デカナイト、(有)チェリーベルがある 。現在は株式会社ニッポン放送を退社し、フリーのラジオディレクター。
山岡和美
元ニッポン放送アナウンサー、長男の妻。
演じた俳優 [編集]
南原清隆
ものまねをする芸人 [編集]
原一平 寅さんのものまねは、渥美本人も生前から認めていた、唯一の渥美清公認ものまね芸人。寅さんのものまねをする際に着用する衣装は渥美本人が映画で実際に使っていたのを譲り受けた物である。
フランクさな寅(フランクさな寅ブログ) 地元ですら知る人ぞ知る「広島の寅さん」。TSS「親子笑劇場電太郎一家」(ローカルミニドラマ。既に終了)にドラ猫のドラ役で出演していた。
野口陽一 山田洋次監督公認。
山口智充(「ワンナイR&R」にて)
関連項目 [編集]
日本お笑い史
日本の男優一覧
脚注 [編集]
1.^ 男はつらいよ DVD BOX 特典DVDインタビューにて(2008年収録)
外部リンク [編集]
葛飾柴又寅さん記念館の公式ホームページ
渥美清こもろ寅さん会館の公式ホームページ
[表示]表・話・編・歴国民栄誉賞 受賞者
王貞治 - 古賀政男 - 長谷川一夫 - 植村直己 - 山下泰裕 - 衣笠祥雄 - 美空ひばり - 千代の富士貢 - 藤山一郎 - 長谷川町子 - 服部良一 - 渥美清 - 吉田正 - 黒澤明 - 高橋尚子 - 遠藤実 - 森光子 - 森繁久彌
[表示]表・話・編・歴男はつらいよ
1-12作 男はつらいよ - 続・男はつらいよ - フーテンの寅 - 新・男はつらいよ - 望郷篇 - 純情篇 - 奮闘篇 - 寅次郎恋歌 - 柴又慕情 - 寅次郎夢枕 - 寅次郎忘れな草 - 私の寅さん
13-24作 寅次郎恋やつれ - 寅次郎子守唄 - 寅次郎相合い傘 - 葛飾立志篇 - 寅次郎夕焼け小焼け - 寅次郎純情詩集 - 寅次郎と殿様 - 寅次郎頑張れ! - 寅次郎わが道をゆく - 噂の寅次郎 - 翔んでる寅次郎 - 寅次郎春の夢
25-36作 寅次郎ハイビスカスの花 - 寅次郎かもめ歌 - 浪花の恋の寅次郎 - 寅次郎紙風船 - 寅次郎あじさいの恋 - 花も嵐も寅次郎 - 旅と女と寅次郎 - 口笛を吹く寅次郎 - 夜霧にむせぶ寅次郎 - 寅次郎真実一路 - 寅次郎恋愛塾 - 柴又より愛をこめて
37-48作・特別編 幸福の青い鳥 - 知床慕情 - 寅次郎物語 - 寅次郎サラダ記念日 - 寅次郎心の旅路 - ぼくの伯父さん - 寅次郎の休日 - 寅次郎の告白 - 寅次郎の青春 - 寅次郎の縁談 - 拝啓車寅次郎様 - 寅次郎紅の花 - ハイビスカスの花 特別篇
関連項目 松竹 - 渥美清 - 山田洋次 - 柴又 - 柴又帝釈天
「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A5%E7%BE%8E%E6%B8%85」より作成
カテゴリ: 日本の俳優 | コメディアン | ヤクザ映画 | 紫綬褒章受章者 | 東京都出身の人物 | 1928年生 | 1996年没表示
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さんこと、車 寅次郎
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寅
「わたくし、生まれも育ちも、葛飾柴又です。
帝釈天で産湯をつかい、姓は、車 名は寅次郎。
人呼んで、フーテンの寅と発します。」
これは、寅さんの有名な口上の一節です。
そして、寅さんとはみなさんご存知のとおり「男はつらいよ」
に出てくる渥美清さん扮するキャラクターのことです。
このサイトは、ふとなんだか寅さんに会いたくなって葛飾柴又に行ってみた男が
独断と偏見でもって、寅さんについて、そして葛飾柴又エリアについて書いてます。
どうぞお見知り置きを。。
フーテンの寅?
寅は分かるけど、フーテンって?
この意味わかりますか?
辞書によると、
ふう‐てん【瘋癲】
1 精神の状態が正常でないこと。また、その人。
2 通常の社会生活からはみ出して、ぶらぶらと日を送っている人。
寅さんは間違いなく2番でしょう。
なぜ愛されるのか?
テキ屋をやりながら、日本全国津々浦々旅をする寅さんこと車 寅次郎
その自由奔放な生き方が、世の男性の憧れでした。
自分は会社、家庭等々、守らなければならないものがたくさんある。
でも寅さんにはそれがない。
そんな寅さんの姿に自分の願望を重ね合わせながら家で、そして劇場で
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まずここで一度楽しんで、その後寅さんに会いに
柴又までお越しいただければ幸いです。
寅さんは丁度出かけるところかもしれませんが・・・。
2010年は寅年
今年、2010年は寅年ということで、寅さんの町葛飾柴又に行く人。
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「俺はもう二度とここに戻って来ねえとそう思っているんだ。気持ちのほうはそうは考えちゃくれねえんだ。あっと思うとまた俺はここに戻ってきちゃうんだ」
(第6作「男はつらいよ・純情篇」より)
柴又には、いつも寅さんを待っている温かな人たちがいます。「くるまや」を中心に繰り広げられる名場面の数々。その主な登場人物達です。
*寅さんの詳しい系譜は、当館パネルにございます。
※名前をクリックしてください!
1. 車寅次郎<フーテンの寅>(渥美清)
くるまや(39作目までとらや)5代目・車平造の息子。16歳で家出。20年ぶりに柴又に帰ってくる。以来、くるまやにいるかと思えば旅から旅への渡世人暮らし。
2. 諏訪さくら<さくら>(倍賞千恵子)
旧姓は車さくら。寅次郎の腹違いの妹。第一作で朝日印刷に勤める博と結婚、長男満との3人暮らし。
3. 諏訪博<ひろし>(前田吟)
北海大学教授の息子。家出して朝日印刷に勤め、さくらと結婚。タコ社長の片腕。
4. 諏訪満男<みつお>(吉岡秀隆ほか)
さくらと博のひとり息子。くるまやの期待の星だが、シャイな性格で、放浪癖がある。
5. 車竜造<おいちゃん>(下條正巳<第14〜第48作>、
松村達雄<第9作〜第13作>、森川信<第1作〜第8作>)
寅とさくらの叔父。くるまやの6代目。さくらの親がわり。
6. 車つね<おばちゃん>(三崎千恵子)
竜造の妻。くるまやを切り盛りする下町の肝っ玉母さん。
7. 桂梅太郎<タコ社長>(太宰久雄)
朝日印刷の社長。くるまやの裏に工場と住まいがあり、車一家とは親戚づきあい。
8. 御前様(笠智衆)
車家の菩提寺でもある題経寺(帝釈天)の住職。柴又の人たちに慕われている。娘・冬子(光本幸子)は初代マドンナ。
9. 源公(佐藤蛾次郎)
寅次郎の弟分として仕事を手伝っていたが、御前様に諭され帝釈天の寺男となる。
■山田洋次監督
「男はつらいよ」全48作のうち46作を監督。まさに、「寅次郎の生みの親」。当館名誉館長。
映画「男はつらいよ」には、懐かしい昭和、古き良き日本がぎゅっとつまっています。
山田洋次監督によって寅さんの故郷に選ばれた葛飾柴又のくらしや景色の中には、その面影が今も残っています。寅さん記念館では今春から、日本人の心のふるさと柴又に残る寅さんと「男はつらいよ」の記憶、昭和の記憶や日本人の心の原風景の記憶を受け継いでいくための情報収集や講座の開催をおこなってまいります。こうした活動を「寅さん学」と呼び、地元の方々や葛飾柴又を訪れる方々、全国の寅さんファンのみなさんと一緒に、映画や葛飾柴又の魅力を再発見していきたいと思います。
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「俺はもう二度とここに戻って来ねえとそう思っているんだ。気持ちのほうはそうは考えちゃくれねえんだ。あっと思うとまた俺はここに戻ってきちゃうんだ」
(第6作「男はつらいよ・純情篇」より)
柴又には、いつも寅さんを待っている温かな人たちがいます。「くるまや」を中心に繰り広げられる名場面の数々。その主な登場人物達です。
*寅さんの詳しい系譜は、当館パネルにございます。
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1. 車寅次郎<フーテンの寅>(渥美清)
くるまや(39作目までとらや)5代目・車平造の息子。16歳で家出。20年ぶりに柴又に帰ってくる。以来、くるまやにいるかと思えば旅から旅への渡世人暮らし。
2. 諏訪さくら<さくら>(倍賞千恵子)
旧姓は車さくら。寅次郎の腹違いの妹。第一作で朝日印刷に勤める博と結婚、長男満との3人暮らし。
3. 諏訪博<ひろし>(前田吟)
北海大学教授の息子。家出して朝日印刷に勤め、さくらと結婚。タコ社長の片腕。
4. 諏訪満男<みつお>(吉岡秀隆ほか)
さくらと博のひとり息子。くるまやの期待の星だが、シャイな性格で、放浪癖がある。
5. 車竜造<おいちゃん>(下條正巳<第14〜第48作>、
松村達雄<第9作〜第13作>、森川信<第1作〜第8作>)
寅とさくらの叔父。くるまやの6代目。さくらの親がわり。
6. 車つね<おばちゃん>(三崎千恵子)
竜造の妻。くるまやを切り盛りする下町の肝っ玉母さん。
7. 桂梅太郎<タコ社長>(太宰久雄)
朝日印刷の社長。くるまやの裏に工場と住まいがあり、車一家とは親戚づきあい。
8. 御前様(笠智衆)
車家の菩提寺でもある題経寺(帝釈天)の住職。柴又の人たちに慕われている。娘・冬子(光本幸子)は初代マドンナ。
9. 源公(佐藤蛾次郎)
寅次郎の弟分として仕事を手伝っていたが、御前様に諭され帝釈天の寺男となる。
■山田洋次監督
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山田洋次監督によって寅さんの故郷に選ばれた葛飾柴又のくらしや景色の中には、その面影が今も残っています。寅さん記念館では今春から、日本人の心のふるさと柴又に残る寅さんと「男はつらいよ」の記憶、昭和の記憶や日本人の心の原風景の記憶を受け継いでいくための情報収集や講座の開催をおこなってまいります。こうした活動を「寅さん学」と呼び、地元の方々や葛飾柴又を訪れる方々、全国の寅さんファンのみなさんと一緒に、映画や葛飾柴又の魅力を再発見していきたいと思います。
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山本亭
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建物は木造2階建て(1階120坪、2階15坪、地下防空壕、土蔵、長屋門)で、庭園は270坪で縁先の近くには池泉を、背後には緑濃い植え込みと築山を設けて滝を落とすという典型的な書院庭園です。
昭和初期における庭園様式を現在まで残した稀有の例で、同様の例は旧安田邸、徳富邸があります。
滝は池の最も遠い部分の入江奥に設けられ、庭園に奥行の深さと心地好い滝の音を作り出しています。
また限られた池水面をより広く見せる手法として、池の諸方向に入江を設け、池岸を多様に変化せしめています。
米国の日本庭園専門誌「ジャーナル・オブ・ジャパニーズガーデニング」が実施した日本庭園ランキング調査で山本亭は、2004年〜2007年の4年連続で3位にランクされました。
山本亭は、合資会社山本工場(カメラ部品メーカー)の創立者、故山本栄之助氏の自宅でした。山本宅は浅草の小島町一丁目にありましたが、 大正12年の関東大震災で被害を受け、製瓦業者の屋敷跡(当地)に移転して来ました。
大正15年から昭和5年まで増改築を重ね山本家四代に亘り、昭和63年まで居住していました。現在は葛飾区が保存していて、平成3年4月から一般に公開されました。
山本亭の土蔵は、栄之助氏が屋敷跡を取得した当時からあり、改修は行われていますが築造年は判明しておりません。現存する建物の中で一番古い建造物となります。
大正15年から昭和2年頃、東棟の玄関・廊下(写真左1段目)を改修し、西棟および蔵前廊下の新築をして、二世帯住宅の形となりました。
昭和5年、東棟の湯殿を火災で焼失。その頃居宅の改修が施され、鳳凰の間(写真左2段目)を新築、ほぼ今日の状態と同じになりました。
和洋折衷様式の特異な長屋門(写真左3段目)は、昭和5年から8年に住居兼用であった古い長屋門を取り壊し新築されたものです。
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昭和初期における庭園様式を現在まで残した稀有の例で、同様の例は旧安田邸、徳富邸があります。
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また限られた池水面をより広く見せる手法として、池の諸方向に入江を設け、池岸を多様に変化せしめています。
米国の日本庭園専門誌「ジャーナル・オブ・ジャパニーズガーデニング」が実施した日本庭園ランキング調査で山本亭は、2004年〜2007年の4年連続で3位にランクされました。
山本亭は、合資会社山本工場(カメラ部品メーカー)の創立者、故山本栄之助氏の自宅でした。山本宅は浅草の小島町一丁目にありましたが、 大正12年の関東大震災で被害を受け、製瓦業者の屋敷跡(当地)に移転して来ました。
大正15年から昭和5年まで増改築を重ね山本家四代に亘り、昭和63年まで居住していました。現在は葛飾区が保存していて、平成3年4月から一般に公開されました。
山本亭の土蔵は、栄之助氏が屋敷跡を取得した当時からあり、改修は行われていますが築造年は判明しておりません。現存する建物の中で一番古い建造物となります。
大正15年から昭和2年頃、東棟の玄関・廊下(写真左1段目)を改修し、西棟および蔵前廊下の新築をして、二世帯住宅の形となりました。
昭和5年、東棟の湯殿を火災で焼失。その頃居宅の改修が施され、鳳凰の間(写真左2段目)を新築、ほぼ今日の状態と同じになりました。
和洋折衷様式の特異な長屋門(写真左3段目)は、昭和5年から8年に住居兼用であった古い長屋門を取り壊し新築されたものです。
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大正末期から昭和初期に建てられた和洋折衷のハイカラな建物!
大正末期から昭和初期にかけて建築された、和洋折衷の築山や滝のある日本庭園を配した木造建築の民家。平成3年から一般公開している。
平成15年に「東京都指定歴史的建造物」に指定された。また、米国の日本庭園雑誌のランキング調査にて3年連続全国第3位に選ばれた実績もある。
住所 東京都葛飾区柴又7-19-32
TEL 03-3657-8577
営業時間 9:00~17:00
休業日 第3火曜(祝日は開館し、翌平日休館)、12月の第3火曜~木曜
交通 京成金町線京成柴又駅より徒歩約8分、または北総線新柴又駅より徒歩約12分。JR常磐線・京成線金町駅より京成バス小岩駅行に乗車し、帝釈天前停留所下車、徒歩約7分
車 首都高速道路中央環状線(外回り)四つ木ICより約20分
駐車場 無 ※周辺に区営有料駐車場有
料金 大人100円、中学生以下無料
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男はつらいよ
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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この項目では、「男はつらいよ」全般について記述しています。映画第一作目については「男はつらいよ (映画)」を、各作品の解説については「男はつらいよ#映画シリーズ一覧」をご覧ください。
京成金町線柴又駅前にたつ、車寅次郎の銅像『男はつらいよ』(おとこはつらいよ)は、渥美清主演、山田洋次原作・監督(一部作品除く)のテレビドラマおよび映画である。テキ屋稼業を生業とする「フーテンの寅」こと車寅次郎が、何かの拍子に故郷の葛飾柴又に戻ってきては何かと大騒動を起こす人情喜劇シリーズ。毎回旅先で出会った「マドンナ」に惚れつつも、失恋するか身を引くかして成就しない寅次郎の恋愛模様を、日本各地の美しい風景を背景に描く。主人公の名前から、作品自体も「寅さん」と呼ばれることが多い。
目次 [非表示]
1 概要
2 映画概要
3 エピソード
4 登場人物
4.1 レギュラー
4.2 準レギュラー
4.3 サブキャラクター
5 映画シリーズ一覧
5.1 未撮影作品
5.2 シリーズのロケ地
5.3 寅次郎花へんろと虹をつかむ男
5.4 寅次郎ハイビスカスの花 特別篇
6 有名なシーン・セリフ
6.1 有名なシーン
6.2 有名なセリフ
7 主題歌
8 テレビ版
8.1 経緯
8.2 放送とその後
8.3 映像の現存状況
8.4 出演者
9 アニメ版
9.1 キャスト
9.2 スタッフ
10 関連番組
11 本作をもとにしたキャラクターが登場する作品
12 脚注
13 関連項目
14 外部リンク
14.1 公式サイト
14.2 関連サイト
14.3 研究サイト
概要 [編集]
1968年 - 1969年に、フジテレビが制作・放送したテレビドラマが最初である。このテレビ版のヒット、最終回で寅次郎がハブを取りに行こうとして、逆にハブにやられ、毒が回り死んだと言う結末が視聴者から多数の抗議が殺到して、映画化につながった。
映画シリーズは、松竹によって1969年(昭和44年)から1995年(平成7年)までに全48作が、1997年(平成9年)に特別編1本が製作された。なお、第1作は1969年6月には完成していたらしいが、一時お蔵入りとなり、8月になってから上映された。
山田洋次が全48作の原作・脚本を担当。第3作、第4作を除く46作を自ら監督した。第3作の監督は森崎東、第4作は小林俊一である。第5作を山田が再び監督し、シリーズを完結させる予定であったが、あまりのヒットに続編の制作が決定した。
以降、全作品がヒットして松竹のドル箱シリーズとなり、30作を超えた時点で世界最長の映画シリーズとしてギネスブック国際版にも認定された。ただしこれは作品数においてであり、年数では『ゴジラ』シリーズの方が長い。渥美の死去により、1995年に公開された第48作『寅次郎紅の花』をもって幕を閉じた。その後、ファンからのラブコールが多かったとの事で、『寅次郎ハイビスカスの花』を再編集し、新撮影分を加えた『寅次郎ハイビスカスの花 特別篇』が1997年に公開された。また渥美の死により、第49作および本来の最終作となるはずだった第50作が未撮影になった。
--------------------------------------------------------------------------------
注意:以降の記述で物語・作品・登場人物に関する核心部分が明かされています。
--------------------------------------------------------------------------------
映画概要 [編集]
男はつらいよ
渥美清演じる車寅次郎
監督 山田洋次(一部作品除く)
出演者 渥美清、倍賞千恵子、前田吟、
太宰久雄、笠智衆、佐藤蛾次郎など
配給 松竹
上映時間 1969年 - 1995年
製作国 日本
言語 日本語
表・話・編・歴
主人公、「フーテンの寅」こと車寅次郎は、父親、車平造が芸者、菊との間に作った子供。実母の出奔後父親のもとに引き取られたが、16歳の時に父親と大ゲンカをして家を飛び出したという設定。第1作は、テキ屋稼業で日本全国を渡り歩く渡世人となった寅次郎が家出から20年後突然、倍賞千恵子演じる腹違いの妹さくらと叔父夫婦が住む、生まれ故郷の東京都葛飾区柴又・柴又帝釈天の門前にある草団子屋に戻ってくるところから始まる。
シリーズのパターンは寅次郎が旅先や柴又で出会うマドンナに惚れてしまい、マドンナも寅次郎に対して好意を抱くが、それは多くの場合恋愛感情ではなく、最後にはマドンナの恋人が現れて寅次郎は振られてしまう。そして落ち込んだ寅次郎が正月前、もしくは盆前(即ち正月、盆がテキ屋は書き入れ時)に再びテキ屋稼業の旅に出て行くという結末で一貫している。
『寅次郎夢枕』の千代や、いわゆる「リリー三部作」[1]のリリーなどのように、寅次郎に恋愛感情を持ったマドンナもいたが、この場合は、寅次郎の方が逃げ腰になり、自ら身を引く形となっている。また、マドンナと「うまくいっている」と誤解している時点で、寅次郎が柴又に帰り、さくら達にマドンナとの楽しい体験を話す場面は、渥美清の語りは落語家のような名調子で、スタッフやキャスト達は「寅のアリア」と呼んでいた。
第42作以降の4作品は、寅次郎の相手となる通常のマドンナに加え、さくらの息子満男(吉岡秀隆)が思いを寄せる泉(後藤久美子)がマドンナとして登場するようになり、寅次郎が満男のコーチ役にまわる場面が多くなっている。渥美が病気になり快活な演技ができなくなったため、満男を主役にしたサブストーリーを作成、満男の恋の相手が必要になったため、当初は予定されてなかった泉が登場することとなる。山田監督の話によれば第49作で泉と満男を結婚させようと考えていたらしいが、渥美の死去により幻になった(『紅の花』で泉の結婚式を妨害し、結婚式を中断させたのは結婚への伏線であったとも考えられる)。
