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庚申信仰
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現在までに伝わる庚申信仰(こうしんしんこう)とは、中国道教の説く「三尸説(さんしせつ)」をもとに、仏教とくに密教・神道・修験道・呪術的な医学や、日本の民間のさまざまな信仰や習俗などが複雑にからみあった複合信仰である。
庚申 [編集]
庚申とは、「干支(かんし、えと)」すなわち「十干(じっかん)」・「十二支(じゅうにし)」の組み合わせの一つである。十干とは、甲(きのえ)・乙(きのと)・丙(ひのえ)・丁(ひのと)・戊(つちのえ)・己(つちのと)・庚(かのえ)・辛(かのと)・壬(みずのえ)・癸(みずのと)である。また十二支とは、子(ね)・丑(うし)・寅(とら)・卯(う)・辰(たつ)・巳(み)・午(うま)・未(ひつじ)・申(さる)・酉(とり)・戌(いぬ)・亥(い)であり、干支は都合60通りの組み合わせで表される。
陰陽五行説では、十干の庚は陽の金、十二支の申は陽の金で、比和(:同気が重なる)とされている。干支であるので、年(西暦年を60で割り切れる年)をはじめ、月(西暦年の下1桁が3・8(十干が癸・戊)の年の7月)、さらに日(60日ごと)がそれぞれに相当する。庚申の年・日は金気が天地に充満して、人の心が冷酷になりやすいとされた。庚申に続く辛酉も金性が重なり、かつ辛は陰の気なので冷酷さがより増すとされた。
庚申信仰 [編集]
具体的には、庚申の日に禁忌(きんき)行事を中心とする信仰があり、日本には古く上代に体系的ではないが移入されたとされている。『入唐求法巡礼行』838年(承和5年)11月26日の条に〈夜、人みな睡らず。本国正月庚中の夜と同じ〉とあり、おそらく8世紀末には「守庚申(しゅこうしん)」と呼ばれる行事が始まっていたと思われる。すなわち守庚申とは、庚申の夜には謹慎して眠らずに過ごすという行いである。
歴史 [編集]
平安時代の貴族社会においては、この夜を過ごす際に、碁・詩歌・管弦の遊びを催す「庚申御遊(こうしんぎょゆう)」と称する宴をはるのが貴族の習いであった。9世紀末から10世紀の頃には、庚申の御遊は恒例化していたらしい。やがて時には酒なども振る舞われるようになり、庚申本来の趣旨からは外れた遊興的な要素が強くなったようである。 鎌倉・室町時代になると、この風習は上層武士階級へと拡がりを見せるようになった。『吾妻鏡』(鎌倉幕府の記録書)にも守庚申の記事が散見される。また資料としてはやや不適切かとも思われるが、『柏崎物語』によると織田信長をはじめ柴田勝家ら重臣20余人が揃って庚申の酒席を行ったとある。さらに度々途中で厠に立った明智光秀を鎗を持って追いかけ、「いかにきんかん頭、なぜ中座したか」と責めたともある。
やがて守庚申は、庚申待(こうしんまち)と名を変え、一般の夜待と同じように会食談義を行って徹宵する風習として伝わった。庚申待とは、“庚申祭”あるいは“庚申を守る”の訛ったものとか、当時流行していた“日待・月待”といった行事と同じく、夜明かしで神仏を祀ることから「待」といったのではないかと推測される。(いにしえのカミ祀りは夜に行うものであった。)
庚申待が一般に広まったのがいつ頃かは不明だが、15世紀の後半になると、守庚申の際の勤行や功徳を説いた『庚申縁起』が僧侶の手でつくられ、庚申信仰は仏教と結びついた。仏教と結びついた信仰では、諸仏が本尊視され始めることになり、行いを共にする「庚申講」が組織され、講の成果として「庚申塔」の前身にあたる「庚申板碑」が造立されだした。また「日吉(ひえ)山王信仰」とも習合することにより、室町時代の後期から建立が始まる「庚申(供養)塔」や「碑」には、「申待(さるまち)」と記したり、山王の神使である猿を描くものが著しくなる。
このように本来の庚申信仰は、神仏習合の流れの中で、猿を共通項にした新たな信仰へと変化していることが伺われる。つまり神なり仏なりを供養することで禍から逃れ、現世利益を得ようとするものである。やがては宮中でも、庚申の本尊を祀るという形へと変化がみられるようになった。
仏教式の庚申信仰が一般に流布した江戸時代は、庚申信仰史上最も多彩かつ盛んな時期となった。大正時代以降は急速にその信仰が失われた。
ちなみに仏教では庚申の本尊を、青面金剛および帝釈天に、神道では猿田彦神としている場合が多い。これは庚申の「申」が猿田彦の猿と結び付けられたものと考えられる。また猿が庚申の使いとされ、庚申塔には「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿が彫られることが多かった。
いずれにせよ、この夜慎ましくして眠らずに過ごすという概念は、比較的受け継がれている。また男女同床せぬとか、結婚を禁ずるとか、この日結ばれてできた子供に盗人の性格があると恐れられたりする因習もある。また地域によっては、同志相寄って催す講も続けられている。それらは互助機関として機能したり、さらには村の常会として利用されたりすることもある。
この「庚申信仰」は、仏教関連の書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正して下さる協力者を求めています(ポータル 仏教/ウィキプロジェクト 仏教)。
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庚申待
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庚申待(こうしんまち)とは、日本の民間信仰で、庚申の日に神仏を祀って徹夜をする行事である。宵庚申、おさる待ちなどともいう。庚申待は通常、村単位など集団で行われ、その集り(講)のことを庚申講(こうしんこう)、庚申会(こうしんえ)、お日待ちなどという。
概要 [編集]
庚申待は中国の民俗宗教である道教の伝説に基づくものである。人間の頭と腹と足には三尸(さんし)の虫(彭侯子・彭常子・命児子)がいて、いつもその人の悪事を監視しているという。三尸の虫は庚申の日の夜の寝ている間に天に登って天帝(「閻魔大王」とも言う)に日頃の行いを報告し、罪状によっては寿命が縮められたり、その人の死後に地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕とされると言われていた。そこで、三尸の虫が天に登れないようにするため、この夜は村中の人達が集まって神々を祀り、その後、寝ずに酒盛りなどをして夜を明かした。これが庚申待である。庚申待を3年18回続けた記念に建立されたのが庚申塔で、今も各地に残っている。
日本には古くから伝わっていたものと考えられており、『枕草子』にも庚申待の話が登場する。江戸時代に入ってから、民間にも広まった。庚申信仰は今では廃れたが、親睦会などに名前を変えて今でも庚申待を行っている地方もある。
仏教では、庚申の本尊を青面金剛および帝釈天に、神道では猿田彦神としている。これは、庚申の「申」が猿田彦の猿と結び付けられたものと考えられる。また、猿が庚申の使いとされ、庚申塔には「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿が彫られることが多かった。山王信仰(三猿信仰)もここから生まれたとされている。
関連項目 [編集]
庚申信仰
干支
庚申街道
庚申堂
庚申寺
十王信仰
さるぼぼ
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庚申待(こうしんまち)とは、日本の民間信仰で、庚申の日に神仏を祀って徹夜をする行事である。宵庚申、おさる待ちなどともいう。庚申待は通常、村単位など集団で行われ、その集り(講)のことを庚申講(こうしんこう)、庚申会(こうしんえ)、お日待ちなどという。
概要 [編集]
庚申待は中国の民俗宗教である道教の伝説に基づくものである。人間の頭と腹と足には三尸(さんし)の虫(彭侯子・彭常子・命児子)がいて、いつもその人の悪事を監視しているという。三尸の虫は庚申の日の夜の寝ている間に天に登って天帝(「閻魔大王」とも言う)に日頃の行いを報告し、罪状によっては寿命が縮められたり、その人の死後に地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕とされると言われていた。そこで、三尸の虫が天に登れないようにするため、この夜は村中の人達が集まって神々を祀り、その後、寝ずに酒盛りなどをして夜を明かした。これが庚申待である。庚申待を3年18回続けた記念に建立されたのが庚申塔で、今も各地に残っている。
日本には古くから伝わっていたものと考えられており、『枕草子』にも庚申待の話が登場する。江戸時代に入ってから、民間にも広まった。庚申信仰は今では廃れたが、親睦会などに名前を変えて今でも庚申待を行っている地方もある。
仏教では、庚申の本尊を青面金剛および帝釈天に、神道では猿田彦神としている。これは、庚申の「申」が猿田彦の猿と結び付けられたものと考えられる。また、猿が庚申の使いとされ、庚申塔には「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿が彫られることが多かった。山王信仰(三猿信仰)もここから生まれたとされている。
関連項目 [編集]
庚申信仰
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庚申
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干支
1
甲子 2
乙丑 3
丙寅 4
丁卯 5
戊辰 6
己巳 7
庚午 8
辛未 9
壬申 10
癸酉
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甲戌 12
乙亥 13
丙子 14
丁丑 15
戊寅 16
己卯 17
庚辰 18
辛巳 19
壬午 20
癸未
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甲申 22
乙酉 23
丙戌 24
丁亥 25
戊子 26
己丑 27
庚寅 28
辛卯 29
壬辰 30
癸巳
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甲午 32
乙未 33
丙申 34
丁酉 35
戊戌 36
己亥 37
庚子 38
辛丑 39
壬寅 40
癸卯
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甲辰 42
乙巳 43
丙午 44
丁未 45
戊申 46
己酉 47
庚戌 48
辛亥 49
壬子 50
癸丑
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甲寅 52
乙卯 53
丙辰 54
丁巳 55
戊午 56
己未 57
庚申 58
辛酉 59
壬戌 60
癸亥
庚申(かのえさる、こうしん)は、干支の一つ。
干支の組み合わせの57番目で、前は己未、次は辛酉である。陰陽五行では、十干の庚は陽の金、十二支の申は陽の金で、比和である。
目次 [非表示]
1 庚申の年
2 庚申の月
3 庚申の日
3.1 選日
4 関連項目
庚申の年 [編集]
西暦と神武暦では、60の倍数の年が庚申の年となる。
庚申は干・支ともに金性であることから、庚申の年・日は金気が天地に充満して、人の心が冷酷になりやすいとされた。庚申に続く辛酉も金性が重なり、かつ辛は陰の気なので冷酷さがより増すとされた。そのため、庚申・辛酉は政治的変革が起こるとされ、それを防ぐために2年続けて改元が行われることも多かった。例えば万延元年(1860年)と文久元年(1861年)などである。
庚申の年 1千年紀 2千年紀 3千年紀
60年
120年
180年
240年
300年
360年
420年
480年
540年
600年
660年
720年
780年
840年
900年
960年
1020年
1080年
1140年
1200年
1260年
1320年
1380年
1440年
1500年
1560年
1620年
1680年
1740年
1800年
1860年
1920年
1980年
2040年
2100年
2160年
2220年
2280年
2340年
2400年
2460年
2520年
2580年
2640年
2700年
2760年
2820年
2880年
2940年
3000年
庚申の月 [編集]
西暦年の下1桁が3・8(十干が癸・戊)の年の7月が庚申の月となる。ただしここでいう月は、旧暦の月や節月(立秋から白露の前日まで)を適用する場合もある。
庚申の日 [編集]
庚申の日には庚申待(庚申講)が行われた。庚申信仰を参照。
庚申の日は帝釈天の縁日である。
選日 [編集]
庚申の日は八専の6日目(間日を除く)である。
関連項目 [編集]
柴又帝釈天
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干支