柴又帝釈天レギュラーとして登場する人物は、寅次郎、さくらのほか、さくらの夫・諏訪博、草団子店を経営する叔父・竜造と叔母・つね、博が勤務する印刷会社「朝日印刷所(第一作、第二作のみ共栄印刷)」の社長で寅次郎の幼馴染・タコ社長こと桂梅太郎(第六作のみ堤梅太郎)、帝釈天の御前さま、寺男で寅次郎の舎弟・源公などがいた。マドンナとして複数回登場した女優もいるが、リリー、泉、歌子(吉永小百合)以外は、別人の役で出演している。おいちゃんこと叔父・竜造役は初代が森川信、2代目は松村達雄、3代目は下條正巳が演じた。その他、毎回役柄は違うものの、サブキャラクターとしてレギュラー出演する俳優も多く存在した。
青年時代に、実際にテキ屋体験がある渥美ならではの見事な口上も、ファンの楽しみであった。また、このシリーズは原則としてお盆と正月の年二回公開されたが、お盆公開の映画の春から夏への旅は、南から北へ、正月公開の秋から冬への旅は、北から南へ旅することが多かった。画面に映し出される日本各地の懐かしい風景が、シリーズの魅力の一つでもある。
なお、第48作まで一貫してエンドロール表示は設定されず、出演キャストや製作スタッフ等の字幕表示はオープニングでされた。
エピソード [編集]
この記事に雑多な内容を羅列した節があります。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか整理・除去する必要があります。(2009年7月貼付)
当初は興行成績よりも評価が優先している傾向があり、不動の大ヒットシリーズとなったのは第5作あたりからである。
御前様役を演じていた笠智衆は、第45作終了直後に亡くなっている。しかし、御前様の娘・冬子役としてかつて出演していた光本幸子が第46作で久々に出演、さくらと冬子が二人で御前様の近況の会話をする描写があるほか、さくらが源公に「御前様お元気?」と聞くシーンもあり、笠が亡くなっても、御前様は健在であるという設定になっている。
オープニングテーマの前に始まる、寅次郎が旅先で見る様々な夢は、全撮影の最後に撮影されている。夢のシーンは『科学者の寅次郎が怪獣を倒す』等の本編とは全く関係のない話が多い。なお、出演者には直前まで内容は秘密にされていたという。
山田洋次が柴又を知ったのは、『下町の太陽』を監督する際、作家の早乙女勝元に教授してもらうために早乙女宅を訪問。早乙女宅からすぐそばにあった帝釈天を、案内されたのが切っ掛けである。
フジテレビで、登場人物を動物に置き換えたテレビアニメ版『フーセンのドラ太郎』が放送された。また、TBSでもテレビアニメ版が放送され、映画シリーズに出演したことがある岡本茉利がさくら役になっている。それぞれ制作会社も制作時期も異なり、関連性はない。
源公役の佐藤蛾次郎は、第8作のみ、交通事故にあったため出演していない。
寅次郎の名は、映画監督の斎藤寅次郎にちなむ。
映画の舞台に使用した柴又の団子屋が、実際に「とらや」に屋号を変更した。このため、作中の「とらや」の屋号は、第40作から「くるまや」に変わる。
柴又の店舗で撮影されていたのは第4作までで、それ以降は松竹大船撮影所のセットである。
出川哲朗は若手時代に、第37作、第39作の2本にチョイ役で出演している。第37作では台詞も一言だけある。本人のコメントによると、撮影現場で渥美清に「君は普段何をしてるのかね?」と尋ねられたという。
第46作には、本作と同時上映として製作されていた『釣りバカ日誌』の主人公である、西田敏行演じるハマちゃんがカメオ出演している。釣具を背負ったハマちゃんが釣りに向かう途中、くるまやの前を通って、おばちゃんと会話を交わすというもので、松竹の二大シリーズ間でスター・システムを取り入れている。
2001年(平成13年)8月4日、奇しくも渥美清の5回目の命日に、柴又八幡神社古墳において帽子や顔の輪郭などが「寅さん」にそっくりの埴輪が出土した。現在は複製が寅さん記念館に展示してある。このことは、フジテレビのバラエティ番組『トリビアの泉』でも紹介された。考古学者によると、この埴輪は6世紀のものであるといい、この埴輪を見た山田監督は驚いたという。新聞で紹介された時は「君は寅さんのご先祖様かい?」という見出しがついた。
さくらと博が住む川沿いの家は、毎回同じではなく変わっている。
正月映画としての公開が毎年の恒例だったことから、「寅さん」は冬の季語にもなっている[2]。
長野県小諸市には、寅さん会館という、寅さんの記念館がある。
京成電鉄は初回より撮影に協力。日本で初めて鉄道施設内での撮影を可能とした。
渥美の死去により、2代目寅さんの誕生が噂され、片岡鶴太郎や西田敏行らが候補とされた。これは噂の域にとどまらず、実際に報道もされたが、「寅さん=渥美清」という山田監督の意向もあってお蔵入りとなっている。1996年・1997年には、本シリーズに代わる新たな松竹正月映画として、西田主演、山田監督、寅さんファミリーと呼ばれる常連出演者勢ぞろい、男はつらいよとほぼ同じスタッフが参加した『虹をつかむ男』が公開された。しかし。その後の松竹の看板正月映画は、1988年から2009年まで続いた、西田主演で山田洋次が脚本家としても携わる『釣りバカ日誌』シリーズに受け継がれることとなる。
全48作中9作がキネマ旬報・ベストテンに入選している。同ベストテンでは、『仁義なき戦い』等の例外を除くと、プログラムピクチャーシリーズ(『駅前』『社長』『若大将』など)やその他時代劇も含め、シリーズ物の映画はほとんど無視される傾向がある。それから考えると、評価の高さが伺える。
特に、ブラジルのサンパウロ市にある日本人街「リベルダージ」の映画館では、1990年代に至るまで最新作が毎作上映されていた。なお、ブラジルの法律で「8歳以上指定作品」となっていた。
また、同じく1990年代までは日本航空の機内で最新作が上映されていた。
北朝鮮の金正日総書記がファンであるとされる。
登場人物 [編集]
レギュラー [編集]
車寅次郎:渥美清
主人公。職業は的屋で、各地を回って物を売っている。
諏訪さくら:倍賞千恵子
寅次郎の腹違いの妹。諏訪博と結婚して満男を産む。
諏訪博:前田吟
さくらの夫。満男の父。
車竜造(おいちゃん):森川信(第1作 - 第8作)→松村達雄(第9作 - 第13作)→下條正巳(第14作 - 第48作)
車つね(おばちゃん):三崎千恵子
諏訪満男:中村はやと(第1作 - 第8作、第10作 - 第26作)沖田康浩(第9作)→吉岡秀隆(第27作 - 第48作)
さくらの長男で、寅次郎からは甥にあたる。浪人生活を経て、城東大学に入学、卒業した。浪人中に、後藤久美子演じる及川泉に恋をする。晩年のシリーズでは寅次郎より満男と泉の関係にスポットを当てた作品も見られた。
桂梅太郎(社長・タコ社長):太宰久雄
御前様:笠智衆(第1作 - 第45作)
源公:佐藤蛾次郎(第8作を除く)
準レギュラー [編集]
川又登(寅次郎の舎弟):津坂匡章(現・秋野太作)(第1作 - 第5作、第9作 - 第10作、第33作)
坪内冬子(御前様の娘/第1作のマドンナ):光本幸子(第1作、第7作、第46作)
諏訪飈一郎(博の父):志村喬(第1作、第8作、第22作)
リリー(マドンナ):浅丘ルリ子(第11作、第15作、第25作、第48作)
お菊(寅次郎の母):ミヤコ蝶々(第2作、第7作)
桂あけみ(タコ社長の娘):美保純(第33作 - 第39作)
及川泉(満男の交際相手/マドンナ):後藤久美子(第42作 - 第45作、第48作)
及川礼子(泉の母):夏木マリ(第42作 - 第45作、第48作)
三平(くるまやの店員):北山雅康(第40作 - 第48作)
加代(くるまやの店員):鈴木美恵(第46作 - 第48作)
サブキャラクター [編集]
関敬六(シリーズ後半からは、寅のテキヤ仲間・ポンシュウ役)
桜井センリ(寅のテキヤ仲間など)
松村達雄(おいちゃん役の他に医者、定時制高校の教師、お寺の住職、教授役など)
米倉斉加年(交番の巡査、寅の恋敵役など)
笹野高史(足の速さを見込まれて・こそ泥、役所の事務員ほか多数)
すまけい(船長役など多数)
犬塚弘(同級生役など)
イッセー尾形(医師、車掌役など)
マキノ佐代子(朝日印刷所事務員役など)
谷よしの(初期はご近所さんが多く、他に寅さんが泊る旅館の仲居さん、地方の老婆役)
吉田義夫(旅の一座の座長役など)
岡本茉利(旅の一座の大空小百合役など)
あき竹城
津嘉山正種(オープニングに登場する絵描き役など)
石井均
アパッチけん
神戸浩
寺尾聰(警察官、泉の父役など)
石倉三郎
大滝秀治(寺の住職、古書店主役など)
映画シリーズ一覧 [編集]
作数 公開 タイトル マドンナ・共演者 ロケ地
1 1969年8月27日 男はつらいよ 光本幸子, 志村喬 京都府、奈良県
2 1969年11月15日 続・男はつらいよ 佐藤オリエ, 山崎努 京都府、三重県(柘植)
3 1970年1月15日 男はつらいよ フーテンの寅 新珠三千代, 河原崎建三 三重県(湯の山温泉)、鹿児島県(種子島)
4 1970年2月27日 新・男はつらいよ 栗原小巻, 横内正 愛知県(名古屋市)
5 1970年8月25日 男はつらいよ 望郷篇 長山藍子 千葉県(浦安市)、北海道(札幌市、小樽市)
6 1971年1月15日 男はつらいよ 純情篇 若尾文子 長崎県(長崎市、福江島)、静岡県(浜名湖)
7 1971年4月28日 男はつらいよ 奮闘篇 榊原るみ, ミヤコ蝶々, 田中邦衛 新潟県(越後広瀬)、静岡県(沼津市)、青森県(鰺ヶ沢町、弘前市)
8 1971年12月29日 男はつらいよ 寅次郎恋歌 池内淳子, 志村喬 岡山県(備中高梁)
9 1972年8月5日 男はつらいよ 柴又慕情 吉永小百合, 宮口精二 石川県(金沢市)、福井県(東尋坊)
10 1972年12月29日 男はつらいよ 寅次郎夢枕 田中絹代, 八千草薫 山梨県(甲府市)、長野県(奈良井)
11 1973年8月4日 男はつらいよ 寅次郎忘れな草 浅丘ルリ子 北海道(網走)
12 1973年12月26日 男はつらいよ 私の寅さん 岸惠子, 前田武彦 熊本県(天草、阿蘇)、大分県(別府)
13 1974年8月3日 男はつらいよ 寅次郎恋やつれ 吉永小百合, 宮口精二 島根県(津和野、温泉津)
14 1974年12月28日 男はつらいよ 寅次郎子守唄 十朱幸代 佐賀県(唐津市)、群馬県(磯部温泉)
15 1975年8月2日 男はつらいよ 寅次郎相合い傘 浅丘ルリ子, 船越英二 青森県(青森市)、北海道(函館市、長万部町、札幌市、小樽市)
16 1975年12月27日 男はつらいよ 葛飾立志篇 樫山文枝, 小林桂樹 山形県(寒河江市)、静岡県
17 1976年7月24日 男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け
(仮タイトルは『男はつらいよ 柴又の伊達男』) 太地喜和子, 宇野重吉 兵庫県(龍野市)
18 1976年12月25日 男はつらいよ 寅次郎純情詩集 京マチ子, 檀ふみ 長野県(別所温泉)、新潟県(六日町)
19 1977年8月6日 男はつらいよ 寅次郎と殿様 真野響子, 嵐寛寿郎, 平田昭彦 愛媛県(大洲市)
20 1977年12月24日 男はつらいよ 寅次郎頑張れ! 藤村志保, 中村雅俊, 大竹しのぶ 長崎県(平戸島)
21 1978年8月5日 男はつらいよ 寅次郎わが道をゆく 木の実ナナ, 武田鉄矢 熊本県(田の原温泉)
22 1978年12月27日 男はつらいよ 噂の寅次郎 大原麗子, 志村喬 長野県(木曽福島)、静岡県(大井川)
23 1979年8月4日 男はつらいよ 翔んでる寅次郎 木暮実千代, 桃井かおり 北海道(支笏湖)
24 1979年12月28日 男はつらいよ 寅次郎春の夢 香川京子 和歌山県、京都府、アメリカ合衆国(アリゾナ州)
25 1980年8月2日 男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花 浅丘ルリ子 沖縄県、長野県(軽井沢)
26 1980年12月27日 男はつらいよ 寅次郎かもめ歌 伊藤蘭, 米倉斉加年 北海道(奥尻島・江差町)、徳島県
27 1981年8月8日 男はつらいよ 浪花の恋の寅次郎 松坂慶子 大阪府、瀬戸内、長崎県(対馬)
28 1981年12月28日 男はつらいよ 寅次郎紙風船 音無美紀子 福岡県(秋月)、大分県(夜明)、静岡県(焼津市)
29 1982年8月7日 男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋 いしだあゆみ, 片岡仁左衛門 京都府(京都市、伊根)、長野県(信濃大町)、神奈川県(鎌倉市)、滋賀県(彦根市)
30 1982年12月28日 男はつらいよ 花も嵐も寅次郎 田中裕子, 沢田研二 大分県(湯平温泉、別府鉄輪温泉、由布市)
31 1983年8月6日 男はつらいよ 旅と女と寅次郎 都はるみ 新潟県(佐渡市、新潟市、支笏湖)
32 1983年12月28日 男はつらいよ 口笛を吹く寅次郎 竹下景子, 長門勇 岡山県(備中高梁)、広島県(因島)
33 1984年8月4日 男はつらいよ 夜霧にむせぶ寅次郎 中原理恵, 渡瀬恒彦 岩手県(盛岡市)、北海道(釧路市、根室市、中標津町、養老牛温泉)
34 1984年12月28日 男はつらいよ 寅次郎真実一路 大原麗子, 辰巳柳太郎, 津島恵子, 米倉斉加年 鹿児島県(枕崎市・指宿市)、茨城県(牛久沼)
35 1985年8月3日 男はつらいよ 寅次郎恋愛塾 樋口可南子, 平田満 長崎県(上五島)、天草市、秋田県(鹿角市)
36 1985年12月28日 男はつらいよ 柴又より愛をこめて 栗原小巻 静岡県(下田)、東京都(式根島)、静岡県(浜名湖)、福島県(会津若松市)
37 1986年12月20日 男はつらいよ 幸福の青い鳥 志穂美悦子, 長渕剛 福岡県(筑豊)、山口県(萩市、下関市)
38 1987年8月5日 男はつらいよ 知床慕情 竹下景子, 三船敏郎 北海道(斜里町)、岐阜県(岐阜市)
39 1987年12月26日 男はつらいよ 寅次郎物語 五月みどり, 秋吉久美子 奈良県(吉野)、和歌山県、三重県(志摩市、伊勢市二見町)
40 1988年12月24日 男はつらいよ 寅次郎サラダ記念日 奈良岡朋子, 三田佳子 長野県(小諸市、松本市)、長崎県(島原市)
41 1989年8月5日 男はつらいよ 寅次郎心の旅路 竹下景子, 柄本明 オーストリア(ウィーン)、オランダ・(アムステルダム・スキポール国際空港)、宮城県(松島)、石川県
42 1989年12月27日 男はつらいよ ぼくの伯父さん 檀ふみ, 後藤久美子 佐賀県(佐賀市、古湯温泉、吉野ヶ里)、茨城県(袋田)
43 1990年12月22日 男はつらいよ 寅次郎の休日 夏木マリ, 後藤久美子 大分県(日田市)、愛知県(名古屋市)
44 1991年12月23日 男はつらいよ 寅次郎の告白 吉田日出子, 後藤久美子 鳥取県、岐阜県(奥恵那峡・蛭川)
45 1992年12月26日 男はつらいよ 寅次郎の青春 風吹ジュン, 後藤久美子 宮崎県(油津)、岐阜県(下呂温泉)
46 1993年12月25日 男はつらいよ 寅次郎の縁談 松坂慶子, 島田正吾 香川県(琴平・志々島・高見島)、栃木県(烏山)
47 1994年12月23日 男はつらいよ 拝啓車寅次郎様 かたせ梨乃, 牧瀬里穂 新潟県(上越市)、滋賀県(長浜、西浅井町)、神奈川県(鎌倉市)、長崎県(雲仙)
48 1995年12月23日 男はつらいよ 寅次郎紅の花 浅丘ルリ子, 後藤久美子 鹿児島県(奄美大島)、岡山県(滝尾・津山)、兵庫県(神戸市)
特別編 1997年11月22日 男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花 特別篇 浅丘ルリ子 沖縄県
未撮影作品 [編集]
1996年12月28日公開予定 『男はつらいよ 寅次郎花へんろ』(マドンナ:田中裕子 ロケ地:高知県)
1997年12月公開予定 タイトル不明(マドンナ:黒柳徹子[3] ロケ地:未定)
山田洋次は、最終作で寅次郎が幼稚園の用務員になり、子供たちとかくれんぼをしている最中に息を引き取り、町の人が思い出のために地蔵を作るという構想を早くから持っていた。このことは1990年8月25日に放送されたTBS『クイズダービー』(第754回)の第7問(三択問題)で出題されており、遅くとも同年時点でこの構想があったことがわかる(正解は1枠の北野大、3枠のはらたいら、5枠ゲストの山崎浩子)。なお、本シリーズにマドンナとして出演した実績がある、レギュラー解答者の竹下景子は、2枠の井森美幸と同様に「温泉のストリップ小屋(で眠るように死んでしまう)」と書いて不正解だった。
シリーズのロケ地 [編集]
『男はつらいよ』シリーズの撮影はほぼ全国で行われているが、高知県と富山県と埼玉県では撮影が行われていない(2008年12月5日放送のテレビ東京『日本のビックリ新発見!頭が良くなるヘンな地図』より)。 ただし、高知県では第49作の撮影が決定していた。また、セリフ上では第8作で高知へ行ったということになっている。
高知県と富山県では後に、『男はつらいよ」以後松竹の看板として国民的映画シリーズになった『釣りバカ日誌』において、連続して撮影が行われた。
海外撮影はアメリカ(24作)、オーストリア(41作)で行われた。
寅次郎花へんろと虹をつかむ男 [編集]
シリーズ第49作のマドンナは田中裕子で、その兄役で西田敏行が出演の予定だった。物語は、妹が中絶した子供の父親が寅さんかと兄が疑い、それから寅さんがこの兄妹の後見人になる、また泉と満男を結婚させる、というものだったらしい。公開日は1996年12月28日と決まり、秋からの撮影を控えていた。「渥美清の伝言」によると、1996年6月28日に秋から始まる撮影に向けて意欲を燃やしていたが、渥美の死去により実現しなかった。
公開予定の1996年12月28日にほぼ同じキャスト、ロケ地で『虹をつかむ男』が渥美清への追憶映画として公開された。倍賞千恵子、前田吟、吉岡秀隆の三人はこの映画でも親子役である。渥美清もCGではあるが、1シーンだけ登場している。
寅次郎ハイビスカスの花 特別篇 [編集]
1997年に公開された『寅次郎ハイビスカスの花 特別篇』は、根強い寅さん人気に応える形で作られた作品である。満男が寅さんを回想する内容で、タイトルになっている第25作『寅次郎ハイビスカスの花』だけではなく、第11作『寅次郎忘れな草』、第15作『寅次郎相合い傘』のシーンが使われている。映像技術の進歩によって製作できた作品とも言え、満男が見た幻としてCGの寅さんが登場した。主題歌を八代亜紀が歌っている。
有名なシーン・セリフ [編集]
有名なシーン [編集]
「寅のアリア」(第15作・男はつらいよ 寅次郎相合い傘)
リリーをキャバレーまで送った寅次郎は、そのあまりの環境の劣悪さに驚き、肩を落としてとらやに帰って来る。「俺にふんだんに銭があったら・・・」寅次郎は大ステージで歌い上げるリリーの姿を想像し、臨場感たっぷりにさくらたちへ語って聞かせる。寅次郎の切ないまでの愛情が渥美清の名演技によって表現されている。山田洋次によれば[4]、後日リリー役の浅丘ルリ子がこのシーンを見て涙を流していたという。このシーンに限らず、渥美清独特の語り口によってなされる“一人語り”はスタッフの間から「寅のアリア」と呼ばれていた。
「メロン騒動」(第15作・男はつらいよ 寅次郎相合い傘)
寅次郎の世話になった男から高級メロンをもらったとらやの面々。切り分けて食べ始めたところへ寅次郎が外出から戻ってくる。寅次郎の分をうっかり勘定に入れ忘れていたことに気付いた一同は、大慌てで場を取り繕うとする。そんなとらやの人々を心が冷たいと激しくなじる寅次郎だったが、リリーが核心を突いた言葉で一喝してしまう。
「ぼたんの涙」(第17作・男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け)
芸者のぼたんが200万円の大金を騙し取られるが、法の盲点を突いたやり口になす術が見つからない。悲嘆に暮れるぼたんを横目に寅次郎はすっと立ち上がり、優しく別れの言葉を告げてとらやを飛び出していく。相手のところへ殴り込みに行こうとする寅次郎の捨て身の愛情に触れたぼたんは、幸福の涙を流す。
有名なセリフ [編集]
男はつらいよシリーズには、繰り返し使用されるセリフが多数ある。以下はその代表例である。
「それを言っちゃあお仕舞いよ」
喧嘩の際においちゃんが言う「出てってくれ」に対して寅次郎が返すセリフ。第1作で渥美清が咄嗟に放ってしまったアドリブだったが、セリフの持つ意味に感心した山田洋次がその後脚本に多用するようになった。[5]
「相変わらず馬鹿か?」
柴又に帰ってきた寅次郎が、備後屋などの顔なじみと交わす挨拶。これも、もともとは渥美清のアドリブであった。
「結構毛だらけ猫灰だらけ」
商売の啖呵から派生している、寅次郎の口癖。投げやりになったり、すねている際などに吐くこともある。
主題歌 [編集]
男はつらいよ
渥美清 の シングル
B面 チンガラホケキョーの唄
リリース 1970年2月10日
ジャンル 歌謡曲
レーベル 日本クラウン
渥美清 シングル 年表
オー大和魂
(1968年) 男はつらいよ
(1970年) ごめんくださいお訪ねします
(1972年)
同名の主題歌レコードは1970年2月に日本クラウンから発売され、シングルで38万枚のセールスを記録した[6]。売り上げこそ平凡だが、映画の主題歌としては息の長い曲となった。