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甲子 2
乙丑 3
丙寅 4
丁卯 5
戊辰 6
己巳 7
庚午 8
辛未 9
壬申 10
癸酉
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甲戌 12
乙亥 13
丙子 14
丁丑 15
戊寅 16
己卯 17
庚辰 18
辛巳 19
壬午 20
癸未
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甲申 22
乙酉 23
丙戌 24
丁亥 25
戊子 26
己丑 27
庚寅 28
辛卯 29
壬辰 30
癸巳
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甲午 32
乙未 33
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丁酉 35
戊戌 36
己亥 37
庚子 38
辛丑 39
壬寅 40
癸卯
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甲辰 42
乙巳 43
丙午 44
丁未 45
戊申 46
己酉 47
庚戌 48
辛亥 49
壬子 50
癸丑
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甲寅 52
乙卯 53
丙辰 54
丁巳 55
戊午 56
己未 57
庚申 58
辛酉 59
壬戌 60
癸亥
庚申(かのえさる、こうしん)は、干支の一つ。
干支の組み合わせの57番目で、前は己未、次は辛酉である。陰陽五行では、十干の庚は陽の金、十二支の申は陽の金で、比和である。
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1 庚申の年
2 庚申の月
3 庚申の日
3.1 選日
4 関連項目
庚申の年 [編集]
西暦と神武暦では、60の倍数の年が庚申の年となる。
庚申は干・支ともに金性であることから、庚申の年・日は金気が天地に充満して、人の心が冷酷になりやすいとされた。庚申に続く辛酉も金性が重なり、かつ辛は陰の気なので冷酷さがより増すとされた。そのため、庚申・辛酉は政治的変革が起こるとされ、それを防ぐために2年続けて改元が行われることも多かった。例えば万延元年(1860年)と文久元年(1861年)などである。
庚申の年 1千年紀 2千年紀 3千年紀
60年
120年
180年
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300年
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2220年
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2340年
2400年
2460年
2520年
2580年
2640年
2700年
2760年
2820年
2880年
2940年
3000年
庚申の月 [編集]
西暦年の下1桁が3・8(十干が癸・戊)の年の7月が庚申の月となる。ただしここでいう月は、旧暦の月や節月(立秋から白露の前日まで)を適用する場合もある。
庚申の日 [編集]
庚申の日には庚申待(庚申講)が行われた。庚申信仰を参照。
庚申の日は帝釈天の縁日である。
選日 [編集]
庚申の日は八専の6日目(間日を除く)である。
関連項目 [編集]
柴又帝釈天
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柴又駅
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柴又駅
駅舎(2005年4月)
しばまた - Shibamata
◄京成高砂 (1.0km)(1.5km) 京成金町►
所在地 東京都葛飾区柴又四丁目8番14号
所属事業者 京成電鉄
所属路線 金町線
キロ程 1.0km(京成高砂起点)
駅構造 地上駅
ホーム 相対式 2面2線
乗降人員
-統計年度- 9,715人/日
-2008年-
開業年月日 帝釈人車鉄道→帝釈人車軌道:
1899年(明治32年)12月17日
京成電気軌道→京成電鉄:
1912年(大正元年)11月3日
この表について[表示]この表はテンプレートを用いて表示しています。編集の仕方はTemplate:駅情報をごらんください。
柴又駅(しばまたえき)は、東京都葛飾区柴又四丁目にある京成電鉄金町線の駅。
目次 [非表示]
1 駅構造
1.1 のりば
2 利用状況
3 駅周辺
4 路線バス
5 歴史
6 隣の駅
7 その他
8 関連項目
9 外部リンク
駅構造 [編集]
相対式ホーム2面2線を有する地上駅。ホーム有効長は6両編成分であるが、発着する列車はすべて4両編成である。高砂方が複線、金町方が単線となっている。
駅舎は高砂方面ホーム側にある。改装時には山田洋次の意見も得て、純和風の外観となった。金町方面ホームとは構内踏切により連絡している。多客時には金町方面ホーム側の臨時改札口も併用される。
のりば [編集]
1 ■■金町線 京成高砂・京成上野・押上方面
2 ■■金町線 京成金町方面
利用状況 [編集]
2008年度の1日平均乗降人員は9,715人である。
駅周辺 [編集]
駅前に立つ車寅次郎の銅像(柴又駅)周辺は山田洋次が監督し、渥美清が主演した劇映画『男はつらいよ』の舞台となった。
駅前では渥美清が演じた「寅さん」(車寅次郎)の銅像がある。この銅像は渥美清の死により『男はつらいよ』シリーズが終了したことにより、「寅さん」および渥美清をたたえて立てられたものである。駅前から始まる参道を抜けると柴又帝釈天があり、年始や庚申の日には多くの参拝客でにぎわう。この辺りは住宅などの密集地の上、道路の道幅は狭く余裕がない。
東京都水道局金町浄水場
題経寺(柴又帝釈天)
葛飾区観光文化センター
葛飾柴又寅さん記念館
葛飾区山本亭
柴又八幡神社
江戸川
矢切の渡し柴又側船着場 - 駅から帝釈天周辺を経由する必要があり、最短でも徒歩で11分程度である。混雑時に参道を通る場合はそれ以上かかるが、それでも矢切側を含めて当駅が最寄駅である。
葛飾区柴又区民サービスコーナー
柴又地域センター
葛飾柴又郵便局
葛飾柴又一郵便局
路線バス [編集]
柴又帝釈天バス停
京成バス
金町駅方面
小55 金町駅、小56 戸ヶ崎操車場(金町駅経由)
小岩駅方面
[小55][小56] 小岩駅(新柴又駅・京成小岩駅入口経由)
※金町線列車より本数が多い。
歴史 [編集]
帝釈人車鉄道
1899年(明治32年)12月17日 - 帝釈人車鉄道(後の帝釈人車軌道)の駅として開業。
京成
1912年(大正元年)11月3日 - 京成電気軌道の駅として開業。開業当時は終点であった。
1913年(大正2年)10月21日 - 柴又 - 金町(後の京成金町駅)間延伸により中間駅になる。
1945年(昭和20年) - 社名変更により京成電鉄の駅となる。
1997年(平成9年) - 「関東の駅百選」に選定。選定理由は「ご存知寅さんの『男はつらいよ』の雰囲気を考慮した瓦葺き風の駅舎」。
1962年に松戸駅から当駅までの延伸の敷設免許が新京成電鉄に下りたが、一部用地が取得できず実現しないまま1970年代までに免許失効した。
隣の駅 [編集]
■■京成電鉄
金町線
京成高砂駅 - 柴又駅 - 京成金町駅
その他 [編集]
『男はつらいよ』シリーズのほぼ全作に登場するため、車両や駅の変遷を映像からたどることができる。
関連項目 [編集]
日本の鉄道駅一覧
こちら葛飾区亀有公園前派出所
外部リンク [編集]
京成電鉄柴又(時刻表)
京成バス柴又帝釈天バス停時刻表
葛飾区観光サイト柴又 - 駅周辺の画像など多数
[隠す] 金町線
(京成上野・青砥方面<<)京成高砂 - 柴又 - 京成金町
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柴又駅
駅舎(2005年4月)
しばまた - Shibamata
◄京成高砂 (1.0km)(1.5km) 京成金町►
所在地 東京都葛飾区柴又四丁目8番14号
所属事業者 京成電鉄
所属路線 金町線
キロ程 1.0km(京成高砂起点)
駅構造 地上駅
ホーム 相対式 2面2線
乗降人員
-統計年度- 9,715人/日
-2008年-
開業年月日 帝釈人車鉄道→帝釈人車軌道:
1899年(明治32年)12月17日
京成電気軌道→京成電鉄:
1912年(大正元年)11月3日
この表について[表示]この表はテンプレートを用いて表示しています。編集の仕方はTemplate:駅情報をごらんください。
柴又駅(しばまたえき)は、東京都葛飾区柴又四丁目にある京成電鉄金町線の駅。
目次 [非表示]
1 駅構造
1.1 のりば
2 利用状況
3 駅周辺
4 路線バス
5 歴史
6 隣の駅
7 その他
8 関連項目
9 外部リンク
駅構造 [編集]
相対式ホーム2面2線を有する地上駅。ホーム有効長は6両編成分であるが、発着する列車はすべて4両編成である。高砂方が複線、金町方が単線となっている。
駅舎は高砂方面ホーム側にある。改装時には山田洋次の意見も得て、純和風の外観となった。金町方面ホームとは構内踏切により連絡している。多客時には金町方面ホーム側の臨時改札口も併用される。
のりば [編集]
1 ■■金町線 京成高砂・京成上野・押上方面
2 ■■金町線 京成金町方面
利用状況 [編集]
2008年度の1日平均乗降人員は9,715人である。
駅周辺 [編集]
駅前に立つ車寅次郎の銅像(柴又駅)周辺は山田洋次が監督し、渥美清が主演した劇映画『男はつらいよ』の舞台となった。
駅前では渥美清が演じた「寅さん」(車寅次郎)の銅像がある。この銅像は渥美清の死により『男はつらいよ』シリーズが終了したことにより、「寅さん」および渥美清をたたえて立てられたものである。駅前から始まる参道を抜けると柴又帝釈天があり、年始や庚申の日には多くの参拝客でにぎわう。この辺りは住宅などの密集地の上、道路の道幅は狭く余裕がない。
東京都水道局金町浄水場
題経寺(柴又帝釈天)
葛飾区観光文化センター
葛飾柴又寅さん記念館
葛飾区山本亭
柴又八幡神社
江戸川
矢切の渡し柴又側船着場 - 駅から帝釈天周辺を経由する必要があり、最短でも徒歩で11分程度である。混雑時に参道を通る場合はそれ以上かかるが、それでも矢切側を含めて当駅が最寄駅である。
葛飾区柴又区民サービスコーナー
柴又地域センター
葛飾柴又郵便局
葛飾柴又一郵便局
路線バス [編集]
柴又帝釈天バス停
京成バス
金町駅方面
小55 金町駅、小56 戸ヶ崎操車場(金町駅経由)
小岩駅方面
[小55][小56] 小岩駅(新柴又駅・京成小岩駅入口経由)
※金町線列車より本数が多い。
歴史 [編集]
帝釈人車鉄道
1899年(明治32年)12月17日 - 帝釈人車鉄道(後の帝釈人車軌道)の駅として開業。
京成
1912年(大正元年)11月3日 - 京成電気軌道の駅として開業。開業当時は終点であった。
1913年(大正2年)10月21日 - 柴又 - 金町(後の京成金町駅)間延伸により中間駅になる。
1945年(昭和20年) - 社名変更により京成電鉄の駅となる。
1997年(平成9年) - 「関東の駅百選」に選定。選定理由は「ご存知寅さんの『男はつらいよ』の雰囲気を考慮した瓦葺き風の駅舎」。
1962年に松戸駅から当駅までの延伸の敷設免許が新京成電鉄に下りたが、一部用地が取得できず実現しないまま1970年代までに免許失効した。
隣の駅 [編集]
■■京成電鉄
金町線
京成高砂駅 - 柴又駅 - 京成金町駅
その他 [編集]
『男はつらいよ』シリーズのほぼ全作に登場するため、車両や駅の変遷を映像からたどることができる。
関連項目 [編集]
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柴又帝釈天
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柴又帝釈天
帝釈堂(2005年撮影)
所在地 東京都葛飾区柴又七丁目10番3号
位置 北緯35度45分30.24秒
東経139度52分41.52秒
山号 経栄山
宗派 日蓮宗
本尊 大曼荼羅
創建年 寛永6年(1629年)
開基 禅那院日忠、題経院日栄
正式名 経栄山 題経寺
表・話・編・歴
柴又帝釈天(しばまたたいしゃくてん)は、東京都葛飾区柴又七丁目にある日蓮宗の寺院の通称である。正式の山号寺号は経栄山題経寺(きょうえいざん だいきょうじ)である。 尚、「帝釈天」とは本来の意味では仏教の守護神である天部の一つを指すが、日本においてはこの柴又帝釈天を指す場合も多い。
目次 [非表示]
1 概要
2 歴史
3 境内
4 交通
5 関連項目
6 外部リンク
概要 [編集]
江戸時代初期(17世紀前半)の寛永6年(1629年)に禅那院日忠および題経院日栄という2名の僧によって開創された日蓮宗寺院である。18世紀末、9世住職の日敬(にっきょう)の頃から当寺の帝釈天が信仰を集めるようになり、「柴又帝釈天」として知られるようになった。帝釈天の縁日は庚申の日とされ、庚申信仰とも関連して多くの参詣人を集めるようになった。