もともとは、後述するテレビ版の主題歌であり、当初の歌い出しは、妹が嫁に行けない事を嘆く内容だった。しかし、妹さくらが結婚したため、自分がやくざ者だと自嘲する歌詞に変更された。
第49作『男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花 特別篇』では、八代亜紀が主題歌を歌っていた。沢知恵がアルバム『いいうたいろいろ2』の中でカバーしている。
『男はつらいよ』
作詞:星野哲郎
作曲:山本直純
歌:渥美清
テレビ版 [編集]
テレビドラマ「男はつらいよ」
ジャンル テレビドラマ
放送時間 木曜日22:00~22:45(45分)
放送期間 1968年10月3日 - 1969年3月27日(26回)
放送国 日本
制作局 フジテレビジョン、高島事務所
演出 小林俊一
脚本 山田洋次、稲垣俊、森崎東
プロデューサー 小林俊一、白川文造
出演者 渥美清、長山藍子ほか
オープニング 「男はつらいよ」渥美清
ドラマ
Portal: テレビ
Portal: ラジオ
Portal: ドラマ
一覧項目
テレビドラマ一覧
日本のテレビドラマ
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カテゴリ
テレビドラマ
ラジオドラマ
表・話・編・歴
映画第1作より前に、フジテレビ系列で山田洋次・稲垣俊・森崎東脚本の連続テレビドラマ『男はつらいよ』が放送された。1968年10月3日から1969年3月27日までの半年間、22時00分 - 22時45分に放送された。全26回。提供はいすゞ自動車、日本石油(現・新日本石油)、ニチバン。
経緯 [編集]
1966年にフジテレビで放送されていた、渥美清の連続テレビドラマ『おもろい夫婦』が大ヒットした。これをきっかけに、昭和40年代の同局では、渥美の連続ドラマが毎年のように放送されていた。本作は、フジの渥美ドラマ第3作にあたる。
制作は、フジテレビと高島事務所(当時の渥美が所属していた芸能事務所)。テレビ版は松竹の制作ではない。企画と演出はフジテレビ制作部のディレクター兼プロデューサー(当時)の小林俊一。同局の編成部では白川文造が係わった。
企画段階でのタイトルは『愚兄賢妹』という番組名だったが、フジテレビの営業から「愚兄賢妹では堅苦しくて番組として売り難い」と言われたため、タイトルを変更することになる。そして、北島三郎が唄っていた『意地のすじがね』の中にあった「つらいもんだぜ男とは」という歌詞をヒントに、小林俊一が『男はつらいよ』と命名した。山田は当時、この変更を快く思っていなかった[要出典]。
他にも、同時期にTBS系列で放映されていた渥美清主演のテレビ映画『泣いてたまるか』の、最終回のタイトルが「男はつらい」であり、この回の脚本を山田洋次が書いていたことも決め手となった。タイトル変更の経緯から、『意地のすじがね』の作詞者でもあった星野哲郎に、主題歌の作詞が依頼されることになる。
放送とその後 [編集]
船山馨原作のベストセラー小説をドラマ化した『石狩平野』が不調で、1年の放送期間が半年に短縮された。これにより、秋の番組編成に穴が空いてしまったため、本作の放送時間が木曜夜10時となる。今でこそ木曜夜10時はフジの独擅場だが、当時のこの時間帯は他局が圧倒しており、苦戦のフジは同局の渥美ドラマの人気で打破したい思惑もあった。
放送開始当初こそ視聴率は苦戦を続けたが、回数を重ねる毎に少しずつ上昇していき、番組終了までに最高で20%台を達するまでになった。視聴率としては高いとは言えないが、当時の状況を思えば大健闘の数字である。このため、当初は3ヶ月・13回の放送予定を、半年・26回に延長した。
最終回で寅次郎は、ハブ狩りで一儲けしようと奄美大島に出かけるが、そのハブに噛まれて死んでしまう。寅次郎を死なせたことで、視聴者からはテレビ局に抗議の電話が殺到、これが映画化に繋がった。しかし、当時はまだテレビ番組の地位が、映画から見てかなり低く見られていた時代であった。松竹は、テレビ番組の映画化に難色を示していたが、山田洋次と松竹プロデューサー上村力の説得に折れる形で映画化された。
映像の現存状況 [編集]
テレビ版の映像は、フジテレビのライブラリーには第1回と最終回だけしか現存していない。その理由としては、以下の事柄も関係している。
当時のVTRの規格が2インチで、機器・テープ共に高価だった。
当時は著作権法などの絡みで、番組の資料保存が制約されていた。
番組保存の概念が希薄だったことや、白黒番組が二次使用で商売になることは想定しなかった。
そのため当時、ビデオテープは放送後に使いまわされるのが普通であった。現在、全話の再放送および全話収録の完全版映像ソフトの製作・発売は不可能とされている。
現存する第1回と最終回については、1997年2月にフジテレビよりVHSで、2008年8月に松竹よりDVDでソフト化された。これらのビデオソフトでは、欠落した回も写真で紹介するほか、スタッフによる企画の誕生などのエピソードが収録されている。また、横浜市にある放送ライブラリーでは、第1回を閲覧することができる。
出演者 [編集]
車寅次郎:渥美清
さくら(櫻):長山藍子
車竜造(おいちゃん):森川信
車つね(おばちゃん):杉山とく子
雄二郎(※自称・寅の実弟。タネ違いの弟):佐藤蛾次郎
諏訪博士(※医師):井川比佐志
坪内散歩(※英語の先生、寅の恩師):東野英治郎
坪内冬子(※マドンナ。寅とさくらの幼馴染):佐藤オリヱ
鎌倉ミチオ(※さくらの恋人):横内正
冬子の恋人:加藤剛
川又登(※寅の舎弟でとらやの従業員):津坂匡章
フジテレビ系 木曜22時枠
前番組 番組名 次番組
石狩平野 男はつらいよ ブラックチェンバー
アニメ版 [編集]
渥美清没後2年の命日を記念して、1998年8月7日19時に、高井研一郎作画のコミック版を元に、映画シリーズ第11作の『男はつらいよ 寅次郎忘れな草』を参考にした『アニメ 男はつらいよ〜寅次郎忘れな草〜』が、TBS『金曜テレビの星!』で放映された。
視聴率は7.1%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)と、TBSの予想よりは不振に終わった。
その後、2009年1月25日に、バラエティ番組『快感MAP』(テレビ朝日)で再放送された。
キャスト [編集]
寅さん:山寺宏一
リリー:冬馬由美
さくら:岡本茉利
博:大塚芳忠
竜造:矢田稔
つね:東美江
タコ社長:峰恵研
御前様:槐柳二
源公:龍田直樹
満男:増田ゆき
備後屋:田原アルノ
栗原・夫:岡部政明
栗原・妻:種田文子
あや子:荒木香恵
進一:津村まこと
水原:志賀克也
めぐみ:菊地祥子
良吉:塩屋浩三
母親:有馬瑞香
司会者:星野充昭
社員A:小野塚貴志
社員B:鈴木正和
マサル:喜田あゆみ
少年A:黒田やよい
隣人:坂東尚樹
スタッフ [編集]
原作:山田洋次
製作総指揮:村田英憲
製作協力:荒井雅樹(大船撮影所)、林律雄、高井研一郎
プロデューサー:小野辰雄、山村俊史(TBS)
アニメーションプロデューサー:出崎哲
音楽:山本直純
キャラクターデザイン・総作画監督:小林ゆかり
音響監督:加藤敏
美術監督:阿部幸次
色彩設定:西川裕子
撮影監督:岡崎英夫
演出:棚橋一徳
文芸:小出一巳
絵コンテ・総監督:四分一節子
原著作・協力:松竹
制作協力:マジックバス
テレビ版アニメ製作:エイケン、TBS
関連番組 [編集]
BSスペシャル 渥美清の寅さん勤続25年(NHK-BS2、1995年1月15日)
クローズアップ現代 寅さんの60日(NHK総合、1995年12月11日)
本作をもとにしたキャラクターが登場する作品 [編集]
フーセンのドラ太郎 - 『男はつらいよ』のアニメ版ということで、同作品のキャラクターを猫と鼠が演じた1981年放映のアニメーション。
ゲゲゲの鬼太郎 - ねずみ男が、寅さんと同様の格好をして放浪する回がある。その際、寅さんのおなじみのセリフをこぼす。
ガンバの冒険(11話 ペテン師トラゴローを追え) - 寅さんをモチーフにしている「トラゴロー」というキャラクターが登場。
きらりん☆レボリューション - 寅さんに似た格好をしている「ふーさん」が登場している。
ドラえもん - 寅さんをモチーフにしたと思われる虎猫ロボットの「トラえもん」が登場している。またドラえもんも作中で、のび太と喧嘩した際には度々「それをいったらおしまいだよ」と言っている。
地獄先生ぬ〜べ〜 - 原作のエピソードで、マウスが増殖し誰も手がつけられなくなるという話で、そのマウスを売る男が寅次郎をモチーフにしている。ただ、諸悪の根源という意味合いから、寅さんというよりも悪魔じみた感じで描かれている。
かいけつゾロリ - 寅さん、さくら、おいちゃん、おばちゃん、たこ社長を意識したキャラクターが89話に登場した。
魔弾戦記リュウケンドー - 随所に本作へのオマージュが散りばめられており、特に登場人物の一人「ガジロー」は、佐藤蛾次郎が演じた源公そのままのキャラクターで、佐藤の実子・佐藤亮太が演じる。
サラリーマンNEO(NHK) - キャラシリーズに「渥美トラ次郎」という虎模様の猫がいる。これは渥美と寅次郎をかけたものである。
超力戦隊オーレンジャー-第43話に登場したマシン獣「バラペテン」は、人間体として寅さんに似た「フーテンの熊」に化けることができる。
炎神戦隊ゴーオンジャー - 第21話に登場した「フーセンバンキ」は、公式ホームページによるとフーテンとフーセンをかけており、寅さんに似た言動や帽子、カバンを持っている。その声も、寅さんの物まね芸人である原一平が担当している。
ぜんまいざむらい - 寅さんの名前を意識した「どろぼう猫の虎次郎」という猫が登場した。(虎も猫科の動物で猫に虎とつける話は本作の映画にもある)
天才てれびくんMAX- 天てれドラマ「ダーリンは11さい?!」の最終話に登場した的屋のかっこう及び口上は明らかに寅さんのものである。
脚注 [編集]
1.^ 『寅次郎忘れな草』、『寅次郎相合い傘』、『寅次郎ハイビスカスの花』の3作
2.^ 2007年1月8日放送芸能人雑学王決定戦より
3.^ 渥美清没後10年の命日を記念して掲載された2006年8月4日の北日本新聞のコラム「天地人」より
4.^ 2007年1月6日NHK放送「寅さんレビュー」
5.^ 男はつらいよ 全巻BOX 特典DVD「寅さんが遺してくれたもの」
6.^ 作詞家・星野哲郎氏が語る「男はつらいよ」(インターネット・アーカイブのミラー)
関連項目 [編集]
柴又帝釈天
啖呵売
的屋
虹をつかむ男
フーセンのドラ太郎
松竹
松竹大船撮影所
釣りバカ日誌 - 『男はつらいよ』以後の松竹を代表するシリーズ
野口よういち - 寅さんの格好、ものまねにより柴又のガイドをしている芸人。
外部リンク [編集]
公式サイト [編集]
寅さんの世界 - 松竹
関連サイト [編集]
柴又帝釈天門前 とらやごく初期の頃、撮影に使った和菓子店(撮影当時の屋号は“柴又屋”)
高木屋のホームページ映画撮影に積極的に協力していただんご屋
葛飾柴又寅さん記念館
江戸川寅次郎国土交通省関東地方整備局江戸川河川事務所
渥美清こもろ寅さん会館 (長野県小諸市)
研究サイト [編集]
さすらいの月虎
TV版寅さんサイト通信
男はつらいよ覚え書ノート
寅さんのいる町〜葛飾柴又をゆく〜
[隠す]表・話・編・歴男はつらいよ
1-12作 男はつらいよ - 続・男はつらいよ - フーテンの寅 - 新・男はつらいよ - 望郷篇 - 純情篇 - 奮闘篇 - 寅次郎恋歌 - 柴又慕情 - 寅次郎夢枕 - 寅次郎忘れな草 - 私の寅さん
13-24作 寅次郎恋やつれ - 寅次郎子守唄 - 寅次郎相合い傘 - 葛飾立志篇 - 寅次郎夕焼け小焼け - 寅次郎純情詩集 - 寅次郎と殿様 - 寅次郎頑張れ! - 寅次郎わが道をゆく - 噂の寅次郎 - 翔んでる寅次郎 - 寅次郎春の夢
25-36作 寅次郎ハイビスカスの花 - 寅次郎かもめ歌 - 浪花の恋の寅次郎 - 寅次郎紙風船 - 寅次郎あじさいの恋 - 花も嵐も寅次郎 - 旅と女と寅次郎 - 口笛を吹く寅次郎 - 夜霧にむせぶ寅次郎 - 寅次郎真実一路 - 寅次郎恋愛塾 - 柴又より愛をこめて
37-48作・特別編 幸福の青い鳥 - 知床慕情 - 寅次郎物語 - 寅次郎サラダ記念日 - 寅次郎心の旅路 - ぼくの伯父さん - 寅次郎の休日 - 寅次郎の告白 - 寅次郎の青春 - 寅次郎の縁談 - 拝啓車寅次郎様 - 寅次郎紅の花 - ハイビスカスの花 特別篇
関連項目 松竹 - 渥美清 - 山田洋次 - 柴又 - 柴又帝釈天
「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B7%E3%81%AF%E3%81%A4%E3%82%89%E3%81%84%E3%82%88」より作成
カテゴリ: 雑多な内容を箇条書きした節のある記事 - 2009年7月 | 出典を必要とする記事 | 男はつらいよシリーズ | フジテレビのテレビドラマ | 1968年のテレビドラマ | 1969年の映画 | 京都府を舞台とした作品 | 日本クラウンのシングル | 1970年のシングル表示
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この項目では、「男はつらいよ」全般について記述しています。映画第一作目については「男はつらいよ (映画)」を、各作品の解説については「男はつらいよ#映画シリーズ一覧」をご覧ください。
京成金町線柴又駅前にたつ、車寅次郎の銅像『男はつらいよ』(おとこはつらいよ)は、渥美清主演、山田洋次原作・監督(一部作品除く)のテレビドラマおよび映画である。テキ屋稼業を生業とする「フーテンの寅」こと車寅次郎が、何かの拍子に故郷の葛飾柴又に戻ってきては何かと大騒動を起こす人情喜劇シリーズ。毎回旅先で出会った「マドンナ」に惚れつつも、失恋するか身を引くかして成就しない寅次郎の恋愛模様を、日本各地の美しい風景を背景に描く。主人公の名前から、作品自体も「寅さん」と呼ばれることが多い。
目次 [非表示]
1 概要
2 映画概要
3 エピソード
4 登場人物
4.1 レギュラー
4.2 準レギュラー
4.3 サブキャラクター
5 映画シリーズ一覧
5.1 未撮影作品
5.2 シリーズのロケ地
5.3 寅次郎花へんろと虹をつかむ男
5.4 寅次郎ハイビスカスの花 特別篇
6 有名なシーン・セリフ
6.1 有名なシーン
6.2 有名なセリフ
7 主題歌
8 テレビ版
8.1 経緯
8.2 放送とその後
8.3 映像の現存状況
8.4 出演者
9 アニメ版
9.1 キャスト
9.2 スタッフ
10 関連番組
11 本作をもとにしたキャラクターが登場する作品
12 脚注
13 関連項目
14 外部リンク
14.1 公式サイト
14.2 関連サイト
14.3 研究サイト
概要 [編集]
1968年 - 1969年に、フジテレビが制作・放送したテレビドラマが最初である。このテレビ版のヒット、最終回で寅次郎がハブを取りに行こうとして、逆にハブにやられ、毒が回り死んだと言う結末が視聴者から多数の抗議が殺到して、映画化につながった。
映画シリーズは、松竹によって1969年(昭和44年)から1995年(平成7年)までに全48作が、1997年(平成9年)に特別編1本が製作された。なお、第1作は1969年6月には完成していたらしいが、一時お蔵入りとなり、8月になってから上映された。
山田洋次が全48作の原作・脚本を担当。第3作、第4作を除く46作を自ら監督した。第3作の監督は森崎東、第4作は小林俊一である。第5作を山田が再び監督し、シリーズを完結させる予定であったが、あまりのヒットに続編の制作が決定した。
以降、全作品がヒットして松竹のドル箱シリーズとなり、30作を超えた時点で世界最長の映画シリーズとしてギネスブック国際版にも認定された。ただしこれは作品数においてであり、年数では『ゴジラ』シリーズの方が長い。渥美の死去により、1995年に公開された第48作『寅次郎紅の花』をもって幕を閉じた。その後、ファンからのラブコールが多かったとの事で、『寅次郎ハイビスカスの花』を再編集し、新撮影分を加えた『寅次郎ハイビスカスの花 特別篇』が1997年に公開された。また渥美の死により、第49作および本来の最終作となるはずだった第50作が未撮影になった。
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注意:以降の記述で物語・作品・登場人物に関する核心部分が明かされています。
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映画概要 [編集]
男はつらいよ
渥美清演じる車寅次郎
監督 山田洋次(一部作品除く)
出演者 渥美清、倍賞千恵子、前田吟、
太宰久雄、笠智衆、佐藤蛾次郎など
配給 松竹
上映時間 1969年 - 1995年
製作国 日本
言語 日本語
表・話・編・歴
主人公、「フーテンの寅」こと車寅次郎は、父親、車平造が芸者、菊との間に作った子供。実母の出奔後父親のもとに引き取られたが、16歳の時に父親と大ゲンカをして家を飛び出したという設定。第1作は、テキ屋稼業で日本全国を渡り歩く渡世人となった寅次郎が家出から20年後突然、倍賞千恵子演じる腹違いの妹さくらと叔父夫婦が住む、生まれ故郷の東京都葛飾区柴又・柴又帝釈天の門前にある草団子屋に戻ってくるところから始まる。
シリーズのパターンは寅次郎が旅先や柴又で出会うマドンナに惚れてしまい、マドンナも寅次郎に対して好意を抱くが、それは多くの場合恋愛感情ではなく、最後にはマドンナの恋人が現れて寅次郎は振られてしまう。そして落ち込んだ寅次郎が正月前、もしくは盆前(即ち正月、盆がテキ屋は書き入れ時)に再びテキ屋稼業の旅に出て行くという結末で一貫している。
『寅次郎夢枕』の千代や、いわゆる「リリー三部作」[1]のリリーなどのように、寅次郎に恋愛感情を持ったマドンナもいたが、この場合は、寅次郎の方が逃げ腰になり、自ら身を引く形となっている。また、マドンナと「うまくいっている」と誤解している時点で、寅次郎が柴又に帰り、さくら達にマドンナとの楽しい体験を話す場面は、渥美清の語りは落語家のような名調子で、スタッフやキャスト達は「寅のアリア」と呼んでいた。
第42作以降の4作品は、寅次郎の相手となる通常のマドンナに加え、さくらの息子満男(吉岡秀隆)が思いを寄せる泉(後藤久美子)がマドンナとして登場するようになり、寅次郎が満男のコーチ役にまわる場面が多くなっている。渥美が病気になり快活な演技ができなくなったため、満男を主役にしたサブストーリーを作成、満男の恋の相手が必要になったため、当初は予定されてなかった泉が登場することとなる。山田監督の話によれば第49作で泉と満男を結婚させようと考えていたらしいが、渥美の死去により幻になった(『紅の花』で泉の結婚式を妨害し、結婚式を中断させたのは結婚への伏線であったとも考えられる)。
柴又帝釈天レギュラーとして登場する人物は、寅次郎、さくらのほか、さくらの夫・諏訪博、草団子店を経営する叔父・竜造と叔母・つね、博が勤務する印刷会社「朝日印刷所(第一作、第二作のみ共栄印刷)」の社長で寅次郎の幼馴染・タコ社長こと桂梅太郎(第六作のみ堤梅太郎)、帝釈天の御前さま、寺男で寅次郎の舎弟・源公などがいた。マドンナとして複数回登場した女優もいるが、リリー、泉、歌子(吉永小百合)以外は、別人の役で出演している。おいちゃんこと叔父・竜造役は初代が森川信、2代目は松村達雄、3代目は下條正巳が演じた。その他、毎回役柄は違うものの、サブキャラクターとしてレギュラー出演する俳優も多く存在した。
青年時代に、実際にテキ屋体験がある渥美ならではの見事な口上も、ファンの楽しみであった。また、このシリーズは原則としてお盆と正月の年二回公開されたが、お盆公開の映画の春から夏への旅は、南から北へ、正月公開の秋から冬への旅は、北から南へ旅することが多かった。画面に映し出される日本各地の懐かしい風景が、シリーズの魅力の一つでもある。
なお、第48作まで一貫してエンドロール表示は設定されず、出演キャストや製作スタッフ等の字幕表示はオープニングでされた。
エピソード [編集]
この記事に雑多な内容を羅列した節があります。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか整理・除去する必要があります。(2009年7月貼付)
当初は興行成績よりも評価が優先している傾向があり、不動の大ヒットシリーズとなったのは第5作あたりからである。
御前様役を演じていた笠智衆は、第45作終了直後に亡くなっている。しかし、御前様の娘・冬子役としてかつて出演していた光本幸子が第46作で久々に出演、さくらと冬子が二人で御前様の近況の会話をする描写があるほか、さくらが源公に「御前様お元気?」と聞くシーンもあり、笠が亡くなっても、御前様は健在であるという設定になっている。
オープニングテーマの前に始まる、寅次郎が旅先で見る様々な夢は、全撮影の最後に撮影されている。夢のシーンは『科学者の寅次郎が怪獣を倒す』等の本編とは全く関係のない話が多い。なお、出演者には直前まで内容は秘密にされていたという。
山田洋次が柴又を知ったのは、『下町の太陽』を監督する際、作家の早乙女勝元に教授してもらうために早乙女宅を訪問。早乙女宅からすぐそばにあった帝釈天を、案内されたのが切っ掛けである。