近代以降も夏目漱石の『彼岸過迄』をはじめ多くの文芸作品に登場し、東京近郊(当時は東京ではなかった)の名所として扱われた。20世紀後半以降は、人気映画シリーズ『男はつらいよ』の渥美清演じる主人公・車寅次郎(寅さん)ゆかりの寺として知られるようになる。年始や庚申の日(縁日)は非常に賑わい、映画『男はつらいよ』シリーズ制作中は、観光バスの団体客が大勢訪れたこともあるが、同シリーズの終焉に伴い、参拝客、観光客が年々減少している。
「柴又帝釈天」の通称で専ら呼ばれるところから、帝釈天が当寺の本尊と思われがちだが、日蓮宗寺院としての本尊は、帝釈堂の隣の祖師堂に安置する「大曼荼羅」(中央に「南無妙法蓮華経」の題目を大書し、その周囲に諸々の仏、菩薩、天、神などの名を書したもの)である。また、当寺が柴又七福神のうちの毘沙門天にあたることから、「帝釈天=毘沙門天」と解説する資料が散見されるが、帝釈天と毘沙門天はその起源を全く異にする別々の尊格であり、柴又七福神の毘沙門天は、帝釈天の脇に安置される多聞天(別名毘沙門天)を指すと解される。
歴史 [編集]
縁起によれば、題経寺の創建は江戸時代初期の寛永6年(1629年)で、開山は中山法華経寺(千葉県市川市)19世の禅那院日忠とされている。なお、寺の説明によれば、実際に寺を開いたのは日忠の弟子にあたる題経院日栄であるとされる。本堂右手にある釈迦堂(開山堂)に日栄の木像が安置されていることからも、この日栄という僧が実質的な開山であると思われる。
題経寺の中興の祖とされているのが9世住職の亨貞院日敬(こうていいんにっきょう)という僧であり、彼は一時行方不明になっていた「帝釈天の板本尊」を再発見した人物であるとされている。日敬自ら記した縁起によれば、この寺には宗祖日蓮が自ら刻んだという伝承のある帝釈天の板本尊があったが、長年所在不明になっていた。それが、日敬の時代に、本堂の修理を行ったところ、棟木の上から発見されたという。この板本尊は片面に「南無妙法蓮華経」の題目と法華経薬王品の要文、片面には右手に剣を持った帝釈天像を表したもので、これが発見されたのが安永8年(1779年)の庚申の日であったことから60日に一度の庚申の日が縁日となった。それから4年ほど経った天明3年(1783年)、日敬は自ら板本尊を背負って江戸の町を歩き、天明の大飢饉に苦しむ人々に拝ませたところ、不思議な効験があったため、柴又帝釈天への信仰が広まっていったという。柴又帝釈天が著名になり、門前町が形成されるのもこの時代からと思われる。近隣に数軒ある川魚料理の老舗もおおむねこの頃(18世紀末)の創業を伝えている。
境内 [編集]
京成電鉄柴又駅前から参道が伸びている。参道の両側には名物の草だんごや塩せんべいを売る店、老舗の川魚料理店などが軒を連ねている。参道の突き当たりに二天門が建ち、正面に帝釈堂、右に祖師堂(旧本堂)、その右手前に釈迦堂(開山堂)、本堂裏手に大客殿などが建つ。境内はさほど広くなく、建物は大部分が明治以降の建築である。二天門、帝釈堂などは彩色を施さない素木造のため一見地味に見えるが、細部には精巧な装飾彫刻が施されている。
二天門
明治29年(1896年)の建立。入母屋造瓦葺の楼門(2階建て門)で、屋根には唐破風と千鳥破風を付す。柱上の貫などには浮き彫りの装飾彫刻を施す。初層左右には四天王のうちの増長天および広目天の二天を安置し、門の名はこれに由来する。二天像は平安時代の作とされ、門の建立時に同じ日蓮宗の妙国寺(大阪府堺市)から寄贈されたものである。
帝釈堂
二天門を入った境内正面に位置する。手前の拝殿と奥の内殿から成り、ともに入母屋造瓦葺で、拝殿屋根には唐破風と大ぶりの千鳥破風を付す。内殿は大正4年(1915年)、拝殿は昭和4年(1929年)の完成。内殿には帝釈天の板本尊を安置し、左右に四天王のうちの持国天と多聞天(毘沙門天)を安置する(四天王の残り2体は二天門に安置)。内殿外側には全面に浮き彫りの装飾彫刻が施されている。
彫刻ギャラリー彫刻ギャラリー
帝釈堂内殿の外部は東・北・西の全面が装飾彫刻で覆われており、中でも胴羽目板の法華経説話の浮き彫り10面が著名である。これは法華経に説かれる代表的な説話10話を選び視覚化したもので、大正11年(1922年)から昭和9年(1934年)にかけて、加藤寅之助ら10人の彫刻師が1面ずつ分担制作した。この羽目板の上方には十二支と天人、下方には千羽鶴が表され、高欄(縁)より下の部分には花鳥および亀を浮き彫りで表す。これらの彫刻を保護するため、内殿は建物ごとガラスの壁で覆われ、見学者用の通路を設け、「彫刻ギャラリー」と称して一般公開している(「彫刻ギャラリー」と大客殿、庭園の見学は有料)。
祖師堂(本堂)
帝釈堂の向かって右に建つ。帝釈堂と同様、入母屋造の拝殿と内殿が前後に並んで建つ。こちらが日蓮宗寺院としての本来の本堂であり、本尊は大曼荼羅である。
釈迦堂(開山堂)
江戸末期に建立された、寺内最古の建築であり、奈良時代作という釈迦如来立像と、開山日栄、中興の祖日敬の木像を安置する。
大客殿
本堂裏に位置する。昭和4年の完成で、入母屋造瓦葺、平屋建の左右に細長い建築である。東京都の選定歴史的建造物になっている。座敷4室を左右1列に配し、これらの手前には庭に面しガラス障子を立て込んだ廊下がある。座敷のうちもっとも奥に位置する「頂経の間」の「南天の床柱」は、日本一のものといわれ、直径30センチ、滋賀県の伊吹山にあった樹齢約1,500年の南天の自然木を使用したものである。
邃渓園(すいけいえん)
大客殿前に広がる池泉式庭園で、昭和40年(1965年)、向島の庭師永井楽山の設計による。庭園への立ち入りは禁止されているが、周囲に設けられた屋根付きの廊下から見ることができる。
交通 [編集]
京成金町線柴又駅から徒歩数分 - 正月など多客期は混雑する。
京成バス(金町駅~柴又帝釈天~新柴又駅~京成小岩駅入口~小岩駅)柴又帝釈天バス停下車徒歩数分
北総鉄道北総線新柴又駅から徒歩約15分
矢切の渡し柴又側船着場より徒歩約7分
関連項目 [編集]
ウィキメディア・コモンズには、柴又帝釈天に関連するカテゴリがあります。男はつらいよ
帝釈天
笠智衆
日本の寺院一覧
日本の音風景100選
外部リンク [編集]
柴又帝釈天公式ホームページ
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帝釈堂(2005年撮影)
所在地 東京都葛飾区柴又七丁目10番3号
位置 北緯35度45分30.24秒
東経139度52分41.52秒
山号 経栄山
宗派 日蓮宗
本尊 大曼荼羅
創建年 寛永6年(1629年)
開基 禅那院日忠、題経院日栄
正式名 経栄山 題経寺
表・話・編・歴
柴又帝釈天(しばまたたいしゃくてん)は、東京都葛飾区柴又七丁目にある日蓮宗の寺院の通称である。正式の山号寺号は経栄山題経寺(きょうえいざん だいきょうじ)である。 尚、「帝釈天」とは本来の意味では仏教の守護神である天部の一つを指すが、日本においてはこの柴又帝釈天を指す場合も多い。
目次 [非表示]
1 概要
2 歴史
3 境内
4 交通
5 関連項目
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概要 [編集]
江戸時代初期(17世紀前半)の寛永6年(1629年)に禅那院日忠および題経院日栄という2名の僧によって開創された日蓮宗寺院である。18世紀末、9世住職の日敬(にっきょう)の頃から当寺の帝釈天が信仰を集めるようになり、「柴又帝釈天」として知られるようになった。帝釈天の縁日は庚申の日とされ、庚申信仰とも関連して多くの参詣人を集めるようになった。
近代以降も夏目漱石の『彼岸過迄』をはじめ多くの文芸作品に登場し、東京近郊(当時は東京ではなかった)の名所として扱われた。20世紀後半以降は、人気映画シリーズ『男はつらいよ』の渥美清演じる主人公・車寅次郎(寅さん)ゆかりの寺として知られるようになる。年始や庚申の日(縁日)は非常に賑わい、映画『男はつらいよ』シリーズ制作中は、観光バスの団体客が大勢訪れたこともあるが、同シリーズの終焉に伴い、参拝客、観光客が年々減少している。
「柴又帝釈天」の通称で専ら呼ばれるところから、帝釈天が当寺の本尊と思われがちだが、日蓮宗寺院としての本尊は、帝釈堂の隣の祖師堂に安置する「大曼荼羅」(中央に「南無妙法蓮華経」の題目を大書し、その周囲に諸々の仏、菩薩、天、神などの名を書したもの)である。また、当寺が柴又七福神のうちの毘沙門天にあたることから、「帝釈天=毘沙門天」と解説する資料が散見されるが、帝釈天と毘沙門天はその起源を全く異にする別々の尊格であり、柴又七福神の毘沙門天は、帝釈天の脇に安置される多聞天(別名毘沙門天)を指すと解される。
歴史 [編集]
縁起によれば、題経寺の創建は江戸時代初期の寛永6年(1629年)で、開山は中山法華経寺(千葉県市川市)19世の禅那院日忠とされている。なお、寺の説明によれば、実際に寺を開いたのは日忠の弟子にあたる題経院日栄であるとされる。本堂右手にある釈迦堂(開山堂)に日栄の木像が安置されていることからも、この日栄という僧が実質的な開山であると思われる。
題経寺の中興の祖とされているのが9世住職の亨貞院日敬(こうていいんにっきょう)という僧であり、彼は一時行方不明になっていた「帝釈天の板本尊」を再発見した人物であるとされている。日敬自ら記した縁起によれば、この寺には宗祖日蓮が自ら刻んだという伝承のある帝釈天の板本尊があったが、長年所在不明になっていた。それが、日敬の時代に、本堂の修理を行ったところ、棟木の上から発見されたという。この板本尊は片面に「南無妙法蓮華経」の題目と法華経薬王品の要文、片面には右手に剣を持った帝釈天像を表したもので、これが発見されたのが安永8年(1779年)の庚申の日であったことから60日に一度の庚申の日が縁日となった。それから4年ほど経った天明3年(1783年)、日敬は自ら板本尊を背負って江戸の町を歩き、天明の大飢饉に苦しむ人々に拝ませたところ、不思議な効験があったため、柴又帝釈天への信仰が広まっていったという。柴又帝釈天が著名になり、門前町が形成されるのもこの時代からと思われる。近隣に数軒ある川魚料理の老舗もおおむねこの頃(18世紀末)の創業を伝えている。
境内 [編集]
京成電鉄柴又駅前から参道が伸びている。参道の両側には名物の草だんごや塩せんべいを売る店、老舗の川魚料理店などが軒を連ねている。参道の突き当たりに二天門が建ち、正面に帝釈堂、右に祖師堂(旧本堂)、その右手前に釈迦堂(開山堂)、本堂裏手に大客殿などが建つ。境内はさほど広くなく、建物は大部分が明治以降の建築である。二天門、帝釈堂などは彩色を施さない素木造のため一見地味に見えるが、細部には精巧な装飾彫刻が施されている。
二天門
明治29年(1896年)の建立。入母屋造瓦葺の楼門(2階建て門)で、屋根には唐破風と千鳥破風を付す。柱上の貫などには浮き彫りの装飾彫刻を施す。初層左右には四天王のうちの増長天および広目天の二天を安置し、門の名はこれに由来する。二天像は平安時代の作とされ、門の建立時に同じ日蓮宗の妙国寺(大阪府堺市)から寄贈されたものである。
帝釈堂
二天門を入った境内正面に位置する。手前の拝殿と奥の内殿から成り、ともに入母屋造瓦葺で、拝殿屋根には唐破風と大ぶりの千鳥破風を付す。内殿は大正4年(1915年)、拝殿は昭和4年(1929年)の完成。内殿には帝釈天の板本尊を安置し、左右に四天王のうちの持国天と多聞天(毘沙門天)を安置する(四天王の残り2体は二天門に安置)。内殿外側には全面に浮き彫りの装飾彫刻が施されている。
彫刻ギャラリー彫刻ギャラリー
帝釈堂内殿の外部は東・北・西の全面が装飾彫刻で覆われており、中でも胴羽目板の法華経説話の浮き彫り10面が著名である。これは法華経に説かれる代表的な説話10話を選び視覚化したもので、大正11年(1922年)から昭和9年(1934年)にかけて、加藤寅之助ら10人の彫刻師が1面ずつ分担制作した。この羽目板の上方には十二支と天人、下方には千羽鶴が表され、高欄(縁)より下の部分には花鳥および亀を浮き彫りで表す。これらの彫刻を保護するため、内殿は建物ごとガラスの壁で覆われ、見学者用の通路を設け、「彫刻ギャラリー」と称して一般公開している(「彫刻ギャラリー」と大客殿、庭園の見学は有料)。
祖師堂(本堂)
帝釈堂の向かって右に建つ。帝釈堂と同様、入母屋造の拝殿と内殿が前後に並んで建つ。こちらが日蓮宗寺院としての本来の本堂であり、本尊は大曼荼羅である。
釈迦堂(開山堂)
江戸末期に建立された、寺内最古の建築であり、奈良時代作という釈迦如来立像と、開山日栄、中興の祖日敬の木像を安置する。
大客殿
本堂裏に位置する。昭和4年の完成で、入母屋造瓦葺、平屋建の左右に細長い建築である。東京都の選定歴史的建造物になっている。座敷4室を左右1列に配し、これらの手前には庭に面しガラス障子を立て込んだ廊下がある。座敷のうちもっとも奥に位置する「頂経の間」の「南天の床柱」は、日本一のものといわれ、直径30センチ、滋賀県の伊吹山にあった樹齢約1,500年の南天の自然木を使用したものである。