フジテレビで、登場人物を動物に置き換えたテレビアニメ版『フーセンのドラ太郎』が放送された。また、TBSでもテレビアニメ版が放送され、映画シリーズに出演したことがある岡本茉利がさくら役になっている。それぞれ制作会社も制作時期も異なり、関連性はない。
源公役の佐藤蛾次郎は、第8作のみ、交通事故にあったため出演していない。
寅次郎の名は、映画監督の斎藤寅次郎にちなむ。
映画の舞台に使用した柴又の団子屋が、実際に「とらや」に屋号を変更した。このため、作中の「とらや」の屋号は、第40作から「くるまや」に変わる。
柴又の店舗で撮影されていたのは第4作までで、それ以降は松竹大船撮影所のセットである。
出川哲朗は若手時代に、第37作、第39作の2本にチョイ役で出演している。第37作では台詞も一言だけある。本人のコメントによると、撮影現場で渥美清に「君は普段何をしてるのかね?」と尋ねられたという。
第46作には、本作と同時上映として製作されていた『釣りバカ日誌』の主人公である、西田敏行演じるハマちゃんがカメオ出演している。釣具を背負ったハマちゃんが釣りに向かう途中、くるまやの前を通って、おばちゃんと会話を交わすというもので、松竹の二大シリーズ間でスター・システムを取り入れている。
2001年(平成13年)8月4日、奇しくも渥美清の5回目の命日に、柴又八幡神社古墳において帽子や顔の輪郭などが「寅さん」にそっくりの埴輪が出土した。現在は複製が寅さん記念館に展示してある。このことは、フジテレビのバラエティ番組『トリビアの泉』でも紹介された。考古学者によると、この埴輪は6世紀のものであるといい、この埴輪を見た山田監督は驚いたという。新聞で紹介された時は「君は寅さんのご先祖様かい?」という見出しがついた。
さくらと博が住む川沿いの家は、毎回同じではなく変わっている。
正月映画としての公開が毎年の恒例だったことから、「寅さん」は冬の季語にもなっている[2]。
長野県小諸市には、寅さん会館という、寅さんの記念館がある。
京成電鉄は初回より撮影に協力。日本で初めて鉄道施設内での撮影を可能とした。
渥美の死去により、2代目寅さんの誕生が噂され、片岡鶴太郎や西田敏行らが候補とされた。これは噂の域にとどまらず、実際に報道もされたが、「寅さん=渥美清」という山田監督の意向もあってお蔵入りとなっている。1996年・1997年には、本シリーズに代わる新たな松竹正月映画として、西田主演、山田監督、寅さんファミリーと呼ばれる常連出演者勢ぞろい、男はつらいよとほぼ同じスタッフが参加した『虹をつかむ男』が公開された。しかし。その後の松竹の看板正月映画は、1988年から2009年まで続いた、西田主演で山田洋次が脚本家としても携わる『釣りバカ日誌』シリーズに受け継がれることとなる。
全48作中9作がキネマ旬報・ベストテンに入選している。同ベストテンでは、『仁義なき戦い』等の例外を除くと、プログラムピクチャーシリーズ(『駅前』『社長』『若大将』など)やその他時代劇も含め、シリーズ物の映画はほとんど無視される傾向がある。それから考えると、評価の高さが伺える。
特に、ブラジルのサンパウロ市にある日本人街「リベルダージ」の映画館では、1990年代に至るまで最新作が毎作上映されていた。なお、ブラジルの法律で「8歳以上指定作品」となっていた。
また、同じく1990年代までは日本航空の機内で最新作が上映されていた。
北朝鮮の金正日総書記がファンであるとされる。
登場人物 [編集]
レギュラー [編集]
車寅次郎:渥美清
主人公。職業は的屋で、各地を回って物を売っている。
諏訪さくら:倍賞千恵子
寅次郎の腹違いの妹。諏訪博と結婚して満男を産む。
諏訪博:前田吟
さくらの夫。満男の父。
車竜造(おいちゃん):森川信(第1作 - 第8作)→松村達雄(第9作 - 第13作)→下條正巳(第14作 - 第48作)
車つね(おばちゃん):三崎千恵子
諏訪満男:中村はやと(第1作 - 第8作、第10作 - 第26作)沖田康浩(第9作)→吉岡秀隆(第27作 - 第48作)
さくらの長男で、寅次郎からは甥にあたる。浪人生活を経て、城東大学に入学、卒業した。浪人中に、後藤久美子演じる及川泉に恋をする。晩年のシリーズでは寅次郎より満男と泉の関係にスポットを当てた作品も見られた。
桂梅太郎(社長・タコ社長):太宰久雄
御前様:笠智衆(第1作 - 第45作)
源公:佐藤蛾次郎(第8作を除く)
準レギュラー [編集]
川又登(寅次郎の舎弟):津坂匡章(現・秋野太作)(第1作 - 第5作、第9作 - 第10作、第33作)
坪内冬子(御前様の娘/第1作のマドンナ):光本幸子(第1作、第7作、第46作)
諏訪飈一郎(博の父):志村喬(第1作、第8作、第22作)
リリー(マドンナ):浅丘ルリ子(第11作、第15作、第25作、第48作)
お菊(寅次郎の母):ミヤコ蝶々(第2作、第7作)
桂あけみ(タコ社長の娘):美保純(第33作 - 第39作)
及川泉(満男の交際相手/マドンナ):後藤久美子(第42作 - 第45作、第48作)
及川礼子(泉の母):夏木マリ(第42作 - 第45作、第48作)
三平(くるまやの店員):北山雅康(第40作 - 第48作)
加代(くるまやの店員):鈴木美恵(第46作 - 第48作)
サブキャラクター [編集]
関敬六(シリーズ後半からは、寅のテキヤ仲間・ポンシュウ役)
桜井センリ(寅のテキヤ仲間など)
松村達雄(おいちゃん役の他に医者、定時制高校の教師、お寺の住職、教授役など)
米倉斉加年(交番の巡査、寅の恋敵役など)
笹野高史(足の速さを見込まれて・こそ泥、役所の事務員ほか多数)
すまけい(船長役など多数)
犬塚弘(同級生役など)
イッセー尾形(医師、車掌役など)
マキノ佐代子(朝日印刷所事務員役など)
谷よしの(初期はご近所さんが多く、他に寅さんが泊る旅館の仲居さん、地方の老婆役)
吉田義夫(旅の一座の座長役など)
岡本茉利(旅の一座の大空小百合役など)
あき竹城
津嘉山正種(オープニングに登場する絵描き役など)
石井均
アパッチけん
神戸浩
寺尾聰(警察官、泉の父役など)
石倉三郎
大滝秀治(寺の住職、古書店主役など)
映画シリーズ一覧 [編集]
作数 公開 タイトル マドンナ・共演者 ロケ地
1 1969年8月27日 男はつらいよ 光本幸子, 志村喬 京都府、奈良県
2 1969年11月15日 続・男はつらいよ 佐藤オリエ, 山崎努 京都府、三重県(柘植)
3 1970年1月15日 男はつらいよ フーテンの寅 新珠三千代, 河原崎建三 三重県(湯の山温泉)、鹿児島県(種子島)
4 1970年2月27日 新・男はつらいよ 栗原小巻, 横内正 愛知県(名古屋市)
5 1970年8月25日 男はつらいよ 望郷篇 長山藍子 千葉県(浦安市)、北海道(札幌市、小樽市)
6 1971年1月15日 男はつらいよ 純情篇 若尾文子 長崎県(長崎市、福江島)、静岡県(浜名湖)
7 1971年4月28日 男はつらいよ 奮闘篇 榊原るみ, ミヤコ蝶々, 田中邦衛 新潟県(越後広瀬)、静岡県(沼津市)、青森県(鰺ヶ沢町、弘前市)
8 1971年12月29日 男はつらいよ 寅次郎恋歌 池内淳子, 志村喬 岡山県(備中高梁)
9 1972年8月5日 男はつらいよ 柴又慕情 吉永小百合, 宮口精二 石川県(金沢市)、福井県(東尋坊)
10 1972年12月29日 男はつらいよ 寅次郎夢枕 田中絹代, 八千草薫 山梨県(甲府市)、長野県(奈良井)
11 1973年8月4日 男はつらいよ 寅次郎忘れな草 浅丘ルリ子 北海道(網走)
12 1973年12月26日 男はつらいよ 私の寅さん 岸惠子, 前田武彦 熊本県(天草、阿蘇)、大分県(別府)
13 1974年8月3日 男はつらいよ 寅次郎恋やつれ 吉永小百合, 宮口精二 島根県(津和野、温泉津)
14 1974年12月28日 男はつらいよ 寅次郎子守唄 十朱幸代 佐賀県(唐津市)、群馬県(磯部温泉)
15 1975年8月2日 男はつらいよ 寅次郎相合い傘 浅丘ルリ子, 船越英二 青森県(青森市)、北海道(函館市、長万部町、札幌市、小樽市)
16 1975年12月27日 男はつらいよ 葛飾立志篇 樫山文枝, 小林桂樹 山形県(寒河江市)、静岡県
17 1976年7月24日 男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け
(仮タイトルは『男はつらいよ 柴又の伊達男』) 太地喜和子, 宇野重吉 兵庫県(龍野市)
18 1976年12月25日 男はつらいよ 寅次郎純情詩集 京マチ子, 檀ふみ 長野県(別所温泉)、新潟県(六日町)
19 1977年8月6日 男はつらいよ 寅次郎と殿様 真野響子, 嵐寛寿郎, 平田昭彦 愛媛県(大洲市)
20 1977年12月24日 男はつらいよ 寅次郎頑張れ! 藤村志保, 中村雅俊, 大竹しのぶ 長崎県(平戸島)
21 1978年8月5日 男はつらいよ 寅次郎わが道をゆく 木の実ナナ, 武田鉄矢 熊本県(田の原温泉)
22 1978年12月27日 男はつらいよ 噂の寅次郎 大原麗子, 志村喬 長野県(木曽福島)、静岡県(大井川)
23 1979年8月4日 男はつらいよ 翔んでる寅次郎 木暮実千代, 桃井かおり 北海道(支笏湖)
24 1979年12月28日 男はつらいよ 寅次郎春の夢 香川京子 和歌山県、京都府、アメリカ合衆国(アリゾナ州)
25 1980年8月2日 男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花 浅丘ルリ子 沖縄県、長野県(軽井沢)
26 1980年12月27日 男はつらいよ 寅次郎かもめ歌 伊藤蘭, 米倉斉加年 北海道(奥尻島・江差町)、徳島県
27 1981年8月8日 男はつらいよ 浪花の恋の寅次郎 松坂慶子 大阪府、瀬戸内、長崎県(対馬)
28 1981年12月28日 男はつらいよ 寅次郎紙風船 音無美紀子 福岡県(秋月)、大分県(夜明)、静岡県(焼津市)
29 1982年8月7日 男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋 いしだあゆみ, 片岡仁左衛門 京都府(京都市、伊根)、長野県(信濃大町)、神奈川県(鎌倉市)、滋賀県(彦根市)
30 1982年12月28日 男はつらいよ 花も嵐も寅次郎 田中裕子, 沢田研二 大分県(湯平温泉、別府鉄輪温泉、由布市)
31 1983年8月6日 男はつらいよ 旅と女と寅次郎 都はるみ 新潟県(佐渡市、新潟市、支笏湖)
32 1983年12月28日 男はつらいよ 口笛を吹く寅次郎 竹下景子, 長門勇 岡山県(備中高梁)、広島県(因島)
33 1984年8月4日 男はつらいよ 夜霧にむせぶ寅次郎 中原理恵, 渡瀬恒彦 岩手県(盛岡市)、北海道(釧路市、根室市、中標津町、養老牛温泉)
34 1984年12月28日 男はつらいよ 寅次郎真実一路 大原麗子, 辰巳柳太郎, 津島恵子, 米倉斉加年 鹿児島県(枕崎市・指宿市)、茨城県(牛久沼)
35 1985年8月3日 男はつらいよ 寅次郎恋愛塾 樋口可南子, 平田満 長崎県(上五島)、天草市、秋田県(鹿角市)
36 1985年12月28日 男はつらいよ 柴又より愛をこめて 栗原小巻 静岡県(下田)、東京都(式根島)、静岡県(浜名湖)、福島県(会津若松市)
37 1986年12月20日 男はつらいよ 幸福の青い鳥 志穂美悦子, 長渕剛 福岡県(筑豊)、山口県(萩市、下関市)
38 1987年8月5日 男はつらいよ 知床慕情 竹下景子, 三船敏郎 北海道(斜里町)、岐阜県(岐阜市)
39 1987年12月26日 男はつらいよ 寅次郎物語 五月みどり, 秋吉久美子 奈良県(吉野)、和歌山県、三重県(志摩市、伊勢市二見町)
40 1988年12月24日 男はつらいよ 寅次郎サラダ記念日 奈良岡朋子, 三田佳子 長野県(小諸市、松本市)、長崎県(島原市)
41 1989年8月5日 男はつらいよ 寅次郎心の旅路 竹下景子, 柄本明 オーストリア(ウィーン)、オランダ・(アムステルダム・スキポール国際空港)、宮城県(松島)、石川県
42 1989年12月27日 男はつらいよ ぼくの伯父さん 檀ふみ, 後藤久美子 佐賀県(佐賀市、古湯温泉、吉野ヶ里)、茨城県(袋田)
43 1990年12月22日 男はつらいよ 寅次郎の休日 夏木マリ, 後藤久美子 大分県(日田市)、愛知県(名古屋市)
44 1991年12月23日 男はつらいよ 寅次郎の告白 吉田日出子, 後藤久美子 鳥取県、岐阜県(奥恵那峡・蛭川)
45 1992年12月26日 男はつらいよ 寅次郎の青春 風吹ジュン, 後藤久美子 宮崎県(油津)、岐阜県(下呂温泉)
46 1993年12月25日 男はつらいよ 寅次郎の縁談 松坂慶子, 島田正吾 香川県(琴平・志々島・高見島)、栃木県(烏山)
47 1994年12月23日 男はつらいよ 拝啓車寅次郎様 かたせ梨乃, 牧瀬里穂 新潟県(上越市)、滋賀県(長浜、西浅井町)、神奈川県(鎌倉市)、長崎県(雲仙)
48 1995年12月23日 男はつらいよ 寅次郎紅の花 浅丘ルリ子, 後藤久美子 鹿児島県(奄美大島)、岡山県(滝尾・津山)、兵庫県(神戸市)
特別編 1997年11月22日 男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花 特別篇 浅丘ルリ子 沖縄県
未撮影作品 [編集]
1996年12月28日公開予定 『男はつらいよ 寅次郎花へんろ』(マドンナ:田中裕子 ロケ地:高知県)
1997年12月公開予定 タイトル不明(マドンナ:黒柳徹子[3] ロケ地:未定)
山田洋次は、最終作で寅次郎が幼稚園の用務員になり、子供たちとかくれんぼをしている最中に息を引き取り、町の人が思い出のために地蔵を作るという構想を早くから持っていた。このことは1990年8月25日に放送されたTBS『クイズダービー』(第754回)の第7問(三択問題)で出題されており、遅くとも同年時点でこの構想があったことがわかる(正解は1枠の北野大、3枠のはらたいら、5枠ゲストの山崎浩子)。なお、本シリーズにマドンナとして出演した実績がある、レギュラー解答者の竹下景子は、2枠の井森美幸と同様に「温泉のストリップ小屋(で眠るように死んでしまう)」と書いて不正解だった。
シリーズのロケ地 [編集]
『男はつらいよ』シリーズの撮影はほぼ全国で行われているが、高知県と富山県と埼玉県では撮影が行われていない(2008年12月5日放送のテレビ東京『日本のビックリ新発見!頭が良くなるヘンな地図』より)。 ただし、高知県では第49作の撮影が決定していた。また、セリフ上では第8作で高知へ行ったということになっている。
高知県と富山県では後に、『男はつらいよ」以後松竹の看板として国民的映画シリーズになった『釣りバカ日誌』において、連続して撮影が行われた。
海外撮影はアメリカ(24作)、オーストリア(41作)で行われた。
寅次郎花へんろと虹をつかむ男 [編集]
シリーズ第49作のマドンナは田中裕子で、その兄役で西田敏行が出演の予定だった。物語は、妹が中絶した子供の父親が寅さんかと兄が疑い、それから寅さんがこの兄妹の後見人になる、また泉と満男を結婚させる、というものだったらしい。公開日は1996年12月28日と決まり、秋からの撮影を控えていた。「渥美清の伝言」によると、1996年6月28日に秋から始まる撮影に向けて意欲を燃やしていたが、渥美の死去により実現しなかった。
公開予定の1996年12月28日にほぼ同じキャスト、ロケ地で『虹をつかむ男』が渥美清への追憶映画として公開された。倍賞千恵子、前田吟、吉岡秀隆の三人はこの映画でも親子役である。渥美清もCGではあるが、1シーンだけ登場している。
寅次郎ハイビスカスの花 特別篇 [編集]
1997年に公開された『寅次郎ハイビスカスの花 特別篇』は、根強い寅さん人気に応える形で作られた作品である。満男が寅さんを回想する内容で、タイトルになっている第25作『寅次郎ハイビスカスの花』だけではなく、第11作『寅次郎忘れな草』、第15作『寅次郎相合い傘』のシーンが使われている。映像技術の進歩によって製作できた作品とも言え、満男が見た幻としてCGの寅さんが登場した。主題歌を八代亜紀が歌っている。
有名なシーン・セリフ [編集]
有名なシーン [編集]
「寅のアリア」(第15作・男はつらいよ 寅次郎相合い傘)
リリーをキャバレーまで送った寅次郎は、そのあまりの環境の劣悪さに驚き、肩を落としてとらやに帰って来る。「俺にふんだんに銭があったら・・・」寅次郎は大ステージで歌い上げるリリーの姿を想像し、臨場感たっぷりにさくらたちへ語って聞かせる。寅次郎の切ないまでの愛情が渥美清の名演技によって表現されている。山田洋次によれば[4]、後日リリー役の浅丘ルリ子がこのシーンを見て涙を流していたという。このシーンに限らず、渥美清独特の語り口によってなされる“一人語り”はスタッフの間から「寅のアリア」と呼ばれていた。
「メロン騒動」(第15作・男はつらいよ 寅次郎相合い傘)
寅次郎の世話になった男から高級メロンをもらったとらやの面々。切り分けて食べ始めたところへ寅次郎が外出から戻ってくる。寅次郎の分をうっかり勘定に入れ忘れていたことに気付いた一同は、大慌てで場を取り繕うとする。そんなとらやの人々を心が冷たいと激しくなじる寅次郎だったが、リリーが核心を突いた言葉で一喝してしまう。
「ぼたんの涙」(第17作・男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け)
芸者のぼたんが200万円の大金を騙し取られるが、法の盲点を突いたやり口になす術が見つからない。悲嘆に暮れるぼたんを横目に寅次郎はすっと立ち上がり、優しく別れの言葉を告げてとらやを飛び出していく。相手のところへ殴り込みに行こうとする寅次郎の捨て身の愛情に触れたぼたんは、幸福の涙を流す。
有名なセリフ [編集]
男はつらいよシリーズには、繰り返し使用されるセリフが多数ある。以下はその代表例である。
「それを言っちゃあお仕舞いよ」
喧嘩の際においちゃんが言う「出てってくれ」に対して寅次郎が返すセリフ。第1作で渥美清が咄嗟に放ってしまったアドリブだったが、セリフの持つ意味に感心した山田洋次がその後脚本に多用するようになった。[5]
「相変わらず馬鹿か?」
柴又に帰ってきた寅次郎が、備後屋などの顔なじみと交わす挨拶。これも、もともとは渥美清のアドリブであった。
「結構毛だらけ猫灰だらけ」
商売の啖呵から派生している、寅次郎の口癖。投げやりになったり、すねている際などに吐くこともある。
主題歌 [編集]
男はつらいよ
渥美清 の シングル
B面 チンガラホケキョーの唄
リリース 1970年2月10日
ジャンル 歌謡曲
レーベル 日本クラウン
渥美清 シングル 年表
オー大和魂
(1968年) 男はつらいよ
(1970年) ごめんくださいお訪ねします
(1972年)
同名の主題歌レコードは1970年2月に日本クラウンから発売され、シングルで38万枚のセールスを記録した[6]。売り上げこそ平凡だが、映画の主題歌としては息の長い曲となった。
もともとは、後述するテレビ版の主題歌であり、当初の歌い出しは、妹が嫁に行けない事を嘆く内容だった。しかし、妹さくらが結婚したため、自分がやくざ者だと自嘲する歌詞に変更された。
第49作『男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花 特別篇』では、八代亜紀が主題歌を歌っていた。沢知恵がアルバム『いいうたいろいろ2』の中でカバーしている。
『男はつらいよ』
作詞:星野哲郎
作曲:山本直純
歌:渥美清
テレビ版 [編集]
テレビドラマ「男はつらいよ」
ジャンル テレビドラマ
放送時間 木曜日22:00~22:45(45分)
放送期間 1968年10月3日 - 1969年3月27日(26回)
放送国 日本
制作局 フジテレビジョン、高島事務所
演出 小林俊一
脚本 山田洋次、稲垣俊、森崎東
プロデューサー 小林俊一、白川文造
出演者 渥美清、長山藍子ほか
オープニング 「男はつらいよ」渥美清
ドラマ
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表・話・編・歴
映画第1作より前に、フジテレビ系列で山田洋次・稲垣俊・森崎東脚本の連続テレビドラマ『男はつらいよ』が放送された。1968年10月3日から1969年3月27日までの半年間、22時00分 - 22時45分に放送された。全26回。提供はいすゞ自動車、日本石油(現・新日本石油)、ニチバン。
経緯 [編集]
1966年にフジテレビで放送されていた、渥美清の連続テレビドラマ『おもろい夫婦』が大ヒットした。これをきっかけに、昭和40年代の同局では、渥美の連続ドラマが毎年のように放送されていた。本作は、フジの渥美ドラマ第3作にあたる。
制作は、フジテレビと高島事務所(当時の渥美が所属していた芸能事務所)。テレビ版は松竹の制作ではない。企画と演出はフジテレビ制作部のディレクター兼プロデューサー(当時)の小林俊一。同局の編成部では白川文造が係わった。
企画段階でのタイトルは『愚兄賢妹』という番組名だったが、フジテレビの営業から「愚兄賢妹では堅苦しくて番組として売り難い」と言われたため、タイトルを変更することになる。そして、北島三郎が唄っていた『意地のすじがね』の中にあった「つらいもんだぜ男とは」という歌詞をヒントに、小林俊一が『男はつらいよ』と命名した。山田は当時、この変更を快く思っていなかった[要出典]。
他にも、同時期にTBS系列で放映されていた渥美清主演のテレビ映画『泣いてたまるか』の、最終回のタイトルが「男はつらい」であり、この回の脚本を山田洋次が書いていたことも決め手となった。タイトル変更の経緯から、『意地のすじがね』の作詞者でもあった星野哲郎に、主題歌の作詞が依頼されることになる。
放送とその後 [編集]
船山馨原作のベストセラー小説をドラマ化した『石狩平野』が不調で、1年の放送期間が半年に短縮された。これにより、秋の番組編成に穴が空いてしまったため、本作の放送時間が木曜夜10時となる。今でこそ木曜夜10時はフジの独擅場だが、当時のこの時間帯は他局が圧倒しており、苦戦のフジは同局の渥美ドラマの人気で打破したい思惑もあった。
放送開始当初こそ視聴率は苦戦を続けたが、回数を重ねる毎に少しずつ上昇していき、番組終了までに最高で20%台を達するまでになった。視聴率としては高いとは言えないが、当時の状況を思えば大健闘の数字である。このため、当初は3ヶ月・13回の放送予定を、半年・26回に延長した。
最終回で寅次郎は、ハブ狩りで一儲けしようと奄美大島に出かけるが、そのハブに噛まれて死んでしまう。寅次郎を死なせたことで、視聴者からはテレビ局に抗議の電話が殺到、これが映画化に繋がった。しかし、当時はまだテレビ番組の地位が、映画から見てかなり低く見られていた時代であった。松竹は、テレビ番組の映画化に難色を示していたが、山田洋次と松竹プロデューサー上村力の説得に折れる形で映画化された。
映像の現存状況 [編集]
テレビ版の映像は、フジテレビのライブラリーには第1回と最終回だけしか現存していない。その理由としては、以下の事柄も関係している。
当時のVTRの規格が2インチで、機器・テープ共に高価だった。
当時は著作権法などの絡みで、番組の資料保存が制約されていた。
番組保存の概念が希薄だったことや、白黒番組が二次使用で商売になることは想定しなかった。
そのため当時、ビデオテープは放送後に使いまわされるのが普通であった。現在、全話の再放送および全話収録の完全版映像ソフトの製作・発売は不可能とされている。
現存する第1回と最終回については、1997年2月にフジテレビよりVHSで、2008年8月に松竹よりDVDでソフト化された。これらのビデオソフトでは、欠落した回も写真で紹介するほか、スタッフによる企画の誕生などのエピソードが収録されている。また、横浜市にある放送ライブラリーでは、第1回を閲覧することができる。
出演者 [編集]
車寅次郎:渥美清
さくら(櫻):長山藍子
車竜造(おいちゃん):森川信
車つね(おばちゃん):杉山とく子
雄二郎(※自称・寅の実弟。タネ違いの弟):佐藤蛾次郎
諏訪博士(※医師):井川比佐志
坪内散歩(※英語の先生、寅の恩師):東野英治郎
坪内冬子(※マドンナ。寅とさくらの幼馴染):佐藤オリヱ
鎌倉ミチオ(※さくらの恋人):横内正
冬子の恋人:加藤剛
川又登(※寅の舎弟でとらやの従業員):津坂匡章
フジテレビ系 木曜22時枠
前番組 番組名 次番組
石狩平野 男はつらいよ ブラックチェンバー
アニメ版 [編集]
渥美清没後2年の命日を記念して、1998年8月7日19時に、高井研一郎作画のコミック版を元に、映画シリーズ第11作の『男はつらいよ 寅次郎忘れな草』を参考にした『アニメ 男はつらいよ〜寅次郎忘れな草〜』が、TBS『金曜テレビの星!』で放映された。
視聴率は7.1%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)と、TBSの予想よりは不振に終わった。
その後、2009年1月25日に、バラエティ番組『快感MAP』(テレビ朝日)で再放送された。
キャスト [編集]
寅さん:山寺宏一
リリー:冬馬由美
さくら:岡本茉利
博:大塚芳忠
竜造:矢田稔
つね:東美江
タコ社長:峰恵研
御前様:槐柳二
源公:龍田直樹
満男:増田ゆき
備後屋:田原アルノ
栗原・夫:岡部政明
栗原・妻:種田文子
あや子:荒木香恵
進一:津村まこと
水原:志賀克也
めぐみ:菊地祥子
良吉:塩屋浩三
母親:有馬瑞香
司会者:星野充昭
社員A:小野塚貴志
社員B:鈴木正和
マサル:喜田あゆみ
少年A:黒田やよい
隣人:坂東尚樹
スタッフ [編集]
原作:山田洋次
製作総指揮:村田英憲
製作協力:荒井雅樹(大船撮影所)、林律雄、高井研一郎
プロデューサー:小野辰雄、山村俊史(TBS)
アニメーションプロデューサー:出崎哲
音楽:山本直純
キャラクターデザイン・総作画監督:小林ゆかり
音響監督:加藤敏
美術監督:阿部幸次
色彩設定:西川裕子
撮影監督:岡崎英夫
演出:棚橋一徳
文芸:小出一巳
絵コンテ・総監督:四分一節子
原著作・協力:松竹
制作協力:マジックバス
テレビ版アニメ製作:エイケン、TBS
関連番組 [編集]
BSスペシャル 渥美清の寅さん勤続25年(NHK-BS2、1995年1月15日)
クローズアップ現代 寅さんの60日(NHK総合、1995年12月11日)
本作をもとにしたキャラクターが登場する作品 [編集]
フーセンのドラ太郎 - 『男はつらいよ』のアニメ版ということで、同作品のキャラクターを猫と鼠が演じた1981年放映のアニメーション。
ゲゲゲの鬼太郎 - ねずみ男が、寅さんと同様の格好をして放浪する回がある。その際、寅さんのおなじみのセリフをこぼす。
ガンバの冒険(11話 ペテン師トラゴローを追え) - 寅さんをモチーフにしている「トラゴロー」というキャラクターが登場。
きらりん☆レボリューション - 寅さんに似た格好をしている「ふーさん」が登場している。
ドラえもん - 寅さんをモチーフにしたと思われる虎猫ロボットの「トラえもん」が登場している。またドラえもんも作中で、のび太と喧嘩した際には度々「それをいったらおしまいだよ」と言っている。
地獄先生ぬ〜べ〜 - 原作のエピソードで、マウスが増殖し誰も手がつけられなくなるという話で、そのマウスを売る男が寅次郎をモチーフにしている。ただ、諸悪の根源という意味合いから、寅さんというよりも悪魔じみた感じで描かれている。
かいけつゾロリ - 寅さん、さくら、おいちゃん、おばちゃん、たこ社長を意識したキャラクターが89話に登場した。
魔弾戦記リュウケンドー - 随所に本作へのオマージュが散りばめられており、特に登場人物の一人「ガジロー」は、佐藤蛾次郎が演じた源公そのままのキャラクターで、佐藤の実子・佐藤亮太が演じる。
サラリーマンNEO(NHK) - キャラシリーズに「渥美トラ次郎」という虎模様の猫がいる。これは渥美と寅次郎をかけたものである。
超力戦隊オーレンジャー-第43話に登場したマシン獣「バラペテン」は、人間体として寅さんに似た「フーテンの熊」に化けることができる。
炎神戦隊ゴーオンジャー - 第21話に登場した「フーセンバンキ」は、公式ホームページによるとフーテンとフーセンをかけており、寅さんに似た言動や帽子、カバンを持っている。その声も、寅さんの物まね芸人である原一平が担当している。
ぜんまいざむらい - 寅さんの名前を意識した「どろぼう猫の虎次郎」という猫が登場した。(虎も猫科の動物で猫に虎とつける話は本作の映画にもある)
天才てれびくんMAX- 天てれドラマ「ダーリンは11さい?!」の最終話に登場した的屋のかっこう及び口上は明らかに寅さんのものである。
脚注 [編集]
1.^ 『寅次郎忘れな草』、『寅次郎相合い傘』、『寅次郎ハイビスカスの花』の3作
2.^ 2007年1月8日放送芸能人雑学王決定戦より
3.^ 渥美清没後10年の命日を記念して掲載された2006年8月4日の北日本新聞のコラム「天地人」より
4.^ 2007年1月6日NHK放送「寅さんレビュー」
5.^ 男はつらいよ 全巻BOX 特典DVD「寅さんが遺してくれたもの」
6.^ 作詞家・星野哲郎氏が語る「男はつらいよ」(インターネット・アーカイブのミラー)
関連項目 [編集]
柴又帝釈天
啖呵売
的屋
虹をつかむ男
フーセンのドラ太郎
松竹
松竹大船撮影所
釣りバカ日誌 - 『男はつらいよ』以後の松竹を代表するシリーズ
野口よういち - 寅さんの格好、ものまねにより柴又のガイドをしている芸人。
外部リンク [編集]
公式サイト [編集]
寅さんの世界 - 松竹
関連サイト [編集]
柴又帝釈天門前 とらやごく初期の頃、撮影に使った和菓子店(撮影当時の屋号は“柴又屋”)
高木屋のホームページ映画撮影に積極的に協力していただんご屋
葛飾柴又寅さん記念館
江戸川寅次郎国土交通省関東地方整備局江戸川河川事務所
渥美清こもろ寅さん会館 (長野県小諸市)
研究サイト [編集]
さすらいの月虎
TV版寅さんサイト通信
男はつらいよ覚え書ノート
寅さんのいる町〜葛飾柴又をゆく〜
[隠す]表・話・編・歴男はつらいよ
1-12作 男はつらいよ - 続・男はつらいよ - フーテンの寅 - 新・男はつらいよ - 望郷篇 - 純情篇 - 奮闘篇 - 寅次郎恋歌 - 柴又慕情 - 寅次郎夢枕 - 寅次郎忘れな草 - 私の寅さん
13-24作 寅次郎恋やつれ - 寅次郎子守唄 - 寅次郎相合い傘 - 葛飾立志篇 - 寅次郎夕焼け小焼け - 寅次郎純情詩集 - 寅次郎と殿様 - 寅次郎頑張れ! - 寅次郎わが道をゆく - 噂の寅次郎 - 翔んでる寅次郎 - 寅次郎春の夢
25-36作 寅次郎ハイビスカスの花 - 寅次郎かもめ歌 - 浪花の恋の寅次郎 - 寅次郎紙風船 - 寅次郎あじさいの恋 - 花も嵐も寅次郎 - 旅と女と寅次郎 - 口笛を吹く寅次郎 - 夜霧にむせぶ寅次郎 - 寅次郎真実一路 - 寅次郎恋愛塾 - 柴又より愛をこめて
37-48作・特別編 幸福の青い鳥 - 知床慕情 - 寅次郎物語 - 寅次郎サラダ記念日 - 寅次郎心の旅路 - ぼくの伯父さん - 寅次郎の休日 - 寅次郎の告白 - 寅次郎の青春 - 寅次郎の縁談 - 拝啓車寅次郎様 - 寅次郎紅の花 - ハイビスカスの花 特別篇
関連項目 松竹 - 渥美清 - 山田洋次 - 柴又 - 柴又帝釈天
「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B7%E3%81%AF%E3%81%A4%E3%82%89%E3%81%84%E3%82%88」より作成
カテゴリ: 雑多な内容を箇条書きした節のある記事 - 2009年7月 | 出典を必要とする記事 | 男はつらいよシリーズ | フジテレビのテレビドラマ | 1968年のテレビドラマ | 1969年の映画 | 京都府を舞台とした作品 | 日本クラウンのシングル | 1970年のシングル表示
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やまだ ようじ
山田 洋次
生年月日 1931年9月13日(78歳)
出生地 日本 大阪府豊中市
民族 日本人
職業 映画監督、脚本家
ジャンル 映画
活動期間 1954年 -
主な作品
『男はつらいよ』シリーズ
受賞
日本アカデミー賞
最優秀監督賞
1978年『幸福の黄色いハンカチ』、『男はつらいよ』シリーズ
最優秀脚本賞
1978年『幸福の黄色いハンカチ』、『男はつらいよ』シリーズ
ブルーリボン賞
監督賞
1966年『運が良けりゃ』
1977年『幸福の黄色いハンカチ』
その他の賞
紫綬褒章
1996年
表示
山田 洋次(やまだ ようじ、1931年9月13日 - )は、大阪府豊中市出身の映画監督、脚本家。日本芸術院会員。川島雄三、野村芳太郎の助監督を経て、1961年に『二階の他人』でデビューする。以降、『男はつらいよ』シリーズなどの人情劇を発表する。評論家や文化人の支持も高く、現役でもっとも多くキネマ旬報ベストテンに入賞した監督である。中国などでも、日本映画界の第一人者として知られる。いわさきちひろ美術館理事。関西大学大学院文学研究科と立命館大学映像学部の客員教授。文化学院の特別講師でもある。
妻は「平塚らいてうの記録映画を上映する会」副会長を務めた山田よし恵(1932年5月23日 - 2008年11月8日)。次女はBS-TBSプロデューサーの山田亜樹(1963年9月14日 - 。元NHKアナウンサーの山田亜紀は別人)。
目次 [非表示]
1 作風
2 来歴
3 エピソード
4 主な受賞
5 主な作品
5.1 映画
5.1.1 脚本のみ
5.2 テレビドラマ
6 主な著書
6.1 参考文献
7 脚注
8 関連項目
9 外部リンク
作風 [編集]
落語等の影響を受けており、主に人間ドラマに焦点を当て、ユーモアとペーソスに溢れたものである。風景を美しくとらえながらも凝った映像表現は控え、一般人や社会の逸れ者のささやかな日常生活に潜む喜びと哀しみを丹念に描く。演出においては、「主役、脇役含めて全体として一体となった、わざとくささのない自然な演技」を要求するという。現場でのひらめきや勢いを大切にするため、事前にコンテをきっちり詰めるやり方も採らない。横長のシネマスコープ画面を愛し、画面中央で男女が語り合う片隅で犬が戯れていたりするのが映画の良さと語っている。
また、海外推理小説の熱心な読者でもあり、初期にはサスペンスやブラックユーモアの方面にも意欲を示していたが、その方面への資質には早々に見切りをつけたようである。「キネマの天地」などでミュージカル的なタッチも見せたが、やはり山田の領分ではなく、あくまで地に足をつけた日常の描写に真骨頂を発揮する。
来歴 [編集]
1931年、大阪府豊中市生まれ。満鉄のエンジニアだった父親の勤務のため、2歳で満州に渡り少年期を過ごした[1]。終戦後の1947年、大連から一家で日本に引き揚げ、15歳から18歳までを山口県宇部市の伯母の持ち家で過ごした。流れ者や社会の逸脱者を多く描くのは、山田自身の引き揚げ体験が強く影響している[1]。
旧制宇部中(現在の山口県立宇部高等学校)を経て旧制山口高等学校(現在の山口大学)在学中に学制改革を経験。新制の東京都立小山台高等学校から東京大学法学部に入学。怠学による出席日数不足で中退するところだったが、1954年に卒業して松竹に補欠入社する。野村芳太郎作品の脚本家・助監督を務めた[2]。1961年、『二階の他人』で監督としてデビューした[3]。
大島渚、篠田正浩、吉田喜重といった気鋭の新人が松竹ヌーヴェルヴァーグとして活躍していた時代にあって、山田は地味な存在であった。ヌーヴェルヴァーグ派が松竹から独立して行く中、松竹大船調路線の後継者として『下町の太陽』、『馬鹿まるだし』等のコメディを中心とした作品で企業内監督の道を歩む[3][2][4]。当初はハナ肇主演作品が非常に多く、才能を見抜く名人であるハナのご指名監督の感があった。
次第に喜劇作家としての評価が高まり、何本かの作品がキネマ旬報ベストテン入りするが、ヒットには恵まれない状態が続いた。
1969年、『男はつらいよ』を発表。当初は観客動員も地味であったが高い評判を呼んだ。輪番であった監督が山田単独となる頃から尻上がりに観客も増え、その後27年間に全48作が製作される大ヒットシリーズとなり、毎年お盆と暮れの興行は日本人の風物詩、国民的映画とまで言われた。しかし、車寅次郎役である渥美清の体調が優れなくなってからは、年2回作られていた『男はつらいよ』シリーズを年1回に減らし、後に甥の満男の出番を増やして寅次郎の出番を減らす決断をした。最終の第47作と第48作は、ドクターストップがあったものの無理に出演してもらったものである。渥美は公私混同を嫌っていたため、渥美の家族や個人的な連絡先は知らなかったと言う。知るようになったのは寅さんとのお別れ会の後である。渥美の死去によって『男はつらいよ』シリーズを失った4年後には大船撮影所が閉鎖され、監督としてメガホンを執る機会も減ってしまった。
シリーズの合間をぬって2、3年おきに『家族』『同胞』など、ややシリアスな作品も、おおむねオリジナル脚本で発表。いずれも高い評価と手堅い成績を収め、山田の映画作家としての地位を固めていく。ほとんどが倍賞千恵子主演であり、『男はつらいよ』のさくら役、シリーズ開始以前の多くの主演作を含めると、実に六十数本で主演、準主演に迎えている。この世界にも稀な親密さは、ある意味、山田が「生涯同じ歌を繰り返し歌い続ける」タイプの作家である証左ともなっている。
2002年、藤沢周平原作の『たそがれ清兵衛』を発表する。山田にとって、『運がよけりゃ』に続く2度目の時代劇[5]であり、藤沢作品を初映画化したものであった。他の時代劇では無視され続けてきた“位の低い”武士の苦悩を描いた物語である。構想に10年を掛け時代考証に徹底して拘った。登場人物が綺麗な新品の服ではなく、着古した古着を着ていたり、毎日月代を剃るはずが無いから、剃った部分に髪が生えてくる等の実に細かい部分をリアルに丹念に描き、「第76回アカデミー賞」外国語映画部門にノミネートされた。
2004年、再び藤沢原作の時代劇『隠し剣 鬼の爪』を発表し、「第7回ジンバブエ国際映画祭」最優秀作品賞を受賞した。
2004年1月に横綱審議委員に就任。2006年には「部員不足解消に役立つなら」と、OBである東京大学相撲部の名誉顧問となった。京都大学との交流戦を観戦し、「初心者にしか見えない学生が鼻血を出しながら立ち向かう姿が愛しい」と興奮した。
2007年、自身の監督作『幸福の黄色いハンカチ』がハリウッドでリメイクされる事が決定。主人公はオスカー俳優・ウィリアム・ハートが演じる。
2008年、小津安二郎以来、映画監督で二人目の芸術院会員となる。
2010年、小津映画の『麦秋』を舞台化。初の舞台演出[3][6]。
エピソード [編集]
祖父は官軍として西南戦争に従軍した。
幼少時は満州で育ったが、近くの道路はアスファルトで舗装され、故郷と呼べる美しい景色を見て育たなかったという。
東大に入学したのは上京したいという理由から。そのために必死に勉強している。法学部を選んだのは卒業が楽そうだと思い込んでいたためで、実際に入学すると授業がつまらなく、ほとんど出席せずに退学寸前のところで卒業した。
渥美清の葬式では長年の付き合いから弔辞を読んでいる。
TVシリーズの『男はつらいよ』最終回で主人公を殺してしまったため、ファンから大量の苦情が来た[4]。このとき、作品を理解していなかったことを認め、映画で続編を撮る決意をした。
寅さんの舞台・葛飾区柴又は、作家・早乙女勝元の紹介で最終的に決定された。
最終作の撮影現場で体調を崩して楽屋で寝込んでいた所、その頃は既に自分の死が近いことを悟っていたのか渥美清から「山田さん大丈夫ですか?あなたは体を大事にして長生きしなければなりませんよ。」と言われたのが今でも心に残っていると言う。
近年ではロケ地に行くと「男はつらいよを何本でも作れそうだ」と語っている。
小説家の八木義徳から「あなたは"典型"をお作りになった」「寅さんみたいな男といえば、共通したイメージがわく。文学ならドン・キホーテや坊ちゃん。あなたは映画でなさった。誇りをもっていい」[7]と評された。
小津安二郎の映画に対し、「毎回同じような内容ばかり」「何も起きずつまらない」と批判していたが、敬愛する黒澤明が自宅で小津映画を熱心に鑑賞しているのを見てショックを受ける。近年では自作の中に小津の影響を少なからず認めている[3][7]。
好きな作家は藤沢周平、どの主人公も慎ましく生きている姿が胸を打たれるという。
入社以来、一貫して松竹大船撮影所のみで仕事を続けた。同撮影所の閉鎖後は松竹京都撮影所を拠点とし、『武士の一分』で木村拓哉が東京を長期間離れることが不可能だったため、東宝撮影所を使用したのが生まれて初めての他社撮影所での仕事である。映画会社の専属監督制が崩壊し、制作会社、配給会社、撮影所の組み合わせもフリー化したのが70年代であることを考えると、21世紀までひとつの撮影所に固執した彼の姿勢はその作家性と結びついている。
主な受賞 [編集]
芸術選奨文部大臣賞(1969年)
菊池寛賞(1972年)
アジア映画祭最優秀喜劇賞(1980年)
都民栄誉賞(1982年)
ウィーン市ヨハン賞(1989年)
上海国際映画祭最高監督賞(1999年)
勲四等旭日小綬章(2002年)
第21回川喜多賞(2003年)
文化功労者(2004年)
アジア映画終身監督賞(2008年)
アジア・フィルム・アワード特別功労賞(2008年)
主な作品 [編集]
映画 [編集]
「二階の他人」(1961年)
「下町の太陽」(1963年)
「馬鹿まるだし」(1964年)
「いいかげん馬鹿」(1964年)
「馬鹿が戦車でやってくる」(1964年)
「霧の旗」(1965年)
「運が良けりゃ」(1966年)
「なつかしい風来坊」(1966年)
「九ちゃんのでっかい夢」(1967年)
「愛の讃歌」(1967年)
「喜劇 一発勝負」(1967年)
「ハナ肇の一発大冒険」(1968年)
「吹けば飛ぶよな男だが」(1968年)
「喜劇 一発大必勝」(1969年)
「男はつらいよ」(1969年)
「続・男はつらいよ」(1969年)
「男はつらいよ 望郷篇」(1970年)
「家族」(1970年)
「男はつらいよ 純情篇」(1971年)
「男はつらいよ 奮闘篇」(1971年)
「男はつらいよ 寅次郎恋歌」(1971年)
「男はつらいよ 柴又慕情」(1972年)
「男はつらいよ 寅次郎夢枕」(1972年)
「故郷」(1972年)
「男はつらいよ 寅次郎忘れな草」(1973年)
「男はつらいよ 私の寅さん」(1973年)
「男はつらいよ 寅次郎恋やつれ」(1974年)
「男はつらいよ 寅次郎子守唄」(1974年)
「男はつらいよ 寅次郎相合い傘」(1975年)
「男はつらいよ 葛飾立志篇」(1975年)
「同胞」(1975年)