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交通 [編集]
京成金町線柴又駅から徒歩数分 - 正月など多客期は混雑する。
京成バス(金町駅~柴又帝釈天~新柴又駅~京成小岩駅入口~小岩駅)柴又帝釈天バス停下車徒歩数分
北総鉄道北総線新柴又駅から徒歩約15分
矢切の渡し柴又側船着場より徒歩約7分
関連項目 [編集]
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文学賞
作家
詩人・小説家
その他作家
早乙女 勝元(さおとめ かつもと、1932年3月26日 - )は、日本の作家。東京都足立区出身。
目次 [非表示]
1 人物
2 著書
3 編者
4 全集
5 関連資料
6 漫画原作
7 映画スタッフ
8 映画・ドラマ・舞台化作品
9 役職
10 受賞歴
11 関連項目
12 外部リンク
人物 [編集]
東京の働く姿を描いた作品が多くまた反戦・平和をライフテーマとする。
1945年3月9日に東京大空襲を経験。
1946年に義務教育を終え、鐘紡附属東京理化学研究所(当時)に少年工として勤務する。かたわら旧制都立第七中学校(現・都立墨田川高校)夜間部に入学。
1952年に「下町の故郷」で直木賞候補。
1962年に音楽大学を卒業したばかりの金子直枝と結婚。直枝は小学校教師となる。
1970年に「東京空襲を記録する会」を結成。
2002年に東京都江東区にオープンした東京大空襲・戦災資料センター館長就任。
ベトナム戦争のときの空爆被害の救援にも力をいれている。
山田洋次に「下町の太陽」制作に際してアドバイスをしており、また山田を初めて葛飾柴又に連れて行った。
著書 [編集]
『下町の故郷』(1952年、葦出版社)
『ハモニカ工場』(1956年、未來社)
『美しい橋』(1957年、文理書院)
『秘密』(1960年、角川書店)
『ゆびきり』(1960年、理論社)
『小麦色の仲間たち』(1964年、理論社)
『青春の歯車』(1965年、理論社)
『太陽がほしい!』(上・下、1968年、理論社)
『輝坊といっしょに』(直枝と共著、新日本新書・草の根出版会)
『愛と口笛とぼく』(1968年、東邦出版社→『それぞれの愛』に改題、草の根出版会)
『東京大空襲-昭和二〇年三月十日の記録』(1971年、岩波新書、ルポルタージュ)
『あした私は行く』(1972年、理論社)
『わが街角』(1974年~1976年、新潮社、全5巻)
『共働きはラクじゃないよ』(1974年、草土文化→草の根出版会)
『猫は生きている』(1974年、理論社)
『ベトナムのダーちゃん』(1974年、童心社)
『負元物語』(1978年、理論社)
『おトウの子育て』(1980年、学研)
『戦争と青春』(1991年、講談社)
『パパ ママ バイバイ』(原作、門倉訣・詩、鈴木たくま・画、日本図書センター 2001年2月)
1977年に発生した横浜米軍機墜落事件を題材にした絵本。初版は1979年刊(草土文化→草の根出版会)。劇場用アニメーションも作成された。
ほか
編者 [編集]
『「パパ ママ バイバイ」ノート』(1984年8月、草土文化)
『日本の空襲』(三省堂、全10巻)
全集 [編集]
『早乙女勝元小説選集』(理論社、全12巻)
『早乙女勝元自選集”愛といのちの”記録』(草の根出版会、全12巻)
関連資料 [編集]
人間の記録・第153巻(日本図書センター 2004年8月)
漫画原作 [編集]
ほるぷ平和漫画シリーズ第11巻『炎の街に生きる』(1984年、ほるぷ出版)
東京大空襲・火の瞳(画:政岡としや、1972年、週刊少年マガジン)
山ゆかば!(画:あすなひろし、1970年)
純情・博多っ子戦争(画:長谷川法世、1979年、アクションデラックス)
映画スタッフ [編集]
「下町の太陽」(1963年、松竹、監督:山田洋次)早乙女は原案・構成を協力。
「戦争と青春」(1991年、監督:今井正)早乙女は原作・脚本を担当。
映画・ドラマ・舞台化作品 [編集]
映画
「二人だけの橋」(1958年、東宝、監督:丸山誠治、主演:水野久美・久保明。「美しい橋」が原作。)
「明日をつくる少女」(1958年、松竹、監督:井上和男、主演:桑野みゆき。「ハモニカ工場」が原作。)
「秘密」(1960年、東映、監督:家城巳代治、主演:佐久間良子・江原慎二郎)
「猫は生きている」(1975年、監督:島田開。人形劇。)
「パパ ママ バイバイ」(1975年、監督:設楽博。アニメーション。)
「戦争と青春」(1991年、監督:今井正、主演:工藤夕貴)
「ベトナムのダーちゃん」(1994年、こぶしプロ・テレビ朝日、監督:後藤俊夫、主演:古谷一行)
ドラマ
「秘密」(1962年、NHK、主演:山本學)
「二人だけの橋」(1963年、NETテレビ、主演:関口宏)
「小麦色の仲間たち」(1964年、NHK、監督:今井正、主演:北大路欣也・佐々木愛)
「下町の青春」(1966年、NETテレビ、監督:今井正、主演:坂本九。「小麦色の仲間たち」が原作。)
「秘密」(1975年、NETテレビ、主演:高橋洋子・火野正平)
「美しい橋」(1977年、TBS、主演:山口百恵)
「夫婦さかさま」(1982年、フジテレビジョン、主演:地井武男。「おトウの子育て」が原作。)
舞台
「素晴らしい贈物」(1959年、新協劇団、演出:村山知義。「ハモニカ工場」が原作。後に前進座でも舞台にかかる。)
「小麦色の仲間たち」(1964年、東京芸術座)
「青春の歯車」(1965年、労音自主製作ミュージカル、演出:山本薩夫・加藤盟、主演:九重祐三子)
「秘密」 (1979年、文化座)
役職 [編集]
千葉大学非常勤講師(1991年、1994年)
NHK青年の主張全国コンクール東京地方審査員(1979年)
読売新聞全国綴方コンクール中央審査委員(1980年)
受賞歴 [編集]
1971年 日本ジャーナリスト会議奨励賞(「東京大空襲-昭和二〇年三月十日の記録」)
1975年 菊池寛賞・日本ジャーナリスト会議奨励賞(東京空襲を記録する会「東京大空襲・戦災誌」)
1992年 第15回日本アカデミー賞特別賞(『戦争と青春』で企画賞)
関連項目 [編集]
「私の八月十五日」の会
横浜米軍機墜落事件
外部リンク [編集]
中外日報「生きる活きる」のインタビュー
GKSインタビュー[リンク切れ]
「憲法球状を子供たちに」~ある作家経験から[リンク切れ]