「男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け」(1976年)
「男はつらいよ 寅次郎純情詩集」(1976年)
「男はつらいよ 寅次郎と殿様」(1977年)
「男はつらいよ 寅次郎頑張れ!」(1977年)
「幸福の黄色いハンカチ」(1977年)
「男はつらいよ 寅次郎わが道をゆく」(1978年)
「男はつらいよ 噂の寅次郎」(1978年)
「男はつらいよ 翔んでる寅次郎」(1979年)
「男はつらいよ 寅次郎春の夢」(1979年)
「男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花」(1980年)
「男はつらいよ 寅次郎かもめ歌」(1980年)
「遙かなる山の呼び声」(1980年)
「男はつらいよ 浪花の恋の寅次郎」(1981年)
「男はつらいよ 寅次郎紙風船」(1981年)
「男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋」(1982年)
「男はつらいよ 花も嵐も寅次郎」(1982年)
「男はつらいよ 旅と女と寅次郎」(1983年)
「男はつらいよ 口笛を吹く寅次郎」(1983年)
「男はつらいよ 夜霧にむせぶ寅次郎」(1984年)
「男はつらいよ 寅次郎恋愛塾」(1985年)
「男はつらいよ 柴又より愛をこめて」(1985年)
「男はつらいよ 幸福の青い鳥」(1986年)
「キネマの天地」(1986年)
「男はつらいよ 知床慕情」(1987年)
「男はつらいよ 寅次郎物語」(1987年)
「男はつらいよ 寅次郎サラダ記念日」(1988年)
「ダウンタウン・ヒーローズ」(1988年)
(ベルリン映画祭コンペティション参加)
「男はつらいよ 寅次郎心の旅路」(1989年)
「男はつらいよ ぼくの伯父さん」(1989年)
「男はつらいよ 寅次郎の休日」(1990年)
「息子」(1991年)
「男はつらいよ 寅次郎の告白」(1991年)
「男はつらいよ 寅次郎の青春」(1992年)
「学校」(1993年)
「男はつらいよ 寅次郎の縁談」(1993年)
「男はつらいよ 拝啓車寅次郎様」(1994年)
「男はつらいよ 寅次郎紅の花」(1995年)
「学校II」(1996年)
「虹をつかむ男」(1996年)
「虹をつかむ男 南国奮斗篇」(1997年)
「学校III」(1998年)
「十五才 学校IV」(2000年)
「たそがれ清兵衛」(2002年)
ハワイ映画祭グランプリ、香港電影金像奨アジア映画賞
(アカデミー賞外国語映画賞ノミネート、ベルリン映画祭コンペティション参加)
「隠し剣 鬼の爪」(2004年)
ジンバブエ国際映画祭最優秀作品賞、イスタンブール映画祭グランプリ
(ベルリン映画祭コンペティション参加)
「武士の一分」(2006年)
(ベルリン映画祭)
「母べえ」(2008年)
(ベルリン映画祭コンペティション参加)
「おとうと」(2010年)
脚本のみ [編集]
「砂の器」(1974年)
「釣りバカ日誌」シリーズ(1988年 - 2009年)
「出口のない海」(2006年)
テレビドラマ [編集]
東芝日曜劇場(TBSテレビ)
「24才」シリーズ(1967年 - 1969年)
「父」(1971年)
「続・父」(1971年)
「初恋」(1971年、北海道放送)
「放蕩一代息子」(1973年)
「裏長屋愛妻記」(1976年)
「放蕩かっぽれ節」(1978年)
「ぼくの椿姫」(1985年、北海道放送)
「泣いてたまるか」(TBSテレビ)
第12回「子はかすがい」(1966年)
第27回「なつかしいあいつ」(1967年)
最終回「男はつらい」(1968年)
「男はつらいよ」(1968年、フジテレビ)
「祝辞」(1971年、NHK)
「遥かなるわが町」(1973年、TBSテレビ)
「泣いてたまるか」(西田敏行版、TBSテレビ)
第1回「花嫁のお父ちゃん」(1986年)
第3回「結婚に向かない二人」(1986年)
「遥かなるわが町」(1990年、TBSテレビ)
「祖国」(2005年、WOWOW)
主な著書 [編集]
「山田洋次作品集」(全8巻) 立風書房
「映画をつくる」 大月書店
「寅さんの教育論」 岩波書店
「寅さんの学校論」 岩波書店
「映画館(こや)がはねて」 中公文庫
「放蕩かっぽれ節―山田洋次落語集」ちくま文庫
参考文献 [編集]
「山田洋次の<世界>」 筑摩書房(2004年、切通理作著)
脚注 [編集]
[ヘルプ]
1.^ a b 「時代を駆ける:山田洋次:YOJI YAMADA (2)」 『毎日新聞』 2010年1月19日、12版、9面。
2.^ a b 「時代を駆ける:山田洋次:YOJI YAMADA (4)」 『毎日新聞』 2010年1月25日、13版、5面。
3.^ a b c d 「時代を駆ける:山田洋次:YOJI YAMADA (1)」 『毎日新聞』 2010年1月18日、13版、5面。
4.^ a b 「時代を駆ける:山田洋次:YOJI YAMADA (5)」 『毎日新聞』 2010年1月26日、12版、10面。
5.^ 『たそがれ清兵衛』を、「山田監督初めての時代劇」と紹介するのは誤りである。ただし『運が良けりゃ』は、「時代喜劇」とも呼ばれるもので、設定は江戸時代であるものの、筋のメインは喜劇であり、正統派の時代劇ではない。よって、『たそがれ清兵衛』を「山田監督の初めての時代劇」というのも、全くの誤りとは言えない。
6.^ "山田洋次監督が小津映画舞台化:『麦秋』で新派公演初演出". スポーツ報知 (2009年5月5日). 2010年1月22日閲覧。
7.^ a b 「時代を駆ける:山田洋次:YOJI YAMADA (6)」 『毎日新聞』 2010年1月27日、12版、9面より引用。
関連項目 [編集]
日本の映画監督一覧
田坂具隆
いわさきちひろ美術館
外部リンク [編集]
日本映画データベース
[表示]表・話・編・歴日本映画監督協会理事長 (第7代:2003年-2004年)
村田実 1936-1937 | 溝口健二1937-1943、1949-1955 | 小津安二郎1955-1963 | 五所平之助1964-1980 | 大島渚1980-1996 | 深作欣二1996-2003 | 山田洋次2003-2004 | 崔洋一2004-現在
[表示]表・話・編・歴山田洋次の監督作品
1960年代 二階の他人 (1961年) - 馬鹿が戦車でやってくる (1964年) - いいかげん馬鹿 (1964年) - 馬鹿まるだし (1964年)
霧の旗 (1965年) - なつかしい風来坊 (1966年) - 運が良けりゃ (1966年) - 喜劇 一発勝負 (1967年) - 愛の讃歌 (1967年)
九ちゃんのでっかい夢 (1967年) - 吹けば飛ぶよな男だが (1968年) - ハナ肇の一発大冒険 (1968年) - 喜劇 一発大必勝 (1969年)
1970年代 家族 (1970年) - 故郷 (1972年) - 同胞 (1975年) - 幸福の黄色いハンカチ (1977年)
1980年代 遙かなる山の呼び声 (1980年) - キネマの天地 (1986年) - ダウンタウン・ヒーローズ (1988年)
1990年代 息子 (1991年) - 学校 (1993年) - 学校II (1996年) - 虹をつかむ男 (1996年) - 虹をつかむ男 南国奮斗篇 (1997年) - 学校III (1998年)
2000年代 十五才 学校IV (2000年) - たそがれ清兵衛 (2002年) - 隠し剣 鬼の爪 (2004年) - 武士の一分 (2006年) - 母べえ (2008年)
2010年代 おとうと (2010年) - 京都太秦物語 (2010年)
男はつらいよ [表示]表・話・編・歴男はつらいよ
1-12作 男はつらいよ - 続・男はつらいよ - フーテンの寅 - 新・男はつらいよ - 望郷篇 - 純情篇 - 奮闘篇 - 寅次郎恋歌 - 柴又慕情 - 寅次郎夢枕 - 寅次郎忘れな草 - 私の寅さん
13-24作 寅次郎恋やつれ - 寅次郎子守唄 - 寅次郎相合い傘 - 葛飾立志篇 - 寅次郎夕焼け小焼け - 寅次郎純情詩集 - 寅次郎と殿様 - 寅次郎頑張れ! - 寅次郎わが道をゆく - 噂の寅次郎 - 翔んでる寅次郎 - 寅次郎春の夢
25-36作 寅次郎ハイビスカスの花 - 寅次郎かもめ歌 - 浪花の恋の寅次郎 - 寅次郎紙風船 - 寅次郎あじさいの恋 - 花も嵐も寅次郎 - 旅と女と寅次郎 - 口笛を吹く寅次郎 - 夜霧にむせぶ寅次郎 - 寅次郎真実一路 - 寅次郎恋愛塾 - 柴又より愛をこめて
37-48作・特別編 幸福の青い鳥 - 知床慕情 - 寅次郎物語 - 寅次郎サラダ記念日 - 寅次郎心の旅路 - ぼくの伯父さん - 寅次郎の休日 - 寅次郎の告白 - 寅次郎の青春 - 寅次郎の縁談 - 拝啓車寅次郎様 - 寅次郎紅の花 - ハイビスカスの花 特別篇
関連項目 松竹 - 渥美清 - 山田洋次 - 柴又 - 柴又帝釈天
「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E6%B4%8B%E6%AC%A1」より作成
カテゴリ: 日本の映画監督 | 日本の脚本家 | 松竹 | 落語 | 日本の引揚者 | 横綱審議委員会委員 | 関西大学の教員 | 立命館大学の教員 | 文化功労者 | 大阪府出身の人物 | 1931年生 | 存命人物表示
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やまだ ようじ
山田 洋次
生年月日 1931年9月13日(78歳)
出生地 日本 大阪府豊中市
民族 日本人
職業 映画監督、脚本家
ジャンル 映画
活動期間 1954年 -
主な作品
『男はつらいよ』シリーズ
受賞
日本アカデミー賞
最優秀監督賞
1978年『幸福の黄色いハンカチ』、『男はつらいよ』シリーズ
最優秀脚本賞
1978年『幸福の黄色いハンカチ』、『男はつらいよ』シリーズ
ブルーリボン賞
監督賞
1966年『運が良けりゃ』
1977年『幸福の黄色いハンカチ』
その他の賞
紫綬褒章
1996年
表示
山田 洋次(やまだ ようじ、1931年9月13日 - )は、大阪府豊中市出身の映画監督、脚本家。日本芸術院会員。川島雄三、野村芳太郎の助監督を経て、1961年に『二階の他人』でデビューする。以降、『男はつらいよ』シリーズなどの人情劇を発表する。評論家や文化人の支持も高く、現役でもっとも多くキネマ旬報ベストテンに入賞した監督である。中国などでも、日本映画界の第一人者として知られる。いわさきちひろ美術館理事。関西大学大学院文学研究科と立命館大学映像学部の客員教授。文化学院の特別講師でもある。
妻は「平塚らいてうの記録映画を上映する会」副会長を務めた山田よし恵(1932年5月23日 - 2008年11月8日)。次女はBS-TBSプロデューサーの山田亜樹(1963年9月14日 - 。元NHKアナウンサーの山田亜紀は別人)。
目次 [非表示]
1 作風
2 来歴
3 エピソード
4 主な受賞
5 主な作品
5.1 映画
5.1.1 脚本のみ
5.2 テレビドラマ
6 主な著書
6.1 参考文献
7 脚注
8 関連項目
9 外部リンク
作風 [編集]
落語等の影響を受けており、主に人間ドラマに焦点を当て、ユーモアとペーソスに溢れたものである。風景を美しくとらえながらも凝った映像表現は控え、一般人や社会の逸れ者のささやかな日常生活に潜む喜びと哀しみを丹念に描く。演出においては、「主役、脇役含めて全体として一体となった、わざとくささのない自然な演技」を要求するという。現場でのひらめきや勢いを大切にするため、事前にコンテをきっちり詰めるやり方も採らない。横長のシネマスコープ画面を愛し、画面中央で男女が語り合う片隅で犬が戯れていたりするのが映画の良さと語っている。
また、海外推理小説の熱心な読者でもあり、初期にはサスペンスやブラックユーモアの方面にも意欲を示していたが、その方面への資質には早々に見切りをつけたようである。「キネマの天地」などでミュージカル的なタッチも見せたが、やはり山田の領分ではなく、あくまで地に足をつけた日常の描写に真骨頂を発揮する。
来歴 [編集]
1931年、大阪府豊中市生まれ。満鉄のエンジニアだった父親の勤務のため、2歳で満州に渡り少年期を過ごした[1]。終戦後の1947年、大連から一家で日本に引き揚げ、15歳から18歳までを山口県宇部市の伯母の持ち家で過ごした。流れ者や社会の逸脱者を多く描くのは、山田自身の引き揚げ体験が強く影響している[1]。
旧制宇部中(現在の山口県立宇部高等学校)を経て旧制山口高等学校(現在の山口大学)在学中に学制改革を経験。新制の東京都立小山台高等学校から東京大学法学部に入学。怠学による出席日数不足で中退するところだったが、1954年に卒業して松竹に補欠入社する。野村芳太郎作品の脚本家・助監督を務めた[2]。1961年、『二階の他人』で監督としてデビューした[3]。
大島渚、篠田正浩、吉田喜重といった気鋭の新人が松竹ヌーヴェルヴァーグとして活躍していた時代にあって、山田は地味な存在であった。ヌーヴェルヴァーグ派が松竹から独立して行く中、松竹大船調路線の後継者として『下町の太陽』、『馬鹿まるだし』等のコメディを中心とした作品で企業内監督の道を歩む[3][2][4]。当初はハナ肇主演作品が非常に多く、才能を見抜く名人であるハナのご指名監督の感があった。
次第に喜劇作家としての評価が高まり、何本かの作品がキネマ旬報ベストテン入りするが、ヒットには恵まれない状態が続いた。
1969年、『男はつらいよ』を発表。当初は観客動員も地味であったが高い評判を呼んだ。輪番であった監督が山田単独となる頃から尻上がりに観客も増え、その後27年間に全48作が製作される大ヒットシリーズとなり、毎年お盆と暮れの興行は日本人の風物詩、国民的映画とまで言われた。しかし、車寅次郎役である渥美清の体調が優れなくなってからは、年2回作られていた『男はつらいよ』シリーズを年1回に減らし、後に甥の満男の出番を増やして寅次郎の出番を減らす決断をした。最終の第47作と第48作は、ドクターストップがあったものの無理に出演してもらったものである。渥美は公私混同を嫌っていたため、渥美の家族や個人的な連絡先は知らなかったと言う。知るようになったのは寅さんとのお別れ会の後である。渥美の死去によって『男はつらいよ』シリーズを失った4年後には大船撮影所が閉鎖され、監督としてメガホンを執る機会も減ってしまった。
シリーズの合間をぬって2、3年おきに『家族』『同胞』など、ややシリアスな作品も、おおむねオリジナル脚本で発表。いずれも高い評価と手堅い成績を収め、山田の映画作家としての地位を固めていく。ほとんどが倍賞千恵子主演であり、『男はつらいよ』のさくら役、シリーズ開始以前の多くの主演作を含めると、実に六十数本で主演、準主演に迎えている。この世界にも稀な親密さは、ある意味、山田が「生涯同じ歌を繰り返し歌い続ける」タイプの作家である証左ともなっている。
2002年、藤沢周平原作の『たそがれ清兵衛』を発表する。山田にとって、『運がよけりゃ』に続く2度目の時代劇[5]であり、藤沢作品を初映画化したものであった。他の時代劇では無視され続けてきた“位の低い”武士の苦悩を描いた物語である。構想に10年を掛け時代考証に徹底して拘った。登場人物が綺麗な新品の服ではなく、着古した古着を着ていたり、毎日月代を剃るはずが無いから、剃った部分に髪が生えてくる等の実に細かい部分をリアルに丹念に描き、「第76回アカデミー賞」外国語映画部門にノミネートされた。
2004年、再び藤沢原作の時代劇『隠し剣 鬼の爪』を発表し、「第7回ジンバブエ国際映画祭」最優秀作品賞を受賞した。
2004年1月に横綱審議委員に就任。2006年には「部員不足解消に役立つなら」と、OBである東京大学相撲部の名誉顧問となった。京都大学との交流戦を観戦し、「初心者にしか見えない学生が鼻血を出しながら立ち向かう姿が愛しい」と興奮した。
2007年、自身の監督作『幸福の黄色いハンカチ』がハリウッドでリメイクされる事が決定。主人公はオスカー俳優・ウィリアム・ハートが演じる。
2008年、小津安二郎以来、映画監督で二人目の芸術院会員となる。
2010年、小津映画の『麦秋』を舞台化。初の舞台演出[3][6]。
エピソード [編集]
祖父は官軍として西南戦争に従軍した。
幼少時は満州で育ったが、近くの道路はアスファルトで舗装され、故郷と呼べる美しい景色を見て育たなかったという。
東大に入学したのは上京したいという理由から。そのために必死に勉強している。法学部を選んだのは卒業が楽そうだと思い込んでいたためで、実際に入学すると授業がつまらなく、ほとんど出席せずに退学寸前のところで卒業した。
渥美清の葬式では長年の付き合いから弔辞を読んでいる。
TVシリーズの『男はつらいよ』最終回で主人公を殺してしまったため、ファンから大量の苦情が来た[4]。このとき、作品を理解していなかったことを認め、映画で続編を撮る決意をした。
寅さんの舞台・葛飾区柴又は、作家・早乙女勝元の紹介で最終的に決定された。
最終作の撮影現場で体調を崩して楽屋で寝込んでいた所、その頃は既に自分の死が近いことを悟っていたのか渥美清から「山田さん大丈夫ですか?あなたは体を大事にして長生きしなければなりませんよ。」と言われたのが今でも心に残っていると言う。
近年ではロケ地に行くと「男はつらいよを何本でも作れそうだ」と語っている。
小説家の八木義徳から「あなたは"典型"をお作りになった」「寅さんみたいな男といえば、共通したイメージがわく。文学ならドン・キホーテや坊ちゃん。あなたは映画でなさった。誇りをもっていい」[7]と評された。
小津安二郎の映画に対し、「毎回同じような内容ばかり」「何も起きずつまらない」と批判していたが、敬愛する黒澤明が自宅で小津映画を熱心に鑑賞しているのを見てショックを受ける。近年では自作の中に小津の影響を少なからず認めている[3][7]。
好きな作家は藤沢周平、どの主人公も慎ましく生きている姿が胸を打たれるという。
入社以来、一貫して松竹大船撮影所のみで仕事を続けた。同撮影所の閉鎖後は松竹京都撮影所を拠点とし、『武士の一分』で木村拓哉が東京を長期間離れることが不可能だったため、東宝撮影所を使用したのが生まれて初めての他社撮影所での仕事である。映画会社の専属監督制が崩壊し、制作会社、配給会社、撮影所の組み合わせもフリー化したのが70年代であることを考えると、21世紀までひとつの撮影所に固執した彼の姿勢はその作家性と結びついている。
主な受賞 [編集]
芸術選奨文部大臣賞(1969年)
菊池寛賞(1972年)
アジア映画祭最優秀喜劇賞(1980年)
都民栄誉賞(1982年)
ウィーン市ヨハン賞(1989年)
上海国際映画祭最高監督賞(1999年)
勲四等旭日小綬章(2002年)
第21回川喜多賞(2003年)
文化功労者(2004年)
アジア映画終身監督賞(2008年)
アジア・フィルム・アワード特別功労賞(2008年)
主な作品 [編集]
映画 [編集]
「二階の他人」(1961年)
「下町の太陽」(1963年)
「馬鹿まるだし」(1964年)
「いいかげん馬鹿」(1964年)
「馬鹿が戦車でやってくる」(1964年)
「霧の旗」(1965年)
「運が良けりゃ」(1966年)
「なつかしい風来坊」(1966年)
「九ちゃんのでっかい夢」(1967年)
「愛の讃歌」(1967年)
「喜劇 一発勝負」(1967年)
「ハナ肇の一発大冒険」(1968年)
「吹けば飛ぶよな男だが」(1968年)
「喜劇 一発大必勝」(1969年)
「男はつらいよ」(1969年)
「続・男はつらいよ」(1969年)
「男はつらいよ 望郷篇」(1970年)
「家族」(1970年)
「男はつらいよ 純情篇」(1971年)
「男はつらいよ 奮闘篇」(1971年)
「男はつらいよ 寅次郎恋歌」(1971年)
「男はつらいよ 柴又慕情」(1972年)
「男はつらいよ 寅次郎夢枕」(1972年)
「故郷」(1972年)
「男はつらいよ 寅次郎忘れな草」(1973年)
「男はつらいよ 私の寅さん」(1973年)
「男はつらいよ 寅次郎恋やつれ」(1974年)
「男はつらいよ 寅次郎子守唄」(1974年)
「男はつらいよ 寅次郎相合い傘」(1975年)
「男はつらいよ 葛飾立志篇」(1975年)
「同胞」(1975年)
「男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け」(1976年)
「男はつらいよ 寅次郎純情詩集」(1976年)
「男はつらいよ 寅次郎と殿様」(1977年)
「男はつらいよ 寅次郎頑張れ!」(1977年)
「幸福の黄色いハンカチ」(1977年)
「男はつらいよ 寅次郎わが道をゆく」(1978年)
「男はつらいよ 噂の寅次郎」(1978年)
「男はつらいよ 翔んでる寅次郎」(1979年)
「男はつらいよ 寅次郎春の夢」(1979年)
「男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花」(1980年)
「男はつらいよ 寅次郎かもめ歌」(1980年)
「遙かなる山の呼び声」(1980年)
「男はつらいよ 浪花の恋の寅次郎」(1981年)
「男はつらいよ 寅次郎紙風船」(1981年)
「男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋」(1982年)
「男はつらいよ 花も嵐も寅次郎」(1982年)
「男はつらいよ 旅と女と寅次郎」(1983年)
「男はつらいよ 口笛を吹く寅次郎」(1983年)
「男はつらいよ 夜霧にむせぶ寅次郎」(1984年)
「男はつらいよ 寅次郎恋愛塾」(1985年)
「男はつらいよ 柴又より愛をこめて」(1985年)
「男はつらいよ 幸福の青い鳥」(1986年)
「キネマの天地」(1986年)
「男はつらいよ 知床慕情」(1987年)
「男はつらいよ 寅次郎物語」(1987年)
「男はつらいよ 寅次郎サラダ記念日」(1988年)
「ダウンタウン・ヒーローズ」(1988年)
(ベルリン映画祭コンペティション参加)
「男はつらいよ 寅次郎心の旅路」(1989年)
「男はつらいよ ぼくの伯父さん」(1989年)
「男はつらいよ 寅次郎の休日」(1990年)
「息子」(1991年)
「男はつらいよ 寅次郎の告白」(1991年)
「男はつらいよ 寅次郎の青春」(1992年)
「学校」(1993年)
「男はつらいよ 寅次郎の縁談」(1993年)
「男はつらいよ 拝啓車寅次郎様」(1994年)
「男はつらいよ 寅次郎紅の花」(1995年)
「学校II」(1996年)
「虹をつかむ男」(1996年)
「虹をつかむ男 南国奮斗篇」(1997年)
「学校III」(1998年)
「十五才 学校IV」(2000年)
「たそがれ清兵衛」(2002年)
ハワイ映画祭グランプリ、香港電影金像奨アジア映画賞
(アカデミー賞外国語映画賞ノミネート、ベルリン映画祭コンペティション参加)
「隠し剣 鬼の爪」(2004年)
ジンバブエ国際映画祭最優秀作品賞、イスタンブール映画祭グランプリ
(ベルリン映画祭コンペティション参加)
「武士の一分」(2006年)
(ベルリン映画祭)
「母べえ」(2008年)
(ベルリン映画祭コンペティション参加)
「おとうと」(2010年)
脚本のみ [編集]
「砂の器」(1974年)
「釣りバカ日誌」シリーズ(1988年 - 2009年)
「出口のない海」(2006年)
テレビドラマ [編集]
東芝日曜劇場(TBSテレビ)
「24才」シリーズ(1967年 - 1969年)
「父」(1971年)
「続・父」(1971年)
「初恋」(1971年、北海道放送)
「放蕩一代息子」(1973年)
「裏長屋愛妻記」(1976年)
「放蕩かっぽれ節」(1978年)
「ぼくの椿姫」(1985年、北海道放送)
「泣いてたまるか」(TBSテレビ)
第12回「子はかすがい」(1966年)
第27回「なつかしいあいつ」(1967年)
最終回「男はつらい」(1968年)
「男はつらいよ」(1968年、フジテレビ)
「祝辞」(1971年、NHK)
「遥かなるわが町」(1973年、TBSテレビ)
「泣いてたまるか」(西田敏行版、TBSテレビ)
第1回「花嫁のお父ちゃん」(1986年)
第3回「結婚に向かない二人」(1986年)
「遥かなるわが町」(1990年、TBSテレビ)
「祖国」(2005年、WOWOW)
主な著書 [編集]
「山田洋次作品集」(全8巻) 立風書房
「映画をつくる」 大月書店
「寅さんの教育論」 岩波書店
「寅さんの学校論」 岩波書店
「映画館(こや)がはねて」 中公文庫
「放蕩かっぽれ節―山田洋次落語集」ちくま文庫
参考文献 [編集]
「山田洋次の<世界>」 筑摩書房(2004年、切通理作著)
脚注 [編集]
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1.^ a b 「時代を駆ける:山田洋次:YOJI YAMADA (2)」 『毎日新聞』 2010年1月19日、12版、9面。
2.^ a b 「時代を駆ける:山田洋次:YOJI YAMADA (4)」 『毎日新聞』 2010年1月25日、13版、5面。
3.^ a b c d 「時代を駆ける:山田洋次:YOJI YAMADA (1)」 『毎日新聞』 2010年1月18日、13版、5面。
4.^ a b 「時代を駆ける:山田洋次:YOJI YAMADA (5)」 『毎日新聞』 2010年1月26日、12版、10面。
5.^ 『たそがれ清兵衛』を、「山田監督初めての時代劇」と紹介するのは誤りである。ただし『運が良けりゃ』は、「時代喜劇」とも呼ばれるもので、設定は江戸時代であるものの、筋のメインは喜劇であり、正統派の時代劇ではない。よって、『たそがれ清兵衛』を「山田監督の初めての時代劇」というのも、全くの誤りとは言えない。
6.^ "山田洋次監督が小津映画舞台化:『麦秋』で新派公演初演出". スポーツ報知 (2009年5月5日). 2010年1月22日閲覧。
7.^ a b 「時代を駆ける:山田洋次:YOJI YAMADA (6)」 『毎日新聞』 2010年1月27日、12版、9面より引用。
関連項目 [編集]
日本の映画監督一覧
田坂具隆
いわさきちひろ美術館
外部リンク [編集]
日本映画データベース
[表示]表・話・編・歴日本映画監督協会理事長 (第7代:2003年-2004年)
村田実 1936-1937 | 溝口健二1937-1943、1949-1955 | 小津安二郎1955-1963 | 五所平之助1964-1980 | 大島渚1980-1996 | 深作欣二1996-2003 | 山田洋次2003-2004 | 崔洋一2004-現在
[表示]表・話・編・歴山田洋次の監督作品
1960年代 二階の他人 (1961年) - 馬鹿が戦車でやってくる (1964年) - いいかげん馬鹿 (1964年) - 馬鹿まるだし (1964年)
霧の旗 (1965年) - なつかしい風来坊 (1966年) - 運が良けりゃ (1966年) - 喜劇 一発勝負 (1967年) - 愛の讃歌 (1967年)
九ちゃんのでっかい夢 (1967年) - 吹けば飛ぶよな男だが (1968年) - ハナ肇の一発大冒険 (1968年) - 喜劇 一発大必勝 (1969年)
1970年代 家族 (1970年) - 故郷 (1972年) - 同胞 (1975年) - 幸福の黄色いハンカチ (1977年)
1980年代 遙かなる山の呼び声 (1980年) - キネマの天地 (1986年) - ダウンタウン・ヒーローズ (1988年)
1990年代 息子 (1991年) - 学校 (1993年) - 学校II (1996年) - 虹をつかむ男 (1996年) - 虹をつかむ男 南国奮斗篇 (1997年) - 学校III (1998年)
2000年代 十五才 学校IV (2000年) - たそがれ清兵衛 (2002年) - 隠し剣 鬼の爪 (2004年) - 武士の一分 (2006年) - 母べえ (2008年)
2010年代 おとうと (2010年) - 京都太秦物語 (2010年)
男はつらいよ [表示]表・話・編・歴男はつらいよ
1-12作 男はつらいよ - 続・男はつらいよ - フーテンの寅 - 新・男はつらいよ - 望郷篇 - 純情篇 - 奮闘篇 - 寅次郎恋歌 - 柴又慕情 - 寅次郎夢枕 - 寅次郎忘れな草 - 私の寅さん
13-24作 寅次郎恋やつれ - 寅次郎子守唄 - 寅次郎相合い傘 - 葛飾立志篇 - 寅次郎夕焼け小焼け - 寅次郎純情詩集 - 寅次郎と殿様 - 寅次郎頑張れ! - 寅次郎わが道をゆく - 噂の寅次郎 - 翔んでる寅次郎 - 寅次郎春の夢
25-36作 寅次郎ハイビスカスの花 - 寅次郎かもめ歌 - 浪花の恋の寅次郎 - 寅次郎紙風船 - 寅次郎あじさいの恋 - 花も嵐も寅次郎 - 旅と女と寅次郎 - 口笛を吹く寅次郎 - 夜霧にむせぶ寅次郎 - 寅次郎真実一路 - 寅次郎恋愛塾 - 柴又より愛をこめて
37-48作・特別編 幸福の青い鳥 - 知床慕情 - 寅次郎物語 - 寅次郎サラダ記念日 - 寅次郎心の旅路 - ぼくの伯父さん - 寅次郎の休日 - 寅次郎の告白 - 寅次郎の青春 - 寅次郎の縁談 - 拝啓車寅次郎様 - 寅次郎紅の花 - ハイビスカスの花 特別篇
関連項目 松竹 - 渥美清 - 山田洋次 - 柴又 - 柴又帝釈天
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帝釈天
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密教
仏教
金剛乗仏教
時代・地域
初期 中期 後期
インド チベット 中国 日本
主な宗派(日本)
東密
※は、「真言宗各山会」加入
- 古義真言宗系 -
※高野山真言宗
※東寺真言宗
※真言宗善通寺派
※真言宗醍醐派
※真言宗御室派
※真言宗大覚寺派
※真言宗泉涌寺派
※真言宗山階派
※信貴山真言宗
※真言宗中山寺派
※真言三宝宗
※真言宗須磨寺派
真言宗東寺派
- 新義真言宗系 -
※真言宗智山派
※真言宗豊山派
※新義真言宗
真言宗室生寺派
- 真言律 -
※真言律宗
台密
(〈日本〉天台宗)
如来 菩薩
如来 菩薩 明王 天
経典
大日経 金剛頂経
蘇悉地経 理趣経
思想 基本教義
即身成仏 三密 入我我入
曼荼羅 護摩
東密
古義 (広沢流 小野流) 新義
関連人物
東密
金剛薩埵 龍樹
龍智 金剛智 不空 恵果
空海
真言律
叡尊 忍性 信空
台密
最澄 順暁 円仁 円珍
ウィキポータル 仏教
帝釈天(たいしゃくてん)は、密教の守護神である天部の一つ。バラモン教・ヒンドゥー教・ゾロアスター教の武神(天帝)でヒッタイト条文にもみられるインドラ(梵: इंद्र、इन्द्र)と同一の神。阿修羅の娘である舎脂の夫。梵天と一対の像として表されることが多い。釋提桓因(しゃくだいかんいん)とも記載される。釋は字(あざな)、提桓因は天主のこと。
概説 [編集]
帝釈天(左)と梵天(右)帝釈天の名はインドラの名前の梵: इंद्र、इन्द्र śakro devānām indraḥのうち、śakraを釈と音訳したものに、devaを天と意訳して後部に付け足し、indraを帝と意訳して冠したもの。
本来のインドラ神は、阿修羅とも戦闘したという武勇の神であったが、仏教に取り入れられ、成道前から釈迦を助け、またその説法を聴聞したことで、梵天と並んで仏教の二大護法善神となった(インドラの項を参照)。
四天王などを配下とし、須弥山の頂上・忉利天の善見城に住むとされる。インドにおける仏伝図様においては、釈迦に従う帝釈天の様子が描かれることがある。
涅槃経巻33や大智度論巻56には、帝釈天が人間だった頃の名前は憍尸迦(きょうしか、Kauśika)であると説かれている。かつて昔にマガダ国の中で名を摩伽(まか)、姓を憍尸迦という、福徳と大智慧あるバラモンがいた。彼には知人友人が32人いて共に福徳を修して命終して、須弥山の頂の第2の天上に生まれた。摩伽バラモンは天主となり、32人は輔相大臣となったため、彼を含めた33人を三十三天という。これゆえに釈迦仏は彼の本名である憍尸迦と呼ぶという。また、このために彼の妻・舎脂を憍尸迦夫人と呼ぶこともある。
日本では、頭上に宝髻を結び、中国式の礼服を着た二臂像として表現されることが多い。また、着衣下に甲冑をつけることもあり、手には金剛杵や蓮茎などを執ることがある。
密教においては、一面二臂で、冠を戴き、身体には甲冑を着け、手には独鈷杵を執る例が見られる。また、白象にまたがった姿でも表現される。
真言 [編集]
ナウマク サマンダボダナン インダラヤ ソワカ
日本における帝釈天 [編集]
日本最古の遺存例は、法隆寺の玉虫厨子(飛鳥時代)に描かれた「施身聞偈図」(せしんもんげず)に見られるものである。同寺の食堂(じきどう)には梵天・帝釈天の塑像(奈良時代)が安置されている(現在は大宝蔵院に安置)。東大寺法華堂(三月堂)には、乾漆造の梵天・帝釈天像(奈良時代)がある。唐招提寺金堂には、梵天・帝釈天の木像(奈良時代)が見られる。京都・東寺講堂には、密教系の白象に乗った木像(平安時代前期)が安置される。
日本においては庚申の日を縁日とする。
帝釈天を安置する寺院としては、映画『男はつらいよ』で著名な東京都葛飾区の柴又帝釈天(題経寺)がある。18世紀後半に題経寺の本堂を修復している際に、紛失していた帝釈天の板本尊が発見され、その日が庚申だったことから、庚申の日を縁日とするという(詳しくは柴又帝釈天を参照)。
この「帝釈天」は、仏教関連の書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正して下さる協力者を求めています(ポータル 仏教/ウィキプロジェクト 仏教)。
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※新義真言宗
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台密
(〈日本〉天台宗)
如来 菩薩
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大日経 金剛頂経
蘇悉地経 理趣経
思想 基本教義
即身成仏 三密 入我我入
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帝釈天(たいしゃくてん)は、密教の守護神である天部の一つ。バラモン教・ヒンドゥー教・ゾロアスター教の武神(天帝)でヒッタイト条文にもみられるインドラ(梵: इंद्र、इन्द्र)と同一の神。阿修羅の娘である舎脂の夫。梵天と一対の像として表されることが多い。釋提桓因(しゃくだいかんいん)とも記載される。釋は字(あざな)、提桓因は天主のこと。
概説 [編集]
帝釈天(左)と梵天(右)帝釈天の名はインドラの名前の梵: इंद्र、इन्द्र śakro devānām indraḥのうち、śakraを釈と音訳したものに、devaを天と意訳して後部に付け足し、indraを帝と意訳して冠したもの。
本来のインドラ神は、阿修羅とも戦闘したという武勇の神であったが、仏教に取り入れられ、成道前から釈迦を助け、またその説法を聴聞したことで、梵天と並んで仏教の二大護法善神となった(インドラの項を参照)。
四天王などを配下とし、須弥山の頂上・忉利天の善見城に住むとされる。インドにおける仏伝図様においては、釈迦に従う帝釈天の様子が描かれることがある。
涅槃経巻33や大智度論巻56には、帝釈天が人間だった頃の名前は憍尸迦(きょうしか、Kauśika)であると説かれている。かつて昔にマガダ国の中で名を摩伽(まか)、姓を憍尸迦という、福徳と大智慧あるバラモンがいた。彼には知人友人が32人いて共に福徳を修して命終して、須弥山の頂の第2の天上に生まれた。摩伽バラモンは天主となり、32人は輔相大臣となったため、彼を含めた33人を三十三天という。これゆえに釈迦仏は彼の本名である憍尸迦と呼ぶという。また、このために彼の妻・舎脂を憍尸迦夫人と呼ぶこともある。
日本では、頭上に宝髻を結び、中国式の礼服を着た二臂像として表現されることが多い。また、着衣下に甲冑をつけることもあり、手には金剛杵や蓮茎などを執ることがある。
密教においては、一面二臂で、冠を戴き、身体には甲冑を着け、手には独鈷杵を執る例が見られる。また、白象にまたがった姿でも表現される。
真言 [編集]
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日本における帝釈天 [編集]
日本最古の遺存例は、法隆寺の玉虫厨子(飛鳥時代)に描かれた「施身聞偈図」(せしんもんげず)に見られるものである。同寺の食堂(じきどう)には梵天・帝釈天の塑像(奈良時代)が安置されている(現在は大宝蔵院に安置)。東大寺法華堂(三月堂)には、乾漆造の梵天・帝釈天像(奈良時代)がある。唐招提寺金堂には、梵天・帝釈天の木像(奈良時代)が見られる。京都・東寺講堂には、密教系の白象に乗った木像(平安時代前期)が安置される。
日本においては庚申の日を縁日とする。
帝釈天を安置する寺院としては、映画『男はつらいよ』で著名な東京都葛飾区の柴又帝釈天(題経寺)がある。18世紀後半に題経寺の本堂を修復している際に、紛失していた帝釈天の板本尊が発見され、その日が庚申だったことから、庚申の日を縁日とするという(詳しくは柴又帝釈天を参照)。
この「帝釈天」は、仏教関連の書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正して下さる協力者を求めています(ポータル 仏教/ウィキプロジェクト 仏教)。
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柴又帝釈天
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柴又帝釈天
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柴又帝釈天
帝釈堂(2005年撮影)
所在地 東京都葛飾区柴又七丁目10番3号
位置 北緯35度45分30.24秒
東経139度52分41.52秒
山号 経栄山
宗派 日蓮宗
本尊 大曼荼羅
創建年 寛永6年(1629年)
開基 禅那院日忠、題経院日栄
正式名 経栄山 題経寺
表・話・編・歴
柴又帝釈天(しばまたたいしゃくてん)は、東京都葛飾区柴又七丁目にある日蓮宗の寺院の通称である。正式の山号寺号は経栄山題経寺(きょうえいざん だいきょうじ)である。 尚、「帝釈天」とは本来の意味では仏教の守護神である天部の一つを指すが、日本においてはこの柴又帝釈天を指す場合も多い。
目次 [非表示]
1 概要
2 歴史
3 境内
4 交通
5 関連項目
6 外部リンク
概要 [編集]
江戸時代初期(17世紀前半)の寛永6年(1629年)に禅那院日忠および題経院日栄という2名の僧によって開創された日蓮宗寺院である。18世紀末、9世住職の日敬(にっきょう)の頃から当寺の帝釈天が信仰を集めるようになり、「柴又帝釈天」として知られるようになった。帝釈天の縁日は庚申の日とされ、庚申信仰とも関連して多くの参詣人を集めるようになった。
近代以降も夏目漱石の『彼岸過迄』をはじめ多くの文芸作品に登場し、東京近郊(当時は東京ではなかった)の名所として扱われた。20世紀後半以降は、人気映画シリーズ『男はつらいよ』の渥美清演じる主人公・車寅次郎(寅さん)ゆかりの寺として知られるようになる。年始や庚申の日(縁日)は非常に賑わい、映画『男はつらいよ』シリーズ制作中は、観光バスの団体客が大勢訪れたこともあるが、同シリーズの終焉に伴い、参拝客、観光客が年々減少している。
「柴又帝釈天」の通称で専ら呼ばれるところから、帝釈天が当寺の本尊と思われがちだが、日蓮宗寺院としての本尊は、帝釈堂の隣の祖師堂に安置する「大曼荼羅」(中央に「南無妙法蓮華経」の題目を大書し、その周囲に諸々の仏、菩薩、天、神などの名を書したもの)である。また、当寺が柴又七福神のうちの毘沙門天にあたることから、「帝釈天=毘沙門天」と解説する資料が散見されるが、帝釈天と毘沙門天はその起源を全く異にする別々の尊格であり、柴又七福神の毘沙門天は、帝釈天の脇に安置される多聞天(別名毘沙門天)を指すと解される。
歴史 [編集]
縁起によれば、題経寺の創建は江戸時代初期の寛永6年(1629年)で、開山は中山法華経寺(千葉県市川市)19世の禅那院日忠とされている。なお、寺の説明によれば、実際に寺を開いたのは日忠の弟子にあたる題経院日栄であるとされる。本堂右手にある釈迦堂(開山堂)に日栄の木像が安置されていることからも、この日栄という僧が実質的な開山であると思われる。
題経寺の中興の祖とされているのが9世住職の亨貞院日敬(こうていいんにっきょう)という僧であり、彼は一時行方不明になっていた「帝釈天の板本尊」を再発見した人物であるとされている。日敬自ら記した縁起によれば、この寺には宗祖日蓮が自ら刻んだという伝承のある帝釈天の板本尊があったが、長年所在不明になっていた。それが、日敬の時代に、本堂の修理を行ったところ、棟木の上から発見されたという。この板本尊は片面に「南無妙法蓮華経」の題目と法華経薬王品の要文、片面には右手に剣を持った帝釈天像を表したもので、これが発見されたのが安永8年(1779年)の庚申の日であったことから60日に一度の庚申の日が縁日となった。それから4年ほど経った天明3年(1783年)、日敬は自ら板本尊を背負って江戸の町を歩き、天明の大飢饉に苦しむ人々に拝ませたところ、不思議な効験があったため、柴又帝釈天への信仰が広まっていったという。柴又帝釈天が著名になり、門前町が形成されるのもこの時代からと思われる。近隣に数軒ある川魚料理の老舗もおおむねこの頃(18世紀末)の創業を伝えている。
境内 [編集]
京成電鉄柴又駅前から参道が伸びている。参道の両側には名物の草だんごや塩せんべいを売る店、老舗の川魚料理店などが軒を連ねている。参道の突き当たりに二天門が建ち、正面に帝釈堂、右に祖師堂(旧本堂)、その右手前に釈迦堂(開山堂)、本堂裏手に大客殿などが建つ。境内はさほど広くなく、建物は大部分が明治以降の建築である。二天門、帝釈堂などは彩色を施さない素木造のため一見地味に見えるが、細部には精巧な装飾彫刻が施されている。
二天門