この「早乙女勝元」は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけ項目です。この項目を加筆、訂正等して下さる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
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早乙女 勝元(さおとめ かつもと、1932年3月26日 - )は、日本の作家。東京都足立区出身。
目次 [非表示]
1 人物
2 著書
3 編者
4 全集
5 関連資料
6 漫画原作
7 映画スタッフ
8 映画・ドラマ・舞台化作品
9 役職
10 受賞歴
11 関連項目
12 外部リンク
人物 [編集]
東京の働く姿を描いた作品が多くまた反戦・平和をライフテーマとする。
1945年3月9日に東京大空襲を経験。
1946年に義務教育を終え、鐘紡附属東京理化学研究所(当時)に少年工として勤務する。かたわら旧制都立第七中学校(現・都立墨田川高校)夜間部に入学。
1952年に「下町の故郷」で直木賞候補。
1962年に音楽大学を卒業したばかりの金子直枝と結婚。直枝は小学校教師となる。
1970年に「東京空襲を記録する会」を結成。
2002年に東京都江東区にオープンした東京大空襲・戦災資料センター館長就任。
ベトナム戦争のときの空爆被害の救援にも力をいれている。
山田洋次に「下町の太陽」制作に際してアドバイスをしており、また山田を初めて葛飾柴又に連れて行った。
著書 [編集]
『下町の故郷』(1952年、葦出版社)
『ハモニカ工場』(1956年、未來社)
『美しい橋』(1957年、文理書院)
『秘密』(1960年、角川書店)
『ゆびきり』(1960年、理論社)
『小麦色の仲間たち』(1964年、理論社)
『青春の歯車』(1965年、理論社)
『太陽がほしい!』(上・下、1968年、理論社)
『輝坊といっしょに』(直枝と共著、新日本新書・草の根出版会)
『愛と口笛とぼく』(1968年、東邦出版社→『それぞれの愛』に改題、草の根出版会)
『東京大空襲-昭和二〇年三月十日の記録』(1971年、岩波新書、ルポルタージュ)
『あした私は行く』(1972年、理論社)
『わが街角』(1974年~1976年、新潮社、全5巻)
『共働きはラクじゃないよ』(1974年、草土文化→草の根出版会)
『猫は生きている』(1974年、理論社)
『ベトナムのダーちゃん』(1974年、童心社)
『負元物語』(1978年、理論社)
『おトウの子育て』(1980年、学研)
『戦争と青春』(1991年、講談社)
『パパ ママ バイバイ』(原作、門倉訣・詩、鈴木たくま・画、日本図書センター 2001年2月)
1977年に発生した横浜米軍機墜落事件を題材にした絵本。初版は1979年刊(草土文化→草の根出版会)。劇場用アニメーションも作成された。
ほか
編者 [編集]
『「パパ ママ バイバイ」ノート』(1984年8月、草土文化)
『日本の空襲』(三省堂、全10巻)
全集 [編集]
『早乙女勝元小説選集』(理論社、全12巻)
『早乙女勝元自選集”愛といのちの”記録』(草の根出版会、全12巻)
関連資料 [編集]
人間の記録・第153巻(日本図書センター 2004年8月)
漫画原作 [編集]
ほるぷ平和漫画シリーズ第11巻『炎の街に生きる』(1984年、ほるぷ出版)
東京大空襲・火の瞳(画:政岡としや、1972年、週刊少年マガジン)
山ゆかば!(画:あすなひろし、1970年)
純情・博多っ子戦争(画:長谷川法世、1979年、アクションデラックス)
映画スタッフ [編集]
「下町の太陽」(1963年、松竹、監督:山田洋次)早乙女は原案・構成を協力。
「戦争と青春」(1991年、監督:今井正)早乙女は原作・脚本を担当。
映画・ドラマ・舞台化作品 [編集]
映画
「二人だけの橋」(1958年、東宝、監督:丸山誠治、主演:水野久美・久保明。「美しい橋」が原作。)
「明日をつくる少女」(1958年、松竹、監督:井上和男、主演:桑野みゆき。「ハモニカ工場」が原作。)
「秘密」(1960年、東映、監督:家城巳代治、主演:佐久間良子・江原慎二郎)
「猫は生きている」(1975年、監督:島田開。人形劇。)
「パパ ママ バイバイ」(1975年、監督:設楽博。アニメーション。)
「戦争と青春」(1991年、監督:今井正、主演:工藤夕貴)
「ベトナムのダーちゃん」(1994年、こぶしプロ・テレビ朝日、監督:後藤俊夫、主演:古谷一行)
ドラマ
「秘密」(1962年、NHK、主演:山本學)
「二人だけの橋」(1963年、NETテレビ、主演:関口宏)
「小麦色の仲間たち」(1964年、NHK、監督:今井正、主演:北大路欣也・佐々木愛)
「下町の青春」(1966年、NETテレビ、監督:今井正、主演:坂本九。「小麦色の仲間たち」が原作。)
「秘密」(1975年、NETテレビ、主演:高橋洋子・火野正平)
「美しい橋」(1977年、TBS、主演:山口百恵)
「夫婦さかさま」(1982年、フジテレビジョン、主演:地井武男。「おトウの子育て」が原作。)
舞台
「素晴らしい贈物」(1959年、新協劇団、演出:村山知義。「ハモニカ工場」が原作。後に前進座でも舞台にかかる。)
「小麦色の仲間たち」(1964年、東京芸術座)
「青春の歯車」(1965年、労音自主製作ミュージカル、演出:山本薩夫・加藤盟、主演:九重祐三子)
「秘密」 (1979年、文化座)
役職 [編集]
千葉大学非常勤講師(1991年、1994年)
NHK青年の主張全国コンクール東京地方審査員(1979年)
読売新聞全国綴方コンクール中央審査委員(1980年)
受賞歴 [編集]
1971年 日本ジャーナリスト会議奨励賞(「東京大空襲-昭和二〇年三月十日の記録」)
1975年 菊池寛賞・日本ジャーナリスト会議奨励賞(東京空襲を記録する会「東京大空襲・戦災誌」)
1992年 第15回日本アカデミー賞特別賞(『戦争と青春』で企画賞)
関連項目 [編集]
「私の八月十五日」の会
横浜米軍機墜落事件
外部リンク [編集]
中外日報「生きる活きる」のインタビュー
GKSインタビュー[リンク切れ]
「憲法球状を子供たちに」~ある作家経験から[リンク切れ]
この「早乙女勝元」は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけ項目です。この項目を加筆、訂正等して下さる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
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