明治29年(1896年)の建立。入母屋造瓦葺の楼門(2階建て門)で、屋根には唐破風と千鳥破風を付す。柱上の貫などには浮き彫りの装飾彫刻を施す。初層左右には四天王のうちの増長天および広目天の二天を安置し、門の名はこれに由来する。二天像は平安時代の作とされ、門の建立時に同じ日蓮宗の妙国寺(大阪府堺市)から寄贈されたものである。
帝釈堂
二天門を入った境内正面に位置する。手前の拝殿と奥の内殿から成り、ともに入母屋造瓦葺で、拝殿屋根には唐破風と大ぶりの千鳥破風を付す。内殿は大正4年(1915年)、拝殿は昭和4年(1929年)の完成。内殿には帝釈天の板本尊を安置し、左右に四天王のうちの持国天と多聞天(毘沙門天)を安置する(四天王の残り2体は二天門に安置)。内殿外側には全面に浮き彫りの装飾彫刻が施されている。
彫刻ギャラリー彫刻ギャラリー
帝釈堂内殿の外部は東・北・西の全面が装飾彫刻で覆われており、中でも胴羽目板の法華経説話の浮き彫り10面が著名である。これは法華経に説かれる代表的な説話10話を選び視覚化したもので、大正11年(1922年)から昭和9年(1934年)にかけて、加藤寅之助ら10人の彫刻師が1面ずつ分担制作した。この羽目板の上方には十二支と天人、下方には千羽鶴が表され、高欄(縁)より下の部分には花鳥および亀を浮き彫りで表す。これらの彫刻を保護するため、内殿は建物ごとガラスの壁で覆われ、見学者用の通路を設け、「彫刻ギャラリー」と称して一般公開している(「彫刻ギャラリー」と大客殿、庭園の見学は有料)。
祖師堂(本堂)
帝釈堂の向かって右に建つ。帝釈堂と同様、入母屋造の拝殿と内殿が前後に並んで建つ。こちらが日蓮宗寺院としての本来の本堂であり、本尊は大曼荼羅である。
釈迦堂(開山堂)
江戸末期に建立された、寺内最古の建築であり、奈良時代作という釈迦如来立像と、開山日栄、中興の祖日敬の木像を安置する。
大客殿
本堂裏に位置する。昭和4年の完成で、入母屋造瓦葺、平屋建の左右に細長い建築である。東京都の選定歴史的建造物になっている。座敷4室を左右1列に配し、これらの手前には庭に面しガラス障子を立て込んだ廊下がある。座敷のうちもっとも奥に位置する「頂経の間」の「南天の床柱」は、日本一のものといわれ、直径30センチ、滋賀県の伊吹山にあった樹齢約1,500年の南天の自然木を使用したものである。
邃渓園(すいけいえん)
大客殿前に広がる池泉式庭園で、昭和40年(1965年)、向島の庭師永井楽山の設計による。庭園への立ち入りは禁止されているが、周囲に設けられた屋根付きの廊下から見ることができる。
交通 [編集]
京成金町線柴又駅から徒歩数分 - 正月など多客期は混雑する。
京成バス(金町駅~柴又帝釈天~新柴又駅~京成小岩駅入口~小岩駅)柴又帝釈天バス停下車徒歩数分
北総鉄道北総線新柴又駅から徒歩約15分
矢切の渡し柴又側船着場より徒歩約7分
関連項目 [編集]
ウィキメディア・コモンズには、柴又帝釈天に関連するカテゴリがあります。男はつらいよ
帝釈天
笠智衆
日本の寺院一覧
日本の音風景100選
外部リンク [編集]
柴又帝釈天公式ホームページ
「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E5%8F%88%E5%B8%9D%E9%87%88%E5%A4%A9」より作成
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柴又帝釈天
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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柴又帝釈天
帝釈堂(2005年撮影)
所在地 東京都葛飾区柴又七丁目10番3号
位置 北緯35度45分30.24秒
東経139度52分41.52秒
山号 経栄山
宗派 日蓮宗
本尊 大曼荼羅
創建年 寛永6年(1629年)
開基 禅那院日忠、題経院日栄
正式名 経栄山 題経寺
表・話・編・歴
柴又帝釈天(しばまたたいしゃくてん)は、東京都葛飾区柴又七丁目にある日蓮宗の寺院の通称である。正式の山号寺号は経栄山題経寺(きょうえいざん だいきょうじ)である。 尚、「帝釈天」とは本来の意味では仏教の守護神である天部の一つを指すが、日本においてはこの柴又帝釈天を指す場合も多い。
目次 [非表示]
1 概要
2 歴史
3 境内
4 交通
5 関連項目
6 外部リンク
概要 [編集]
江戸時代初期(17世紀前半)の寛永6年(1629年)に禅那院日忠および題経院日栄という2名の僧によって開創された日蓮宗寺院である。18世紀末、9世住職の日敬(にっきょう)の頃から当寺の帝釈天が信仰を集めるようになり、「柴又帝釈天」として知られるようになった。帝釈天の縁日は庚申の日とされ、庚申信仰とも関連して多くの参詣人を集めるようになった。
近代以降も夏目漱石の『彼岸過迄』をはじめ多くの文芸作品に登場し、東京近郊(当時は東京ではなかった)の名所として扱われた。20世紀後半以降は、人気映画シリーズ『男はつらいよ』の渥美清演じる主人公・車寅次郎(寅さん)ゆかりの寺として知られるようになる。年始や庚申の日(縁日)は非常に賑わい、映画『男はつらいよ』シリーズ制作中は、観光バスの団体客が大勢訪れたこともあるが、同シリーズの終焉に伴い、参拝客、観光客が年々減少している。
「柴又帝釈天」の通称で専ら呼ばれるところから、帝釈天が当寺の本尊と思われがちだが、日蓮宗寺院としての本尊は、帝釈堂の隣の祖師堂に安置する「大曼荼羅」(中央に「南無妙法蓮華経」の題目を大書し、その周囲に諸々の仏、菩薩、天、神などの名を書したもの)である。また、当寺が柴又七福神のうちの毘沙門天にあたることから、「帝釈天=毘沙門天」と解説する資料が散見されるが、帝釈天と毘沙門天はその起源を全く異にする別々の尊格であり、柴又七福神の毘沙門天は、帝釈天の脇に安置される多聞天(別名毘沙門天)を指すと解される。
歴史 [編集]
縁起によれば、題経寺の創建は江戸時代初期の寛永6年(1629年)で、開山は中山法華経寺(千葉県市川市)19世の禅那院日忠とされている。なお、寺の説明によれば、実際に寺を開いたのは日忠の弟子にあたる題経院日栄であるとされる。本堂右手にある釈迦堂(開山堂)に日栄の木像が安置されていることからも、この日栄という僧が実質的な開山であると思われる。
題経寺の中興の祖とされているのが9世住職の亨貞院日敬(こうていいんにっきょう)という僧であり、彼は一時行方不明になっていた「帝釈天の板本尊」を再発見した人物であるとされている。日敬自ら記した縁起によれば、この寺には宗祖日蓮が自ら刻んだという伝承のある帝釈天の板本尊があったが、長年所在不明になっていた。それが、日敬の時代に、本堂の修理を行ったところ、棟木の上から発見されたという。この板本尊は片面に「南無妙法蓮華経」の題目と法華経薬王品の要文、片面には右手に剣を持った帝釈天像を表したもので、これが発見されたのが安永8年(1779年)の庚申の日であったことから60日に一度の庚申の日が縁日となった。それから4年ほど経った天明3年(1783年)、日敬は自ら板本尊を背負って江戸の町を歩き、天明の大飢饉に苦しむ人々に拝ませたところ、不思議な効験があったため、柴又帝釈天への信仰が広まっていったという。柴又帝釈天が著名になり、門前町が形成されるのもこの時代からと思われる。近隣に数軒ある川魚料理の老舗もおおむねこの頃(18世紀末)の創業を伝えている。
境内 [編集]
京成電鉄柴又駅前から参道が伸びている。参道の両側には名物の草だんごや塩せんべいを売る店、老舗の川魚料理店などが軒を連ねている。参道の突き当たりに二天門が建ち、正面に帝釈堂、右に祖師堂(旧本堂)、その右手前に釈迦堂(開山堂)、本堂裏手に大客殿などが建つ。境内はさほど広くなく、建物は大部分が明治以降の建築である。二天門、帝釈堂などは彩色を施さない素木造のため一見地味に見えるが、細部には精巧な装飾彫刻が施されている。
二天門
明治29年(1896年)の建立。入母屋造瓦葺の楼門(2階建て門)で、屋根には唐破風と千鳥破風を付す。柱上の貫などには浮き彫りの装飾彫刻を施す。初層左右には四天王のうちの増長天および広目天の二天を安置し、門の名はこれに由来する。二天像は平安時代の作とされ、門の建立時に同じ日蓮宗の妙国寺(大阪府堺市)から寄贈されたものである。
帝釈堂
二天門を入った境内正面に位置する。手前の拝殿と奥の内殿から成り、ともに入母屋造瓦葺で、拝殿屋根には唐破風と大ぶりの千鳥破風を付す。内殿は大正4年(1915年)、拝殿は昭和4年(1929年)の完成。内殿には帝釈天の板本尊を安置し、左右に四天王のうちの持国天と多聞天(毘沙門天)を安置する(四天王の残り2体は二天門に安置)。内殿外側には全面に浮き彫りの装飾彫刻が施されている。
彫刻ギャラリー彫刻ギャラリー
帝釈堂内殿の外部は東・北・西の全面が装飾彫刻で覆われており、中でも胴羽目板の法華経説話の浮き彫り10面が著名である。これは法華経に説かれる代表的な説話10話を選び視覚化したもので、大正11年(1922年)から昭和9年(1934年)にかけて、加藤寅之助ら10人の彫刻師が1面ずつ分担制作した。この羽目板の上方には十二支と天人、下方には千羽鶴が表され、高欄(縁)より下の部分には花鳥および亀を浮き彫りで表す。これらの彫刻を保護するため、内殿は建物ごとガラスの壁で覆われ、見学者用の通路を設け、「彫刻ギャラリー」と称して一般公開している(「彫刻ギャラリー」と大客殿、庭園の見学は有料)。
祖師堂(本堂)
帝釈堂の向かって右に建つ。帝釈堂と同様、入母屋造の拝殿と内殿が前後に並んで建つ。こちらが日蓮宗寺院としての本来の本堂であり、本尊は大曼荼羅である。
釈迦堂(開山堂)
江戸末期に建立された、寺内最古の建築であり、奈良時代作という釈迦如来立像と、開山日栄、中興の祖日敬の木像を安置する。
大客殿
本堂裏に位置する。昭和4年の完成で、入母屋造瓦葺、平屋建の左右に細長い建築である。東京都の選定歴史的建造物になっている。座敷4室を左右1列に配し、これらの手前には庭に面しガラス障子を立て込んだ廊下がある。座敷のうちもっとも奥に位置する「頂経の間」の「南天の床柱」は、日本一のものといわれ、直径30センチ、滋賀県の伊吹山にあった樹齢約1,500年の南天の自然木を使用したものである。
邃渓園(すいけいえん)
大客殿前に広がる池泉式庭園で、昭和40年(1965年)、向島の庭師永井楽山の設計による。庭園への立ち入りは禁止されているが、周囲に設けられた屋根付きの廊下から見ることができる。
交通 [編集]
京成金町線柴又駅から徒歩数分 - 正月など多客期は混雑する。
京成バス(金町駅~柴又帝釈天~新柴又駅~京成小岩駅入口~小岩駅)柴又帝釈天バス停下車徒歩数分
北総鉄道北総線新柴又駅から徒歩約15分
矢切の渡し柴又側船着場より徒歩約7分
関連項目 [編集]
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帝釈天
笠智衆
日本の寺院一覧
日本の音風景100選
外部リンク [編集]
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柴又
柴又
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション, 検索
日本 > 東京都 > 葛飾区 >
柴又帝釈天柴又(しばまた)は、東京都葛飾区東部にある地名である。古くから題経寺(柴又帝釈天)の門前町として知られていたが、映画『男はつらいよ』の舞台となったことでさらに広く認知されるようになった。郵便番号は125-0052である。江戸川対岸の千葉県松戸市・矢切地区とを結ぶ渡し船「矢切の渡し」の渡し場がある。
目次 [非表示]
1 地理
2 歴史
3 ギャラリー
4 交通
4.1 鉄道
4.2 路線バス
4.3 道路・橋梁
5 施設
6 史跡
7 柴又出身の有名人
地理 [編集]
江戸川の西岸に位置し、対岸は千葉県である。概ね住宅地からなるが、新柴又駅周辺には農地が存在する。北には金町が隣接し、北東に金町浄水場がある。東は江戸川の対岸に千葉県の下矢切が、南に鎌倉が、西に高砂と新宿がある。帝釈天界隈は、環境省の「日本の音風景100選」に選定されている。
歴史 [編集]
帝釈天参道沿いの商店街正倉院に残る養老5年(721年)「下総国葛飾郡大嶋郷戸籍」に記されている「嶋俣里」(しままたのり)の比定地である。男165人、女205人の42戸370人が居住していたという。以後「嶋俣」の地名は応永5年(1398年)の葛西御厨田数注文に至るまで文書に多数見受けられ、永禄2年(1559年)の小田原衆所領役帳において初めて「柴俣」(しばまた)が登場する。
近代に入り、南葛飾郡柴又村と号したが、貧しい村は小学校を作ることができなかったため、子供を金町小学校に通学させるために、ほどなくして同郡金町村と併合して同村の一字となった。昭和7年、東京市に併合され葛飾区柴又町と名乗り、題経寺界隈を1丁目とし他2および3丁目を設けた。 昭和42年、住居表示の変更が行われ、同区新宿町4丁目の半部を併合。新域に柴又1~3丁目と町名を付し、旧町を同4~7丁目と改めて今日に至っている。 そのために、いまだに「柴又町内会」には柴又2丁目と3丁目は含まれておらず、別途「北野町内会」が組織されている。
柴又八幡神社の社殿下付近は「柴又八幡神社古墳」と呼ばれる古墳である。
ギャラリー [編集]
柴又駅
車寅次郎の銅像(柴又駅前)
新柴又駅
交通 [編集]
鉄道 [編集]
6~7丁目には団子を売る店が多い京成電鉄
金町線 : 柴又駅
北総鉄道
北総線 : 新柴又駅
京成本線・京成金町線・北総鉄道北総線の京成高砂駅も徒歩圏内にある。
路線バス [編集]
京成バス
柴又帝釈天バス停
柴又六丁目バス停
柴又小学校バス停
新柴又駅バス停
京成タウンバス
古録天神バス停
柴又一丁目バス停
道路・橋梁 [編集]
東京都道307号王子金町江戸川線(柴又街道)
東京都道451号江戸川堤防線
東京都道468号堀切橋金町浄水場線
施設 [編集]
区役所出張所
葛飾区柴又区民サービスコーナー(柴又一丁目)
警察・消防
東京消防庁金町消防署柴又出張所(柴又五丁目)
警視庁亀有警察署柴又交番(柴又六丁目)
警視庁亀有警察署柴又二丁目交番(柴又二丁目)
郵便局
葛飾柴又郵便局(柴又四丁目)
葛飾柴又一郵便局(柴又一丁目)
教育・保育
区立北住吉幼稚園(柴又二丁目)
区立東柴又幼稚園(柴又五丁目)
柴又帝釈天付属ルンビニー幼稚園(柴又七丁目)
区立白鷺保育園(柴又三丁目)
社会福祉法人北野保育園(柴又二丁目)
社会福祉法人柴又学園保育園(柴又四丁目)
社会福祉法人ひかり学園保育園(柴又六丁目)
区立北野小学校(柴又三丁目)
区立柴又小学校(柴又四丁目)
区立東柴又小学校(柴又五丁目)
区立桜道中学校(柴又四丁目)
観光
葛飾区観光文化センター・葛飾柴又寅さん記念館(柴又6-22-19)
葛飾区山本亭(柴又7-19-32)
ウィキメディア・コモンズには、柴又に関連するカテゴリがあります。 史跡 [編集]
題経寺(柴又帝釈天)
矢切の渡し
細川たかしのヒット曲「矢切の渡し」でも知られる。
柴又出身の有名人 [編集]
門馬良(演歌歌手、RKBラジオパーソナリティ)
高城剛(ハイパーメディアクリエーター)
[隠す]表・話・編・歴葛飾区の町名
本田地域 宝町 | 立石 | 東立石 | 東四つ木 | 四つ木
奥戸地域 奥戸 | 鎌倉 | 新小岩 | 高砂 | 西新小岩 | 東新小岩 | 細田
南綾瀬地域 お花茶屋 | 小菅 | 東堀切 | 堀切
亀青地域 青戸 | 亀有 | 白鳥 | 西亀有
新宿地域 新宿 | 南水元
金町地域 金町 | 金町浄水場 | 柴又 | 東金町
水元地域 西水元 | 東水元 | 水元 | 水元公園 | 南水元
この「柴又」は日本の町・字に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正などして下さる協力者を求めています(PJ:日本の町・字)。
この項目「柴又」は、東京都に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Portal:日本の都道府県/東京都)。
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カテゴリ: 葛飾区の地理 | 男はつらいよシリーズ | 日本の町・字
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柴又帝釈天柴又(しばまた)は、東京都葛飾区東部にある地名である。古くから題経寺(柴又帝釈天)の門前町として知られていたが、映画『男はつらいよ』の舞台となったことでさらに広く認知されるようになった。郵便番号は125-0052である。江戸川対岸の千葉県松戸市・矢切地区とを結ぶ渡し船「矢切の渡し」の渡し場がある。
目次 [非表示]
1 地理
2 歴史
3 ギャラリー
4 交通
4.1 鉄道
4.2 路線バス
4.3 道路・橋梁
5 施設
6 史跡
7 柴又出身の有名人
地理 [編集]
江戸川の西岸に位置し、対岸は千葉県である。概ね住宅地からなるが、新柴又駅周辺には農地が存在する。北には金町が隣接し、北東に金町浄水場がある。東は江戸川の対岸に千葉県の下矢切が、南に鎌倉が、西に高砂と新宿がある。帝釈天界隈は、環境省の「日本の音風景100選」に選定されている。
歴史 [編集]
帝釈天参道沿いの商店街正倉院に残る養老5年(721年)「下総国葛飾郡大嶋郷戸籍」に記されている「嶋俣里」(しままたのり)の比定地である。男165人、女205人の42戸370人が居住していたという。以後「嶋俣」の地名は応永5年(1398年)の葛西御厨田数注文に至るまで文書に多数見受けられ、永禄2年(1559年)の小田原衆所領役帳において初めて「柴俣」(しばまた)が登場する。
近代に入り、南葛飾郡柴又村と号したが、貧しい村は小学校を作ることができなかったため、子供を金町小学校に通学させるために、ほどなくして同郡金町村と併合して同村の一字となった。昭和7年、東京市に併合され葛飾区柴又町と名乗り、題経寺界隈を1丁目とし他2および3丁目を設けた。 昭和42年、住居表示の変更が行われ、同区新宿町4丁目の半部を併合。新域に柴又1~3丁目と町名を付し、旧町を同4~7丁目と改めて今日に至っている。 そのために、いまだに「柴又町内会」には柴又2丁目と3丁目は含まれておらず、別途「北野町内会」が組織されている。
柴又八幡神社の社殿下付近は「柴又八幡神社古墳」と呼ばれる古墳である。
ギャラリー [編集]
柴又駅
車寅次郎の銅像(柴又駅前)
新柴又駅
交通 [編集]
鉄道 [編集]
6~7丁目には団子を売る店が多い京成電鉄
金町線 : 柴又駅
北総鉄道
北総線 : 新柴又駅
京成本線・京成金町線・北総鉄道北総線の京成高砂駅も徒歩圏内にある。
路線バス [編集]
京成バス
柴又帝釈天バス停
柴又六丁目バス停
柴又小学校バス停
新柴又駅バス停
京成タウンバス
古録天神バス停
柴又一丁目バス停
道路・橋梁 [編集]
東京都道307号王子金町江戸川線(柴又街道)
東京都道451号江戸川堤防線
東京都道468号堀切橋金町浄水場線
施設 [編集]
区役所出張所
葛飾区柴又区民サービスコーナー(柴又一丁目)
警察・消防
東京消防庁金町消防署柴又出張所(柴又五丁目)
警視庁亀有警察署柴又交番(柴又六丁目)
警視庁亀有警察署柴又二丁目交番(柴又二丁目)
郵便局
葛飾柴又郵便局(柴又四丁目)
葛飾柴又一郵便局(柴又一丁目)
教育・保育
区立北住吉幼稚園(柴又二丁目)
区立東柴又幼稚園(柴又五丁目)
柴又帝釈天付属ルンビニー幼稚園(柴又七丁目)
区立白鷺保育園(柴又三丁目)
社会福祉法人北野保育園(柴又二丁目)
社会福祉法人柴又学園保育園(柴又四丁目)
社会福祉法人ひかり学園保育園(柴又六丁目)
区立北野小学校(柴又三丁目)
区立柴又小学校(柴又四丁目)
区立東柴又小学校(柴又五丁目)
区立桜道中学校(柴又四丁目)
観光
葛飾区観光文化センター・葛飾柴又寅さん記念館(柴又6-22-19)
葛飾区山本亭(柴又7-19-32)
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題経寺(柴又帝釈天)
矢切の渡し
細川たかしのヒット曲「矢切の渡し」でも知られる。
柴又出身の有名人 [編集]
門馬良(演歌歌手、RKBラジオパーソナリティ)
高城剛(ハイパーメディアクリエーター)
[隠す]表・話・編・歴葛飾区の町名
本田地域 宝町 | 立石 | 東立石 | 東四つ木 | 四つ木
奥戸地域 奥戸 | 鎌倉 | 新小岩 | 高砂 | 西新小岩 | 東新小岩 | 細田
南綾瀬地域 お花茶屋 | 小菅 | 東堀切 | 堀切
亀青地域 青戸 | 亀有 | 白鳥 | 西亀有
新宿地域 新宿 | 南水元
金町地域 金町 | 金町浄水場 | 柴又 | 東金町
水元地域 西水元 | 東水元 | 水元 | 水元公園 | 南水元
この「柴又」は日本の町・字に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正などして下さる協力者を求めています(PJ:日本の町・字)。
この項目「柴又」は、東京都に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Portal:日本の都道府県/東京都)。
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